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探究をめぐって 7.複雑性の科学と他者性


ジェフリー・ウェストの『スケール』と複雑系

ジェフリー・ウェストの『スケール』という話題の著作ですが、内容は、物理学者=生物学者=数学者である筆者の書いた社会学です。一言で言えば、生物学的見地を都市論や企業論に応用する、というものです。そして、ここに通底するテーマは、もちろん複雑系です。

筆者によると、複雑系とは、構成要素(つまり、部分)に関する説明をいくら集積してもその個体(つまり、全体)を説明するには不十分であるような系である、といいます。例えば人間。人間は、脳とか胃や肺など様々な器官を構成要素としていますが、それらについていくら説明をしても人間そのものについて解説したことにはなりません。こうしたとき、人間を複雑系だというのだそうです。

そして、複雑系にはもう一つ特徴があります。それは、構成要素の間の関係はネットワーク理論によって数学的に把握される、というものです。つまり、構成要素の間の諸関係はネットワーク理論によって解析されるが、その相互依存的な関係ゆえに、いくら分析を進めても予測不可能な事態が生じがちであり、結果的に全体そのものについて言及することはできない、ということになります。

ハイゼンベルグの『部分と全体』と柄谷行人の「交通空間」

これを読んで、遠い昔、大学生の頃に読んだハイゼンベルグの『部分と全体』を思い出しました。文科系の私にはとてつもなく難しい本でしたが、とても示唆的な内容だった。しかし、同時に思いだしたのは、柄谷行人『探求』、とくにその第三部の「交通空間」です。ここで柄谷は、交通空間、つまり共同体と共同体の間にある「砂漠」ですが、それは数学的にのみ見いだされる、と書いています。

実際は、柄谷行人がどのような数学をイメージしているかは、正直なところよく分かりません。ミッシュ・セールを引用したりしているのですが、これがまた意味不明。しかし、「無限」を前提にした数学であることは明らかなので、集合論やネットワーク理論のような基礎数学と親和的なものなのだろうと想像します。

ここで、柄谷行人は、都市も交通空間にあるし、個人も、その身体も交通空間だと言っています。国家のような共同体も本来は、都市と都市を結ぶ交通空間にしかなく、そのネットワークが折り返されたもの(自己認識された表象)に過ぎないのです。つまり、交通空間とは、数学的な法則性によって貫かれた無限の様態のある空間であり、ここにおいては内部も外部も、いかなる境界も貫くネットワークがある。経験的なものは、交通空間にあるものが「それ」と表象されるに過ぎません。「それ」と表象されたとき初めて、境界が生じ、自己意識がうまれ、「それ」の内実、つまり概念が生じるのです。

脳や胃などといった器官から構成される人間が複雑系なのは良いとして、ここでいう脳や胃がまた複雑系なのは、言うまでもありません。シナプスやニューロンなどという構成要素をいくら重ねても脳について解説することはできないからです。個体としての人間そのものがネットワークの中にあるように、脳も胃も身体のネットワークにおいてあります。このことは、柄谷だけではなく、ジェフリー・ウェストも言っています。そして、おそらくハイゼンベルクもそうです。

「教える」立場の他者性とは、その系の複雑性では

要するに、私の言いたいことは、柄谷行人は『探求』において、「西洋的な哲学」に対するために、「教える」立場に立つことが重要なのであって、不確実性とか複雑性とかいう概念を持ち出すことは本質的ではない、という趣旨のことを言っているのですが、実はそうではないのではないか、ということです。つまり、柄谷が「教える」立場に立つことによって見いだす他者性とは、その系の複雑性ということと同義ではないか、ということです。

別言するならば、柄谷はキルケゴールなどを引いて「単独者」として個体をみることを提唱していますが、これはそれを全体としてみること、つまり複雑系としてみることと同義ではないか、ということです。柄谷は、「教える」立場によって見いだされる視座を、「一般性-特殊性」に対する「普遍性-単独性」という軸として説明していますが、ネットワーク論のような普遍性に対して見いだされた個体としての複雑系を単独性と呼ぶのではないか、ということです。

