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紙が好き──ドラマ『舟を編む』を見て

この春、三浦しをん原作『舟を編む』が連続ドラマ化され、NHK BSで放送されました。すでに映画化もされていますが、今回のドラマも楽しく見ました。

私は辞典と事典の編集経験があります。専門出版社でしたので国語辞典ではなく専門分野の用語、事柄や人物を集めた辞典で、上下2巻、補遺もついていてビニールカバーがかけられ、さらに箱入りという豪華なものでした。ドラマと同様、周年事業として何年も前から編集を進めてきた企画、私が編集部員として加わったのはたしか2年後には出さなくてはならないという最終段階で、なかなかカオスな環境でした。

ドラマでは会社の役員会議で、紙の辞書は必要か、と指摘されていましたが、私がいた編集部の部長も、遅れまくっている進行を責められ、増員したのになぜ進まないのか、定価が決められない、ちっとも宣伝材料が出てこないなど、毎回役員会議でコテンパンにやられていたようです。会議のたびに編集部に戻ってきた部長は、編集のリーダーにねちねちと愚痴を言っていました。

著者を怒らせるのは1度や2度ではなかったし、何年も前にファックスで送られてきた原稿(当時、手書きやワープロの原稿をファックスで送ってくる著者がいた)を、当時の担当者がコピーせずに放置していたせいで文字が薄くなってほとんど読めなくなっていたり(読めなくなったなどと著者には死んでも言えないので必死で解読する)、編集部は紙だけのゴミ屋敷状態だったりと、実際はドラマのように美しくはなかったのでした。

紙の選択にこだわるシーンも懐かしかったのですが、他にも紙の色、文字の大きさ、書体、ページのレイアウトにもかなり時間をかけていました。用語の収集のために膨大なカードを使用するところは同じです。表記ルールの冊子は日に日に厚みを増していきました。また、「A」という言葉は「B」と同義で、「B」で詳しく説明しているので「A→B」というように矢印を使って読者にそちらへ移動させる「見よ項目」というのがありました。この「見よ項目」が曲者で、「B」に行くと「B→A」となっていることがたまにあるのです。堂々巡りでどこにも説明がない、ということになってしまうわけで、見つけると冷や汗が出ました。編集部内で、記述に関してなかなか意見が一致しないことも多かったです。

電子辞書でなく、紙の形態にこだわる、編集期間中にコロナ禍があったことで新たに使われるようになった単語を最終段階で加える等、ドラマでの心血注いで辞書を作る人たちに胸が熱くなりました。版元に体力がないと辞書は発行できません。出版不況が続く現在、夢のようで羨ましいと思いました。

私は、訳稿は必ずプリントして紙の状態で読みます。余白にたくさん書きこみをしていきます。中・高生の頃にしていた試験勉強と同じです。パソコンの画面での作業だと恐ろしく精度が落ちてしまいます。電子辞書、辞書アプリも持っていますが、使用していません。書体やレイアウトが好きになれないという外的要因によるのですが、そのせいで作業中は周りが辞書だらけです。

今の生徒はどのように勉強をしているのでしょうか。授業中、ノートをとっているのでしょうか、それともノートパソコンやタブレットを使用して授業を受けているのでしょうか。小学生で習う辞書の使い方はタブレットで行うのでしょうか。ページをめくり、すぐにたどり着けないもどかしさもいいと思うのですが、無駄なことなのでしょうか。

紙の辞書はいずれなくなるでしょう。紙での必要があればプリントすればいいし製本は誰でも簡単にできます。アップデートもすぐにできるし、データがどんなに膨大になっても使用する人が困ることはありません。

でも紙の辞書の姿も知っていてほしいと思います。形あるものなので五感を活用して接することができます。作り手の思いをあらゆるところから感じることができます。そういう感覚は不要なものなのかもしれません。でももうそんなに長くはないので、私が生きている間は紙の辞書はあってほしいと思います。目的もなく辞書を引く楽しみを知っている人もいなくならないでほしいです。

結城美穂子


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