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ショートショート『寝言師』

寝言師がSNSで話題になり出したのは、いつ頃のことだったろう。

彼女は30代くらいの女性で、身長は155センチくらい、基本的に地味な色の服を着ている。平日の昼間にしばしば地下鉄を利用しており、端の座席が確保できると、ゆるくパーマのかかった長い髪を垂らして眠り始める。

あるとき寝言師の隣にいたのは、二人の主婦だった。
年老いた母親の大切にしていた指輪がなくなった、ないのだと本人に話しても認知症が進んでいて納得してもらえない、似たようなものを買ってきてもやっぱりだめ、はてどうしたものか。片方の女がこうこぼすと、なぜか予想した方向の反対側から、応答がある。

「ピアノの隣のクリアケース、一番下の段にスーパーの袋が入っているでしょう。口をしばってあるのが一つだけあるはずだから、そこを開けてみればいいわ」

その声は奇妙に甲高くやたらと大きいものだから、主婦はびくりとして口を閉じ、顔をそちらに向ける。しかしそこには、頭をだらりと下げた長髪の女が座っているだけだ。眠っているのだろう。

「サカエさんの指輪の話よ」

顔の向きを戻そうとしたところで、もう一度声がする。やはり、声の主はこの長髪の女のようだ。
家にあるものも母親の名前も、どちらも正しいのが気味悪く、主婦二人は静かに席を立ち、隣の車両に移動することにした。
しかし、サカエの娘はどうしても気になり、帰宅するなりクリアケースの一番下を開けてみることにした。するとどうだろう、乱暴に口をしばられたビニール袋の中に、行方不明だった指輪がぽつんと入っているではないか。


またあるとき、寝言師の隣には、学習塾の春期講習に向かう中学生二人が座っていた。
部活をやめようか悩んでいる、と一人が話し、かっちゃんがいないと寂しくなっちゃう、と一人が応じていると、かっちゃんの隣から奇妙な声がした。

「かっちゃん、あなたの中ではもう、本当は決まっているんじゃないの。毎晩机に向かって、何時間でも描いているじゃない。泉の水のようにアイデアがあふれてきて、手が止まらないなんてこと、みんなに訪れる幸運じゃないのよ。人生をどう使うか選ぶのはあなただけど、今の努力を続けていれば必ず一年以内にプロとしてデビューできるわよ」

帰宅したかっちゃんは、あれは幻だったのだろうか、と自分の記憶を疑い、しかし幻を見るのはそれだけ思いが強いからだ、とついに自分を説得した。部活をやめてからのかっちゃんは、放課後に費やせる時間すべてを漫画の執筆に充てた。

半年後、新人賞最年少受賞の連絡を受けたかっちゃんは、まだ幻が続いているのだろうか、と、かえって頭痛がしたという。


こんなエピソードが、何十、何百、何千とつぶやかれる中で、いつの間にか「寝言師」というハッシュタグが作られていた。
ある人は傾きかけた事業を復活させ、ある人は厳しい戦いの中市議会議員の座を勝ち取り、ある人は難病から抜け出し、ある人は生き別れの兄と再会した。


寝言師を頼る人々にも、最初はまだ秩序があった。

それらしき女が電車の端の席に座ると、ほかの乗客は何でもないふりをしながら、チラリチラリとそちらを窺う。女が眠り始めたところで、近くにいる者からそれとなく話しかけ、応答を待つ。奇妙に甲高い声がしたら、当たりだ。乗客は一列に並び、順番に相談をする。寝言師には本格的に目覚める前に何度か瞬きをする癖があり、そのサインを目にした乗客は誰からともなく元いた場所に戻った。起きているときの女をこの現象に巻き込まないことが、彼女のアドバイスの霊力を支えている。なんとなく、皆がそう考えていた。

しかし噂が広まるにつれ、暗黙のルールも少しずつ破られていった。

本当に女が寝ているか、顔の前で手を叩いて確かめる者。列の先頭に素早く並び、その位置を有料で譲る者。薬をハンカチにしみこませて女に近づけ、眠っている時間を延長しようと試みる者。女のカバンに機械を取り付け、現在地をアプリで知らせるサービスを始める者。女が電車に入るや否や、乗客がその近くに駆け寄り、ぶつかって口論となることもあった。長髪の地味な女は、それが寝言師本人であろうとなかろうと、休みなく赤の他人に尾行されることとなった。

寝言師の自宅マンションの所在地は当然のように世間の知るところとなっていたため、女の外出を待つ者が朝早くから詰めかけた。手紙受けは、感謝の言葉、誹謗中傷、取材の依頼、退去要求、さまざまな書類であふれかえった。


「もう終わり」

電気を消したままの部屋の中で女はつぶやき、夫はやつれきった女の顔を見つめた。かつてモデルルームのように片付けられていた部屋は、今や見る影もない。写真立ての中の花嫁だけが、白い歯をこぼしていた。

