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ホームスクーリングと私 - NNNドキュメント『自宅ときどき学校 前向き不登校』を見て考えたこと

今日は、10月4日に放送されたNNNドキュメント『自宅ときどき学校 前向き不登校』を見ての考えたことを書いておきたいと思います。番組の内容にも少しふれつつ、主にはそれを見て自分のホームスクーリングを振り返って思ったことを書き残しておきたいと思います。

1.NNNドキュメント『自宅ときどき学校 前向き不登校』

コロナの影響で自宅学習を余儀なくされた子どもたちと、急にそれを見守ることになった親御さんたち。安定したネット環境があること、勉強に向かうスペースがあること、そしてそもそも自宅が安心して過ごせる場所であること、などなど、自宅学習をするために必要な条件には色々あります。

学校が通常どおりに機能していたことで上手く隠されていた問題にも色々と気づくこととなった今、「多様な学び」に注目が集まってきています。そんななかで、秋田県五城目町でハイブリットスクーリングに取り組んでいる松浦さん家族の日常が、60分のドキュメンタリー番組として放送されました。

番組は、学校、ホームスクーリング、旅、オンライン、などなど、多様な学びをかけ合わせながら、学んでいく子どもたちと、それに完全伴走する松浦さん夫妻の日常が映し出されています。自宅のリビングでドリルをやったり、町中でみつけたアジサイをじっくり観察したり、時には旅に出てモスクを訪問したり。旅の途中で私の務める東京大学柏キャンパスにも立ち寄ってくれました。

登校か不登校か、というような二項対立的な型にはまったくはまらずに、「主体的に学ぶとはどういことなのか?」というテーマを深く考えさせてくれるとても良い番組でした。

2.ホームスクーリングと私

このnote記事を書いている私も中学と高校にあたる年齢の時間にホームスクーリングをしていました。中学校1年生の二学期(13歳)から学校に行かなくなり、そのあと17歳で高等学校卒業程度認定試験(当時大学入学資格認定試験)を取得し、19歳の時にニュージーランドに留学をするまでの6年ほどを自宅、塾、図書館、そしてアルバイト先で主に時間を過ごしていました。

私のホームスクーリングの経験についてはYahoo!のTHE PAGESに記事にして頂いたものがありますので、ご関心のある方はぜひこちらをご覧頂けると嬉しいです。

こちらの記事にもありますが、私が自宅を中心に学習をしていたときにはまだ「ホームスクーリング」という言葉はなく、私自身、自分のあり方を説明する言葉がないことにとても苦しみました。「中学生」や「高校生」というような社会的な名前がない状態はとても脆いものです。

例えば学生証を持っていないので、図書館やプールで利用カードをつくるときに身分を証明できるものがありません。受付の職員さんが感の良い人で察してくれればまだいいですが、「学校はどうしたの?」と聞いてくる職員さんに当たってしまったら、もうこの状況、ガラスの十代のメンタルにはかなりしんどいものがあります。今思えばですが、そうした脆弱な状態のままで長い時間を過ごしたことが、自分のアイデンティティ形成にとってとても大きな意味を持っていたと思います。

3.ホームスクーラーの日常

ホームスクーリングという言葉に出会う前まで、私は自分のことを「積極的な不登校」と捉えていました。番組タイトルの「前向きな不登校」にも親しみを感じますし、実際に番組で映し出されていた松浦家の学び方も、学年こそ違えど、自分の経験したものにかなり似た空気感がありました。

例えば、朝起きて、朝ごはんを食べたあとに、おもむろに戸棚からタブレットを取り出して数学の問題を解き出したり、本を開いて歴史上の人物について読み出したりしているシーンがありました。あの生活空間と学習空間が同じである感じ、自分もまったく同じでした。

この空間では、何もしなくても誰も何も言いません。これはとても当たり前のことで、なぜかと言うとそこは暮らす空間だからです。そこでぼーっとしてても、その日をただ呼吸をして過ごすだけでも、本当に何も起きません。

ホームスクーリングはそういう空間で自分で学ぶことなので、学校に比べると圧倒的に自由度が高いですが、同時に圧倒的に自分で決めて行動しなければならなりません。このスタイルにはやはり向き不向きがあると思いますし、試してみるにしても学校や塾などとの掛け合わせがはじめやすいかなと思います。

4.行けない理由と行かない理由

ところで、私が中学生だった頃(1998年頃)には、学校に行かない子どもたちは、「何か学校に行けない理由があるのだ」と思われていたと思います。「不登校」や「登校拒否」というような表現が使われることからも、いじめや不安定な家庭環境など、何かしらのネガティブな経験がその背後にあることを匂わせます。

しかし、私の場合には学校の雰囲気に馴染めないという「行けない理由」もありましたが、同時に「行かない理由」もありました。それは特に自宅と塾と図書館で学ぶスタイルができてから、よりはっきりと「行かない理由」となっていき、結果として積極的な不登校になった、という具合です。

あとになって16歳の時にはじめてニュージーランドを旅したとき、たまたま宿泊したゲストハウスのオーナーの息子さんが学校に行かずに自宅で学習していました。どういうことなのかよくわからなかったので拙い英語で聞いてみると、答えは至ってシンプルで、"He's doing homeschooling!(彼はホームスクーリングをしているのよ!)."でした。この応答を聞いたときの衝撃は今でも忘れられません。

そうか!自分がやっているのはhomeschooling(ホームスクーリング)じゃないか!!!

