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ギリギリで踊れ、役者たち監督たちそして私たち:マンガ『ダブル』レビュー

今日は、ずっとおすすめしたかったこちらの演劇マンガを紹介するよ~。

この物語の中心となるのは、以下2人の男性(年齢は初登場のときのもの)。

(↑『ダブル』1巻より引用。左が多家良/右が友仁。)

宝田多家良 たからだ・たから (30) 
役者。
演劇は未経験であったが、7年前、友仁の出演する舞台を観てその演技に感銘を受け、彼の所属する小さな劇団『劇団英雄』に入る。もともと会社員(縁故入社)だったが、当時の仕事は苦手だった。生活全般も苦手(家事もスケジュール管理も文字を読むのも)。ずば抜けた演技の才能がある。
役作りは、友仁に台本を読んでもらったり、友仁に疑問をぶつけたり、友仁に投げられた質問に答えたりしながら行う。
変わった名前だが、本名である(高齢出産で生まれた一人っ子で、「宝物だから」とこう名付けられた)。

鴨嶋友仁 かもしま・ゆうじん (30) 
役者。学生演劇経験者。
劇団の先輩として多家良に演劇理論や技法を教えこんだところ、多家良のあまりの才能に絶望するも、彼に「なんでもしてやろう」と立ち上がる。多家良の生活全般のサポートを行ったり、二人三脚で役作りを行ったりするほか、多家良が出られない稽古で彼の代役も務める。
「多家良は世界一の役者になるだろう」と思う一方、「俺だって世界一の役者になりたい」と思っている。

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ある日多家良は芸能事務所のマネージャーをしているという女性に声をかけられて、事務所に所属することになる。
少しずつ大きな仕事をこなしていき、世間に知られていく多家良。しかし同時に、自身の一部となっていた「友仁さん」から独り立ちすることも強いられていく—。

彼らを通じて、「演じる」「演出する」楽しみが味わえるのが、このマンガの魅力。

私は、映画のメイキング観たり、監督とか役者さんのインタビューを読むのが好きなんだけど、実際の現場を疑似体験できるのがこの作品なんですな。

私が特に好きなのが、多家良が大御所監督・黒津壮市の映画撮影に臨むときの一連のくだり。

例えば、以下のページは、「いい役者」「いい監督」の一つの形がわかる、すごく面白いページだと思う。
(愛姫っていうのは多家良と共演する女の子の名前で、彼女の演じる役名が「レン」)。

(↑『ダブル』2巻より引用)

監督は、瞬時にその役のキャラクターをうまく表現するためのバランス調整をする。役者は、瞬時に監督の言葉の意図を汲んで身体で出力する(作品全体を見て、監督が言語化できていない部分まで察せる役者はさらにすごい)。
どちらも、瞬発力がいる仕事だ(そうじゃなきゃ、作品はつくりおわらない)。

でもって、監督は大きな流れのバランス調整もしてる。
(「アラタ」は多家良が演じる役の名前)

(↑『ダブル』2巻より引用)

役者に何回もNGを出す監督は、「厳しい」って言われる。
でも、一番目立たせたいキャラクターを差し置いて自己主張している役者がいるのをそのままOKする監督は…作品の一体感を乱す要素を放っておいてしまう監督は…果たしていい監督なんだろうか?

いい役者、いい監督について、考えさせられる…。

…と、ここまでは、とっつきやすい(?)このマンガの魅力について話をしてきたわけなんだけど…。

このマンガの一番の魅力は、役者(あるいは「演劇」)の「影」が丁寧に描かれているところだな、と思う。

「影」っていうのは、第一に「孤独」。

多家良は、天真爛漫な人ではあるんだけど、何もわかってない人じゃない。

多家良本人を置いて、彼の表面が消費されるような感じを、彼は受信してしまう。

以下は、知名度を上げてきた多家良に、土曜23時放送の恋愛ドラマ出演オファーが来たときのシーン。

(↑『ダブル』3巻より引用。このあとマネージャーの冷田さんがするフォローがいいから、ぜひ本編読んでみてほしい!)