こうしたことは、スピノザを用いると明確になってきます。「一般性-普遍性」とは第一の認識によって得られるものですが、スピノザによると、この認識は感覚的な表象、言葉・言語、記号、一般概念によるものです。つまり、ここにおいては、一般概念の要素としてある個別全体の集合が、一般概念そのものと一致します。一般概念とは、外延化された部分(構成要素)の集合であり、その集合としての全体が内包なのです。この全体性には、諸部分を集積しても解説し得ない余剰はありません。

これに対して、「普遍性-単独性」によって見いだされるのは、共通概念だとスピノザはいいます。これは特異的なものとしての個物(単独者という意味です)は、一般概念の外延としてではなく、あらゆる物に共通の自然の法則による力関係の場として、つまり無限の様態の一つとして見いだされる、というものです。これは、その特異性の原因を問うことによって、自然=神という普遍性に対する単独者として見いだされる、と言う意味です。それゆえ、特異的な物の原因とは、自然の法則としてある、いわば構造論的因果性としてしか存在しません。このことは、単独者が普遍的な必然的法則性における複雑系としてある、ということと同じことを意味しています。「教える」立場に立ったとき、柄谷はこうしたネットワーク的な法則性においてある個物を、単独者として見ていたのです。

スピノザのいう自然の法則とは?

ここで、スピノザのいう自然の法則なるものが、「一定の規則」のようなものではない、ということを改めて注意しておくべきでしょう。たとえば、「一定の規則」のうちであれば、カエルの子はカエルである。カエル以外にはならない。しかし、スピノザが、また柄谷が言う必然性とは、そうしたものではない。共通概念として、第二の認識で得られるのは、単独者としてのカエルであって、いわば「このカエル」にほかならない。種としての、つまり一般概念としてのカエルではないのです。このことを、スピノザは、そのカエルはオオサンショウウオに近いかもしれないし、ナメクジに近いかもしれない、などと表現します。共通概念とは、単独者としての個物が、無限の様態の一つとしてあること、その特異性を、その個物を生み出す原因としての、長い進化や周辺環境の力関係の結実として把握するものなのです。共通概念が見いだす必然性とは、そのようなものです。

このことを、『探求Ⅰ』で柄谷行人は、ヴィトゲンシュタインの家族的類似性という概念を持ちだして説明しています。この概念とスピノザの第二の認識によって得られる共通概念という言葉のアナロジカルな関係にあると言って良いでしょう。ヴィトゲンシュタインのいう家族的類似性はスピノザにいう共通概念に、ヴィトゲンシュタインのいう言語ゲームはスピノザのいう自然の法則に近いのです。

また、こうした考えは、通俗的な意味での科学的認識に反するものだということもできます。要するに、こうした思考は複雑性の科学とでも言えるもので、通俗的な意味での科学とは全く相容れないのです。もちろん、こうした複雑性の科学は、たんに複雑性とか不確実性という概念を通俗的な科学的認識に導入したところにその意義があるわけではなく、科学的真理を、つまり柄谷の言う「西洋哲学」が擁護してきた真理概念を根本的に見直すところに、大きな意義があります。

ウォーラーステインの歴史と複雑系

実際、ウォーラーステインは、資本と国家に対抗するには、西洋18世紀の啓蒙思想から続いてきた進歩主義、普遍主義、民主主義、科学主義などといった知的パラダイムを自由主義と呼び、このパラダイムの超克が不可欠であると熱弁します。そして、そのためには、科学的真理についての考え方を改め、自然科学と社会科学との境界を取り払った「新しい学」が必要だというのです。こうした知的パラダイムの革新が、西洋中心主義的なイデオロギーを廃し、資本と国家の揚棄には不可欠だと言います。

ウォーラーステインはこうした学を歴史学として構想しますが、それは今日の社会科学の一分野となる歴史学とは無縁のものです。この学が「歴史」を扱うというのは、それが不確実性や複雑性を前提とした、単独性を帯びたものとしてあるからです。その前提の上で、実は社会も自然もないのです。言い換えるなら、この歴史学が扱う真理概念は共通概念である、と言っても良いのかもしれません。

「教える」立場に立つことは、他者を複雑系として扱うことを意味します。これはウォーラーステインに言わせれば、「歴史」として扱うことにほかならない。それは、世界史を、すなわち自然史をネットワークとしてみることです。

(続く)

(筆・田辺龍二郎)


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