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詩集の帯を書くということ

 日の出前のその空は、濃い青に染まっていた。まばたきをする度に微細に変わるその青は、ただただ美しかった。
 太陽が昇りきるまで、空の表情は刻一刻と変化してゆき、私の目を捉えて離さなかった。


 
 詩人の山下英治さんから、詩集の帯文の依頼をいただいたのは今年の六月頃であった。
 第一詩集を刊行してから一ヶ月も経たずに第二詩集を手掛けようとする彼のあふれる創作力を自分のことのように喜び、私は二つ返事で依頼を受けた。
 
 彼と始めて言葉を交わしたきっかけは、ある一つのnoteである。人が言葉を使った創作をするとき、どのような風景が心の中に広がっているのだろうか。それを知る一つの手がかりとして、私自身の感じる風景を文章として書きとめた。



 このnoteを書いてから約二ヶ月後、英治さんから文章についての感想をいただいた。特に詩の部分について興味深く読んでくださったという。嬉しい気持ちが心の底から湧いた。


 英治さんのnoteを訪れると、彼の詩作品の中に興味深い表現があった。言葉をスケッチしに森に行くというのである。該当の作品は現在noteで公開されていないため引用することが出来ないが、その森の詩は私の心をぎゅっと掴んだ。

 最近ではめっきり詩を書けなくなってしまっているが、私が詩を書く時はたいてい、浜辺の風景の中にいる。過去に海に落ちていったさまざま感情が、シーグラスや貝殻、はたまた流木のように時間をかけてゆっくりと打ち上げられる。それらを拾って詩をつくりあげてゆく。

 対して英治さんは森の中にいるのだという。英治さんの描くその森とは、私にとっての浜辺なのかもしれない。
 そう思うと、とてつもなく嬉しくなった。次第にその森への憧れが、心の奥にあることに気づいた。言の葉を捉えようとする鉛筆の音、鳥の声、木の葉のさざめきが静かに日の光に照らされるその空間に身を置いたとき、どんな心地になるのだろう。

 その日から毎日少しずつ詩について語り、時には日常で生まれた様々な感情を共有しあった。詩をつくる仲間としての絆は文字のやりとりを通して深まり、気づけば詩集の帯を依頼されるまでとなった。


 
 さて、二つ返事で引き受けたものの、何をどのように書いたらいいものかと悩むうちに、頭の中は帯文のことでぎゅうぎゅうと圧迫されていた。

 本の帯文とは、いわば人でいう第一印象に相当する部分になりえると思う。帯文の言葉ひとつで周りに集まる人、握手を交わしてくれる人が大きく変わる。

 さらに今回引き受けた帯文は、取り外しのできる一般的な帯ではなく、本の表紙に直に印刷される。生半可な成果物は決して渡せないと感じた。

 そういう経緯もあり、英治さんから詩集の草案をいただくまでに帯文そのものについてもっと深く知らなければなるまいと焦り、出来ることを手当たり次第試みた。

 自宅の本棚から取り出したさまざまな書籍の帯をひとつひとつ眺めてみる。

 検索エンジンに「帯文 書き方」と打ち込み、様々な人が論じる帯文について触れてみる。
 
 誰かがシェアするnoteのリンクに添えられた、帯文としてのメッセージを読みこんでみる――
 
 探してもさがしても見つかるのは「正解というものはない」ということひとつだけ。後にそれが真理であり、一番大切なことであるのだが、それに気づくまで私はことあるごとに不安に駆られ、ぐるぐると同じことを繰り返すばかりであった。

 七月。早々に完成したという英治さんの詩集のデータを受け取ったが、一日ほど開けずに過ごした。中身を拝見するのが怖くなってしまったのである。彼の詩集に見合う帯を私は書けるのだろうか。もし書けなかったら――
 またしてもぐるぐると同じことを繰り返しそうになったので、無理やり部屋の明かりを消して毛布を被った。


