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愛される覚悟

20代の頃、結婚を考えてくれた方がいらっしゃった。人とお付き合いする上で私が最初に話す事は結婚するつもりはない事。この条件さえ飲んでくれたら後は何でもいい。私の中では最も長く5年続いた遠距離の方だった。当然この話をした上で考えてくれて何度も話し合いをした方がいた。もちろん着地点は結婚問題なので離れる事になったがその彼はいま某テレビ局のカメラマンとして成功している。

私は人と向き合う覚悟がない。自分の人生を面白おかしくする事に精一杯なので他人に構う余裕がない。正面衝突タイプは苦手だ。剥き出しの感情を向けられるのがとにかく苦痛以外の何者でもない。だからと言って駆け引きが得意なのかと言えばそうでもない。どうしようもなくコミュニケーションが下手くそだ。

改めて見ると、やっぱり私は最高と思うくらいには自分の事を愛している。自分を愛しているからこそ、他人が自分を私以上に愛する事ができるとは思っていないし必要性も感じないのである。

最近、本当につい最近だが見誤った事があった。仲良くしていた元職場の後輩と少し距離が近くなった。しかし過去の粗相があった事をそれなりに信頼のおける知人に聞かされ距離を戻した。彼は逆上した。今まで聞いた事のない乱暴な言葉使いに感情を大爆発させありったけの罵詈雑言を私に浴びせた。それなりに言葉を操る職種だった為、敢えて私が傷付きそうな言葉を選んでた印象がある。冷静なのか情熱なのか、その熱意を他に使えたら優秀なのにと当時を思い出しながら投げかけられた言葉を拾い続ける。会う事になり丁寧にお話をするも難しい状況だった。私がその時得られた物は理解ではなく暴力。初めて他人に手をあげられ今も顔の痣が消えない。この年齢になり顔に痣を作る事になるとは思いもしなかった。マジで何なんだよコイツ…とは思ったが丁寧を心掛ける。私も似た状況になった事があるため気持ちは痛いひど分かる。警察に行くか迷ったがとりあえず病院の診断書だけは頂いた。ちなみに今も解決していない。これに続報があるかはさておき。

と、ここまでは笑い話だが本題に入る。愛される覚悟はやはり持てない。さらに愛する覚悟も毛頭ない。それが誰であれだ。好きだと言った事は何百万回もあるが愛してると言った事はない。これは声を大にして言いたい。私は人を愛した経験がない。他人そのものを自分の中に落とし込む度胸は私にはない。私にとって愛は別格なのだ。神格化している。相手が何をしても受け入れる覚悟がないと安易に愛してるなんて言えない。それを世界中の人がしている。この世界は強者で溢れている。


自分を低く見積もるなと言われた事がある。どんな生き方をしたら人の思考に口出しできる人間になれるのだろう。言葉の表面だけを掬いあげて図々しいなとは思いつつも私自身を思っての事と思えば右から左に受け流せる。ちなみに自分を低く見積もった事はない。私が何者であれ社会的地位がなくとも私は私を世界で一番愛しているから。ここまで自己愛が強いと非常に快適な人生が送れる。誰の意見も聞かず誰も関わらずに幸せの形が形成できる。もちろんそれを良しとするかは個人の感覚によるが少なくとも私自身はいい人生を送れていると思う。どんな人にも「うるせぇよ」と言える精神は常に持っていたい。


あなたは愛される覚悟はありますか?




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