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デザインについての所感('19~'20)

デザインとは何か

デザインとは、「散らばって存在する情報を視覚的にわかりやすく整理する行為」であると広く一般的には解釈されている。違った視点では、「特定の造形を生み出す行為」と捉えられることもある。

昨年(2019年)以来、デザインの奥深い世界を覗き込むようになり、その捉え方は私の中で大きく変化した。いくつかの制作物に触れることで蓄積された知識と考えを、ここに書き留める。

組織化

情報を視覚的にわかりやすく整理するデザインのことを、組織化のデザインと呼ぶことにする。組織化のデザインはここ数年で、世間に受け入れられ、大衆化しつつある。これを学ぶためのHowToは、ネットや書籍で比較的安価に手に入る。

ノンデザイナーズ・デザインブックが提示するデザインの4大原則はまさに、組織化のデザインを体現している。

デザインの4大原則
近接:関連する情報をまとめる。
整列:要素を一定の規則で整理する。
反復:特徴を意図的に繰り返す。
コントラスト:強弱で情報に明確な優劣をつける。

ある程度の水準(完成度80%)までは、初学者が数日かければ習熟できる。しかしながら、組織化の完成度を99%に引き上げるにはひとつの制作にかける時間試行錯誤の経験が必要である。

組織化のデザインは、どれだけキャリアを積もうとも、デザイナーの基礎となる根源的で重要なものである。奇抜で前衛的なグラフィックが用いられたデザインも、組織化という土台の上に成り立っている

実は、この考え方を切り詰めていくとある一定の型に落ちつき、没個性的なデザインとなる。「デザインと個性」というテーマはある意味答えのない問いであるが、後の章で取り扱ってみたい。

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組織化のデザイン関連の参考文献:
ノンデザイナーズ・デザインブック, Robin Williams
なるほどデザイン, 筒井美希
けっきょく、よはく。, ingectar-e
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裸にする

デザインとは、何かを着飾ったり演出したりするものではなく、むしろ裸にする作業だと言える。対象とじっくり対話し、本質をくり抜くことによって目に飛び込んでくるものが生まれる。

別の言い方では「削ぎ落とすデザイン」とも言われるような考え方である。一概に個人をそのような派閥として捉えることは誤解を生じるが、クリエイター界の巨匠である佐藤可士和のアートワークには「対象を裸にする」精神を強く感じられる。

ここで語られる「裸にする」とは、本質を明らかにすることで、潔くインパクトある表現を作り出すことを意味する。近年のUIデザイントレンドに散見される「引き算の美」的な考え方ではない。

この点において、"デザイン"と"Webデザイン"は思想が対立する。Webのユーザーインタフェースは時代を経るにつれ要素が切り落とされ、「洗練し、より軽くシンプルに」という志向性がある。いわゆる"モダンさ"が追求される。

一見この「要素を切り落とす」という性質は、デザイン思考と類似しているように思えるが、最終的に目指すゴールは互いに異なる。(部分的に重なっている領域は存在する。)

印刷物やプロモーション動画などは、情報溢れる世の中に生きる現代人に向けて、「目に飛び込み注目させる」デザインを考える。一方でインターフェースは、「利用する人にとって直感的であり、正しい目的を達成できる」環境を考える。

両者の前提は、必要とする人がいるか否かの点で異なっていることがわかる。つまり、前者は広告を必要としない人の存在、後者は利用する必要のある人の存在がそれぞれ前提となっている。前提が違えば両者が目指すゴールも異なる。

なんちゃってオシャレ感への反逆精神

組織化という考え方とその重要性が、一般に浸透し始めていることは前に述べた。それに伴ってデザインそのものも注目を浴びるようになり、今では様々な人が「それっぽいデザイン」を評価し、実際に制作することが増えた。

どんなに雑多なコンテンツがあろうとも、グリッドシステムを用いれば綺麗に整理される。そのように作業的な、もしくはシステム的な行為によって作成されたデザインは、複製され別の場所で濫用される。過激な言い方ではあるが、そのようにしてデザインは世間の俗物と化していく

それっぽいオシャレなデザインが欲しいなら無料作成アプリを使えば良い。「〇〇 + オシャレ」で検索すれば色々なテンプレートも参考にできる。誰でも簡単に質の高いものを作れる時代になったのは好ましいことである。

今後もデザインの大衆化が進み、デザイナーの存在価値は今後ゆるやかに消滅してくのだろうか?−私は消滅しないと考えている。

「なんちゃってオシャレ」なデザインは誰もが作れる時代において、デザイナーは如何にして差異を産むことができるかが問われている。大量生産型の工業社会から、テクノロジー革命後の一人ひとりにオーダーメイドへという時代の遷移はデザイン業界にも訪れている。

これは特に真新しい考え方でもなく、日本のグラフィックデザイン史を遡れば、いつの時代も優れたクリエイターの作品には時代への反逆精神が棲み着いていることがわかる。

視覚的に強いインパクトを持つグラフィックは、時代を超えて残り、色褪せることなく人々の記憶の中で生き続ける。愚かにモダンを追求したデザインは、時代の変化のうちに消え入る。

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亀倉雄策から始まり、田中一光や原研哉、佐藤可士和などはその系譜を受け継いでいる。近年であれば、Allrightの髙田唯などもこの章ではイメージした。
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エンターテイメントのアート、ビジネスのデザイン

アート領域がエンタメを盛り上げるための一環として利用されることは文化的視点から見ると害でしかないが、それに似た現象はデザインにも起こり得る。

個人のブランドを信用した依頼でない限り、クライアントがいる制作には、そこにデザイナーの個性が介在してはいけない。優れた人の仕事であっても、ポートフォリオを眺めるとそこにある種のが現れることがある。

デザイナーの仕事が「相手の本質を引き出すこと」であるならば、癖は仕事の障害になる。しかしながら、デザインとアートが融合するなかで、一貫性をもった本人の意思が吹き込まれていることも重要だと感じる。

デザイナーが時代に対して問い続ける姿勢をもち、本人が問題意識を持つ課題が解決されないと感じる限り、個性としての癖が現れてしまうことがありえる。この場合においては癖は否定されない。

一方、デザイナーはビジネスの視点を持たなければいけない。自分や今後制作するモノの社会的価値を見定め、需要の波を察知するセンスも問われる。それでいて社会に媚びたデザインは良貨を駆逐する悪貨となる。制作にはこうしたビジネスとプライドの葛藤が生まれる。

この状況における最適な戦略は、個性を社会的価値と認められるセルフブランディングを設計し、制作依頼にも意思を反映できるようになること。だと私は考えている。

クリエイターが評論家じみたことを言い出すのは衰退の兆候である」と、どこかの画像で見たときにもっともだと思ったが、文脈と思考の整理のためにも書き留めておくことにした。こういった内容は、暗く批判的な話になりがちではあるが、実際の生活や制作においてはポジティブな考えを心がけるようにしたい。

インスタグラム→https://www.instagram.com/choku_works/

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