夫はしばらく黙っていたが、そっと溜息をついて立ち上がり、冷蔵庫からミネラルウォーターを取り出して、とぽとぽと二つのコップに注いだ。一つを女の前に、一つを自分の前に置くと、コップをつかんだまま、口を開いた。


「黙っていて悪かった、洋子。全部、僕のせいなんだ」


一口水を飲むと、それが鍵だったかのように、夫の口から言葉が流れ出した。

「君と結婚してからずっと、どうすれば君がほかの誰でもなく僕だけを頼ってくれるようになるか、考えていた。ほかのやつらに君をとられたくなかった。君には、僕と二人だけの世界で生きていてほしかった。だけど、君には実家があり、仕事があり、友人がいる。どうすればいいか、わからなかった。

そんなある日、突然にだよ、目を閉じて誰かを思い浮かべると、その人の悩みの解決法が浮かぶようになったんだ。悩んでいた同僚に浮かんだイメージを話したら、彼はするりと窮地を脱した。彼だけじゃない、母親も、友人も、みんなそうだった。僕のアドバイスで抜けられない苦境はなかった。さあ、洋子はどうだ、ってイメージしたら、不思議なことに何も浮かんでこなかったんだけど。僕は、洋子と僕の生活のために、この能力を何とか活かしたかった。そこで、『寝言師』のアイデアを思い付いたんだ。

君が電車に乗るとき、僕はいつも同じ車両に乗っていた。これは、僕の能力とは関係ない。君と付き合うようになってから、ずっとだ。何かあったときに君を助けられなかったら、意味がないからね。君が電車で寝るのが好きだってことは、だからとっくに知っていた。賢い君のことだからここまで言えば当然わかると思うけど、高い声を出して乗客にアドバイスをしていたのは、僕だ。君が眠るのは電車の端の席に座れたときだけだから、都合がよかった。いつも僕はその隣に立っていた。念のため、顔は見えないようにしていたよ。俯いたり、外を見るふりをしたりしてね。帽子も、カツラも、いくらでも買った。

『寝言師』のハッシュタグをつくったのも、最初のいくつかのつぶやきを流したのも、全部僕だ。周囲の人間で試した実例を、少しばかりアレンジしてね。人間は悩み多き生き物だから、周知さえきちんとできれば、広まるのは時間の問題だと考えていた。思ったとおり、いや、それ以上だったな。すぐにみんなが君のことを話題にするようになった。それはたまらなく嬉しく、だけどもちろん、非常に不愉快だった。

君を危険な目に遭わせるのは、胸が痛んだ。何度も止めに入ろうとしたよ。でもそれじゃ、計画が台無しになってしまうだろう。ぎりぎりの極限まで我慢しようと決めて、唇を噛んで待った。
だってこの計画のゴールは、君の絶対の味方は僕だけだってことを、君に身をもって知ってもらうことだったから。
君が徹底的に孤独にならないと、そのことはわかってもらえないと思った。ごめんね、辛かったよね。

きっともう日本では生きていけないよね。外国で暮らそうよ。
どこがいい?南の島にしようか?洋子が選びやすいように、よさそうな国の写真集をたくさん買っておいたんだよ。洋子と僕と、いよいよ二人だけの世界で、静かに楽しく、新しい暮らしを始めよう!」


何回か瞬きをした女は、コップの水を飲んで、立ち上がる。

「トイレでも行くのかな?」
夫が尋ねると、女は静かに、一言置いた。

「違うわ」

「私は、洋子さんじゃない」

「あれはいつだったかしら。眠っているだけで有名になれる方法があるって、SNSで発信してる人がいたの。その人に連絡をしたら、一発屋になっちゃうけどそれでもいいかって確認があって、OKしたら正面写真を送るように指示があったわ。写真を送って何日か後に、合格の知らせが来て、デパートのトイレで打ち合わせをすることになったの。変な待ち合わせ場所、って思ったけど、そこで手紙を渡されたのよ。松草洋子の代理としてしばらく生きてほしいってことと、『寝言師』の仕事のやり方について書いてあって、封筒の中には彼女の身分証明書も入っていたわ。きっとあの人が、洋子さんだったのよね。彼女、その場で服を脱ぎ始めるからぎょっとしちゃったけど、家賃や食費が浮くのはとっても助かるし、面白そうだったからこの仕事を受けることにして、私が彼女の服を着てトイレを出て、そこからあなたと暮らしているのよ。あなたが種明かししたら仕事を終えて、週刊誌なりテレビ局なりにこのこと話していいって言われていたんだけど、いつひどい目に遭ってもおかしくない状況になってきちゃったでしょう?だから、どちらにしたって今日終わりにしようと考えていたのよ。ねえ、だけど私思うのよ、私と洋子さんって、これっぽっちも似ていないわよね?」

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