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北か南か、そして「裏切り者」に|第1章 イングランドのアメリカ難民|アメリカでの40年間(1821-1861)

Forty Years of American Life 1821-1861
Thomas Low Nichols


北か南か、そして「裏切り者」に

私は「裏切り者」になってしまいました。州の主権を主張することは「反逆罪」でした。独立宣言を引用しても「反逆罪」、人々の権利について語っても「反逆罪」。間違いなくこの「反逆罪」のレッテルを貼る行為は政府のトップにある人々によって行われたのです。彼らに何かしらの利益があったのです。リンカーン氏は「これは神聖な革命であり、我々にはその権利がある」と主張していました。

しかしスワード氏は、連邦を回復するための戦争の愚かさを「まるで、夫が妻に愛する伴侶として一緒に暮らせと強要し、暴力をふるうのと同じだ」と非難しました。またグリーリー氏は、南部に住む600万人の人々には、300万人の入植者が英国に反旗を翻したのと同じように、連邦から分離する権利があると断言しました。

連邦の強さと権利は、その構成員が自らの意志で行動した結束以外のなにものでもないはずなのに、彼らの中にはそのように考えた者はひとりもいなかったようです。私はアメリカ合衆国が公言する憲法を守り、意志を表明したのに、彼らの口から非難される始末でした。彼らは手のひらを返して主義を変え、彼らのいうところの愛国者になりました。私は自分の主義を貫き、その結果「裏切り者」となってしまいました。

しかし、ビジネスを失い損失を被った怒りが高まるにつれ、戦争の狂気と貪欲さが日に日に増していきました。支配的な派閥が軍隊の増加とともに力を誇示し始め、裏切り者として非難された少数派の私たちは、私たちが横領を非難した者たちから復讐されるのを感じ始めました。

例えば、南部を90日以内に征服できるかどうかを疑う新聞は、配達されなくなりました。南部侵略政策に疑問を呈するものであれば、その版は警察に押収されました。もし編集者が「報道は自由だ」という妄想を持ち続けたとしたら、彼はラファイエット砦に送られ、砲台に収容されたでしょう。政府が彼が誰であり、何のために投獄されたのかを忘れるまで、一般兵士の粗末な配給で食いつなぐことになりました。

もしあなたが議論を吹っ掛けられても答えられなかったら、裏切り者と呼ばれるかもしれません。路上で顔を突き合わせる勇気のない敵は、あなたを警官に密告するかもしれません。


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