演技力がなければ、みんな自分をかまわないんじゃないか?
演技の話ができなければ、自分は不要なんじゃないか?って、
どろどろした不安を抱えている。

(↑『ダブル』3巻より引用)

もちろん本人のことは本人にしかわからないけどさ、追い詰められちゃう芸能人の人で、多家良と似た不安を抱えている人、少なくないんじゃないかな。
「仕事の量や評価、世間の盛り上がり」と「自分自身の価値」が、直接つながってるように思っちゃう人が…。

このマンガを読んで、男性が大幅に年上の「芸能人年の差カップル」への観方もちょっと変わった。「テレビ界隈ってマッチョ文化のごりごり権化だし…若くてかわいい女の子と恋愛するってのが一つのステイタスなんだろなー…きついなー…」と思ってたんだけど(もちろん全員がそうだとは思ってなかったけど傾向として)。
「若くてかわいい子」は自分の「若くてかわいい」看板だけをちやほやする人たちに疲れちゃってて、同じように「イケメン」とか「演技力えぐい」とかの看板だけをちやほやされるのにうんざりしてる人と、心を分け合えたりするのかもしれない。

「影」っていうのは、第二に「引力」。

こないだ(私の)恋人と、「付き合ってる役を演じ合った人たちが、実際に恋愛感情持つようになっちゃうのってなにも不思議はないよね…」って話をした。

役者さんによって役に没入する度合いは違うみたいだけど、「役の人生・境遇をイメージして体を動かしてみる、しゃべってみる」んだから、心がそっちに引っ張られちゃうのも無理ないよね。

それにはいい部分もある(多家良は、演じることを通して「ああ、あの人のあの時のあの顔、こういう気持ちでしてたのか…」って実生活の人間関係を振り返ったりしてる)んだけど、危険な部分もある。

それは、人間のとことん暗い面にだって、近づけてしまうということ。

多家良は特に没入型の人で、しょぼいモンスター鮫が出てくるB級映画に出演する時ですら、全力でその状況をイメージしてしまう。

(↑『ダブル』1巻より引用)

それじゃ身が持たないから、もういっそ、自分は誰かの表現を代弁する透明な容れ物になっちゃえばいい、って割り切ろうとする役者さんもいるけど…、そしたら役者さん本人の中身は、どこに行くの?

(↑『ダブル』2巻より引用。愛姫ちゃんも多家良も、笑っててもいつか遠くへ行ってしまいそうで、ずっと怖いよ…)

誰かが心を病んだり、死に追いやられてしまったり、そんなことは絶対に良いことじゃない。
でも、役者も監督も、それ以外の役割で作品にかかわる人も、たくさんの人が行けるギリギリを探っている。
観ている側もきっとそうだ。どこかで、「どうか、壊れてしまう直前の、ギリギリを観せてくれ」って思ってる。

このヒリヒリするような感じに、どうしても心奪われてしまうんだけれど…。

演劇は、人間の精神の奥底を覗き込む行為ですから、日常生活の中で、保守的に暮らしていたのでは、何も新しいものを創ることはできません。普通の人が見て見ないふりをするもの、見なかったことにするものを、しっかりと見続けて、さらにそれを表現しなければならないのです。

しかし、ときにその行為は、私たち表現者自身の精神を追いつめます。実際に、演劇を続けていて、精神を病んでしまう人もたくさんいます。

ブレーキを踏み間違えて、奈落の底に落ちてしまっては、表現自体ができなくなるのですから意味がない。素晴らしい作品を、形として社会に残せるかどうかを決定するのは、ギリギリのところで踏みとどまれるかどうかにかかっているのです。
(平田オリザ『演技と演出』より引用)

ブレーキを持とう、観る側も。誰も奈落に落とさないように。
そこでどれだけ踊れるかが問われてるんだ。

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表紙もね…それぞれの顔が、いいんだよなあ…。


終わり。

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※この作品はドラマ化されることが決まってるとのこと。楽しみ!
以前、ドラマ化キャストを予想した記事も書いたので、こちらもよかったら読んでみてくださいな(↓)。

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