 翌日は、いつもより早く目が覚めた。窓の隙間からは綺麗な色が零れていたので、そっとカーテンを開けると、ブルーアワーの空が広がっていた。
 
 ブルーアワー。日の出前と日の入り後に訪れる空が濃い青色に染まる時間。
 このときの空の色は、なんとも形容し難い。ティールブルーやロイヤルブルーのような色になったかと思えば、サファイアブルーのような一瞬もある。まばたきをする度に微細に変わるその美しい色たちに引き入れられてしまいそうになる。

 太陽が昇りきるまで、空は刻一刻と変化してゆく。
 その色に正解というものは存在しない。きっと求めてはいけないのだ。正しい空の色がないからこそ、その美しさに心を動かされるのだ。
 そうやって見入っているうちにふと、英治さんが今回手がける詩集のテーマがブルーアワーであることを思い出す。
 お湯を沸かして、PCを立ち上げて、紅茶を淹れて、詩集の草案を開く。今なら何の不安も抱えることなく詩と向き合える気がした。


 ひとめくりする度に、光のように優しい言葉が射し込む。立体的な言の葉たちは柔らかな影を落としている。その影たちは仄暗く、静かにその存在を訴えている。
 後半は、いよいよブルーアワーをモチーフにした作品たち。さまざまな表情の青をそっと閉じ込めた詩の数々に文字通り溜息が出た。
 

 最後まで読み終えて、もう一度今朝のブルーアワーの青を思い浮かべながら紅茶を一口含めると、ふわりとアールグレイの香りが届いた。


 そのまま、思ったままの気持ちをかたどれば良い。正解を、探さなくて良い。



 カップからたちのぼる湯気と共に、ゆっくりと閃きがやってきた。


 英治さんに帯文の案を渡した時、想像以上に喜んでいただけたときの感情は、今でも鮮明に蘇る。明け方のブルーアワーの空に段々と昇る太陽の柔らかい温度にどことなく似ていた。

 詩集の帯を書くということは、詩集を読んで感じた思いを誰かに伝えるということ。
 今思い起こせば、私は著者である英治さんに手紙を渡すようにして書いていたのだと思う。
 著者に読んでもらいたい手紙を帯にするというのは、変わっていると感じる人もいるのかもしれない。
 けれど良いのだ。思ったままをかたどれば。正解を、探さなくて良い。



⌘こちらの企画に参加しました⌘
 嶋津 亮太さんの #教養のエチュード賞

 気づけば秋が訪れていました。今年の夏は、さまざまな場所で開催されるコンテスト企画に応募しようとしては辞めて、また応募しようとしては辞めての繰り返しでした。
 noteの街にいる方々のことを知れば知るほど、それまでなにも知らずにはしゃいでいた自分に恥ずかしさを覚えたからかもしれません。
 しかしこのままだと書くこと自体からも離れてしまいそうで、それは私自身にとって良くないと思っていたとき、嶋津さんによる第三回教養のエチュード賞が開催されていることを知りました。

 開催内容の文章を読んだ後、私は勝手ながら嶋津さんにまっさらな五線譜のノートを手渡されたような気持ちを抱きました。背伸びをしすぎずに、自分が今出せる力を最大限使って文章を手渡す勇気をもらいました。

真剣に作品と向き合うことは、対話をしている気分になります。書き手の声に耳を傾け、そこにある言葉を素手でほおばる。優劣とか、勝ち負けとか、そういうことではなく。そのプロセスを経ることで獲得できるものがある。

(引用: 「第三回教養のエチュード賞」開催|嶋津 亮太さん)


 今年の夏に体験した出来事の中から一つ、曲をつくりあげるような気持ちで書いてみよう。嶋津さんがその楽譜を見ていつでも試し弾くことが出来るように、丁寧に音符を描こう。
 完成までに一ヶ月弱かかりましたが、なんとか期限に間に合うことが出来てホッとしています。素敵な企画をありがとうございました。
 
P.S.
 この文章を書きながら、嶋津さんは詩をつくるとき、どんな風景の中にいるのだろうと想像していました。建築物のように図面から書きおこす風景かもしれないし、土壌にたっぷり水を含ませて芽を育てるような風景かもしれない。このエチュード賞を機に答え合わせが出来れば幸いです。
 
 

⌘山下英治さんの詩集はこちらから⌘


ここまでお読みいただきありがとうございました。 いただいた御恩は忘れません。