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あかるい諦念/5分で読める現代短歌02

おしぼりの熱を押しあてすべて目が見せるまぼろしこの世のことは
/山階 基

 やましなもとい、と読む。いい名前だと思う。一首選ぶのが極めて難しいが、この歌を選んだ。主に歌意と韻律の話を10分弱の分量でします。

 基本的に、わたしが歌を評するときの観点は下記の3つある。(説明はわたしの用法でつけています。異論もあるかと思いますがご容赦ください)

●歌意(かい) : その短歌の意味する内容。視点・着目点、あるいは主義主張。
●修辞(しゅうじ) : 形容, 助詞の用法, 倒置法や擬人化等の技巧。
●韻律(いんりつ) : 黙ってあるいは口に出して読むときの調子。韻とリズム。

 実際のところはまず歌が歌そのものとして胸に迫るのだが、そのようにして得られたわたしだけの感慨をほかの誰かと共有するべく “後付けで” 説明しようと出来るだけ “ロジカルに” 語るとき、まず観点を分類すると便利なのです。(わたしも多分に漏れず、短歌読者は往々にして作者でありがちという背景も影響しているが……)

 山階のこの歌には、特に歌意と韻律の面で強く惹かれている。

おしぼりの熱を押しあてすべて目が見せるまぼろしこの世のことは

 まず歌意。
 歌の主張としては書かれているとおりで、〈すべて目が見せるまぼろしこの世のことは〉。もうこれに尽きる。もちろん、字面としてこの主張は事実ではない。水槽の中の脳と言いたいわけではなく、例えば他の感覚器を考えるだけでもいい。事実として、耳は魚を見ないし、鼻は光を見ない。

 しかし、この主張を、上句が補強する。
〈おしぼりの熱を押しあて〉るのは、目元だろう。この読みは〈すべて目が〉まで読み下すとき導出されるのだが、57577という短歌定型が暗に含みがちな575/77という句切れなどが〈すべて目が〉まで一気に読ませる。実際には〈おしぼり〉を押しあてているのだが、歌の主体(その歌における主人公のような存在。言外の〈私 わたくし〉のこと)にとっては〈おしぼりの熱〉を押しあてていることに注意する。《熱いおしぼり》ではない。だいじなのは〈熱〉なのだ。

 目元に〈おしぼりの熱〉を押しあてる場面といえば、おそらくは外食のお店など。それも、マナー的にあまり高級そうではない。主体が緊張していないことからも、ひとりか、あるいは気心の知れた誰かといるのだと想像できる。居酒屋とかなのかな。
 そのようにリラックスできる場面で、おしぼりを目元に当てる。するとじんわりと熱がひろがっていき、目の強張りや疲労が顕わになる。おしぼりの存在感もあいまって、目に意識が向かう。もちろん目は閉じていて何も見えず、あ~~~と声が漏れそうな心地のなかで周囲の喧騒が遠くなる。

 そのとき、主体にとって〈すべて目が見せるまぼろしこの世のことは〉という感慨は、真実になる。そして、初句から結句までを体感に沿って主体と同化した読者にとっても。科学的事実としてどうかではなく、体感、経験としての真実。

 修辞の面からも、この同化装置としての短歌機能に、〈この世のことは〉とおおきくあいまいな対象を結句に持ってきている倒置法や、漢字とひらがなのバランス感などはよく働いている。この歌に限らず、山階の歌は漢字かなの塩梅がとてもよいと個人的には思う。歌のテンション、文体とよく合っている。

おしぼりの熱を押しあてすべて目が見せるまぼろしこの世のことは

 そして韻律。
 575/77の切れを(もちろん、意味的には〈熱を押しあて/すべて目が〉の二句切れと言えるものの)前提とするリズムが二句三句を一気に読ませるという話はしましたが、小気味よい“おしoshi”の韻や母音の統制も、一役二役買っている。

 〈おしぼりの〉〈押しあて〉で頭韻がドライブをかけ、それを〈まぼろし〉が句の末で受けつつ結句へ続く、この感じ。しかも、それが初句二句5・(3・4)の盛り上がりそうな雰囲気でタイミングよく差し込まれて始まる。さらに〈この世のことは〉母音ooooooaに顕著な、歌全体の母音バランス。世の7割くらいのひとは気持ちよく感じるんじゃないかと思ってしまう。

 短歌はその短さが武器のひとつで、愛唱性が重要なポイントだろう。あくまでも歌なので、その調子が、読者に歌の意味するところ、その体験であるとか思想を、可能な限り淀みなく手渡せるものであることが望ましく思われる。
 それは57577の音を指折り数えるようにしてぴったり収まっている、というようなことではなく、あくまでも読み上げたときの心地よさであり、あるいは歌の意味からすればときに心地悪さでもいい。歌意と修辞と韻律はその実ひとつの歌として不可分だ。

おしぼりの熱を押しあてすべて目が見せるまぼろしこの世のことは

 〈すべて目が見せるまぼろしこの世のことは〉という感慨に至る主体には、何があったのだろう。何があるのだろう。この歌は「長い合宿」という連作(複数の歌をまとめてタイトルをつけた一連)に含まれており、周囲の歌との関連からそういった背景を読み取ることは可能だろう。ここでは一首評として他の歌は射程に含めないが、それでも、どことなくあかるい諦念を感じずにはいられない。〈この世のことは〉という流し方のちからもある。

 この歌に限らず、山階の歌には力が入っていない。衒いがない。時に吹けば飛ぶような身軽さで、飄々としているような、それでいて実直な生活の場面を歌うことに長けている。ときどきは斜に構えるが、その構え方すら素直でいとおしい。

 そういった山階作品のなかで、めずらしい大口を叩くような言い切りのこの歌を、わたしは特に愛してよく口ずさむ。夢だけど夢じゃなかったようなこの世のなかで、なにを大事にできるかと思う。

おしぼりの熱を押しあてすべて目が見せるまぼろしこの世のことは
/山階 基「長い合宿」

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 ちなみに、山階本人もnoteで諸々の告知・発表を行っている。気になった方は要チェックです。

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 ちなみにちなみに、つい先日、待望の第一歌集が出版された。多くの短歌新人賞で次席を獲得し、読者の好みに依らない安定した秀歌性がひろくみとめられる山階基の第一歌集『風にあたる』。装丁もかわいく、新書と同程度の大きさで、歌集としてはかなり手に取りやすい価格。早速の重版らしい。
 一冊、かばんのおともにおすすめです。

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