それは、私のやっていたことにはじめて名前が着いた瞬間でした。

ホームスクーリングを選択する人のなかにもいじめを受けた人や、複雑な家庭環境にある人もいるでしょうし、その他の様々な状況にある人たちがいるかと思います。しかし、その状況について詮索すること自体にはほとんど意味がありません。

なぜなら、ホームスクーリングという、自宅を中心とした学校以外の場所で学んでいくということは、手段であって結果ではないからです。これに対して、上述のようなネガティブな経験を背景に伴った不登校や登校拒否は結果です。ホームスクーリングという手段を、私はそれとは知らずに選んでいたようですが、たまたまニュージーランドで名前を得たことで、ぼんやりとしか輪郭が見えなかったそれがくっきりはっきりとつかめるようになりました。

やや簡略化しすぎだとは思いますが、当時も今も、学習についての一般的な捉え方は、学校で学ぶということが最良であり、それに準じて保健室登校やときどき登校するスタイル、かなり間があって通信制教育があると思います。また、塾は学校での学習を補完したり受験への準備をするものであって、学校での学習に代わるものではない。そしてかなり社会的にネガティブなイメージや、掴みどころのない印象を持たれながら、自宅学習(ホームスクーリング)があるかと思います。

コトの本質は、学校も自宅も、塾や通信も、いずれも「学ぶ方法」ということにおいて同じなのだと思います。その中で、ホームスクーリングも学び方の1つとして、学校で学ぶということや他の学び方と、並列の関係性にあるものだと考えています。

しかし、私がホームスクーリングをした20年前から、世の中での学習や学び方についての考え方は、実はほとんど変わっていないのかもしれません。学び方の選択肢は増えたかもしれませんが、それらが並列の関係にあり、それぞれが独立した学びの方法なのだというふうには、まだまだ捉えられていないように思います。

5.異なる学び方をした人たちがもっとたくさんいたら、自然と社会はより寛容になるのではないか

番組のなかで、私は「好きなことや得意な科目だけを学んでいてよいのでしょうか。色々なことをバランスよく勉強したほうがよいのではないでしょうか。」という質問を受けました。それに対して「バランスが取れていると、何が良いのでしょうか。」と答えました。この記事の最後に、少しそう答えた意図を書いておきたいと思います。

学校での学習は基本的に複数の科目について満遍なく網羅するようになっていて、進め方もみんなが同じ学習達成をするように配慮されています。自ら考えさせたり、テーマ設定を自由にしたりと、主体性を育むための空白は取り込まれている一方で、あくまでそれは「学校での学び」という枠のなかのものです。

番組に登場した松浦家の学びは、空間軸だけで見てもとても多様でした。学校、自宅(リビングとキッチン)、オンライン、町中、畑、そして旅。ここに異なる年齢・世代の人たちとのやり取りという時間軸が加わることで、学びは更に多様になります。こうして空間軸と時間軸を学校が提供できるそれよりも圧倒的に広く、外に開くというハイブリットな学びを実践されていました。

もしある社会において学び方が1つしかなければ、その結果として起こることは何でしょうか。私は社会の同質化だと思います。具体的に言えばそれは、万人があらゆる場面で空気が読め、忖度できる社会です。非常に効率的な社会ですが、私はそれは、異質なものの存在を認めることができない不寛容な社会の姿だと思います。

もしある社会において学び方が複数あり、それぞれの学び方が認知・尊重されて並列関係にあるのならば、その結果としてできあがる社会は多様性の高い社会だと思います。それは、万人があらゆる場面で空気がよめず、忖度もできない社会かもしれませんが、異質なものが存在していても誰もその異質性を理由に排除しない寛容な社会ではないかと思うのです。つまり、異なる学び方をした人たちがもっとたくさんいたら、自然と社会はより寛容になるのではないか、そんな仮説が成り立つのではないかなと思っています。

働き方や暮らし方は新しいテクノロジーや価値観が生まれてくるなかで次々と多様化してきているのに、私たちの社会はなぜ学び方については多様なあり方を認められないのでしょうか。

コロナという禍事は私たちに大きな生き方の変化を促しました。この大きなトリガーをきっかけに、多様な学びのあり方も一気に解放され、自由な学び方・生き方がより社会に広まっていけばいいなと思います。

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