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格闘技という名の宗教

先日、お気に入りのバーへ行った。もう10年以上通ってる店だけど初めてお見かけするお客さんがいらっしゃった。この青年は初めてだなぁと思いつつ近くに席が空いていた為少しお話をすると共通の趣味があった。
格闘技ガチ勢。
私はガチ勢という程ではないけどある程度国内の格闘技は見ているためお話が凄く弾んだ。
話していくうちに昔の戦極vs DREAM対抗戦の話になった。
私はリアルタイムでは見られてないけどその時の映像で青木真也を好きになったのでその大会の話で盛り上がる。
話していくうちに違和感。
考え方や主観が戦極に向いている。私は明らかにDREAM寄りの目線。あの時勝ったのはDREAMだったので嬉々として語る私に終始曇った表情で語る彼。

試しにと言っては何だけど今年の3月に行われたONEの青木秋山戦について話を振ると秋山派閥の方だった。私はその瞬間にその方に興味をなくした。楽しく語っていた数時間は好きな選手が敵対しているという理由で突然無価値な物になった。

昨今、人の好きな物嫌いな物を否定せず受け入れましょうという風潮があるが私はこれに賛同しない。
好きな物は好きだし好きな物を負かせた物は単純に嫌いだ。過去の産物は関係ない。ヌルヌル事件もどうでもいい。ただ青木をボコボコにしたという事実が私にとっては重要で、あの時友人と見ていたけど泣きながら途中で勝手に帰ったのはきっと忘れない。
彼はいい試合をした。いい仕事をしたけど負けた。こんなに辛い事はなかった。

その大好きな青木真也を否定的な目線で見ているその方とどうやっても相容れないなと判断してしまった。

よく言われているのが何が好きかではなく何が嫌いかを意識する事で人間関係はうまくいくとされている。この場合、私は秋山が嫌いで彼は青木が嫌いだった。
改めて格闘技は宗教でいて崇拝対象によって人間関係が変わる事もあるのだなと。そもそも私が格闘技を見ていなければその方と楽しく話す事もなかったかもしれない。青木真也まで辿り着いていなければ彼と仲良く出来たかもしれない。いろんな選択肢が人生であった中で私は青木真也を崇拝対象と決めたのだ。その選択が今回も私の人生の分岐点に関わった。

恋愛だけは死ぬまでしたいと普段から豪語している身としてはこういう出会いも見逃せないのだけれど崇拝対象が敵対していればそれはいずれ戦争になる。恋愛を越えた価値観の場所に私の格闘技が存在しているから。

話が落ち着きその方が先に帰路に着いたのだけれど10年以上私を見ているバーのオーナーからは有難いお言葉を頂戴した。

「彼が秋山を賞賛した時、青木を否定した時、顔が引き攣ってたけどよく耐えたね。喧嘩になるかと思ってヒヤヒヤしたよ。」

そんなにも顔に出ていたのかしら。宗教とは信じて疑わない事が前提なので黙って耐えられるようになった自分を褒めたい。
この宗派は私が人生で戦っていく中で信じ抜くポイントとして1つの大きな武器にもなっている。


酒の席で話してはいけない3大要素。

・野球
・政治
・宗教

この中に格闘技も入れるべき。


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