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バスの中で切符は買えますか?

「英語を喋れますか?」


そんなことを聞かれているんだろうな、ということはなんとなくわかった。

キャン ユー スピーク イングリッシュ?

みたいな言葉を聞きとれたわけじゃないけれど、対面ならではの相手の表情身振り手振り。

複雑な都会のバス停。
それとなく困ってそうに感じる雰囲気。

「英語を喋れますか?(聞きたいことがあるのですが)」

そんなことを聞かれているんだろうな、ということはなんとなくわかった。

キャン ユー スピーク イングリッシュ?

とは聞こえなかったけれど、対面ならではの相手の表情や身振り。
それとなく困ってそうに感じる雰囲気。
複雑な都会のバス停。

これらの要素が合わさって、英語力皆無でも『困っていて聞きたいことがある』というニュアンスは汲み取れた。

急に声をかけられて、それも最初は自分に向けてのものだと思っていなかったからなんて言ったかよくわからなかったというのもあるけれど、なんとなく「スピーク」と「イングリッシュ」って言っていた気がするのできっとそういう意図の声かけだったんだろう。

人の顔色を窺い続けて生きてきた甲斐があったというもの。
勝手に事実と異なる憶測で話を進めてしまうこともあるのはご愛嬌。

申し訳なくも英語は話せないことを意思表示。

すると相手方はややあってスマホの画面を見せてくれた。

『バスの中で切符は買えますか?』

表示される翻訳アプリでの日本語。

相手の方が具体的に何に困っているかもわかり、さらにこちらの英語力が皆無だろうと容易くコミュニケーションを取る方法までわかった。

「…………………………あー、……と」

だけど。
質問に答えることも応えることもできなかった。



◇    ◇    ◇




傘を差すか差さまいかはっきりしない小雨がぱらつく朝のバス停。

朝とはいっても時刻は10時前。

出勤時間から逸れたこの時間でも、それでも往来が激しいのはさすが都会といったところ。

普段なら移動はもっぱら自転車で済ませるけれども、雨に降られると電車やバスの移動を余儀なくされる。

別に自分が濡れるのはいい。
そんなものほっとけば乾くからいい。

自転車が濡れるのが嫌だった。
濡れることでサビたりして劣化してしまうのが我慢できなかった。
自転車にはいつまでも末永く健やかでいてほしい。


バスに乗るのは月に1度あるかないかくらい。

どうしても遠くに出かける用事があって、その日が雨で、バスを使うと交通費が得になる。
ここまでの条件が揃って、ようやくバスに乗る選択肢が生まれる。

永遠のバス初心者。

そんな滅多に乗らないバスを待っている時、英語で声をかけられた。

バス停にやってきた海外の方と思われるグループ。

バスの行き先には築地や豊洲といった観光地が目白押しなので、おそらく観光で来た人たちなんだろう。

その内の一人から「英語を話せますか?」的なことを聞かれた。

承認欲求に常に飢えているので、困っている人を助けて新鮮な承認欲求を得るチャンスだと意気込み──たいものの残念ながら英語力は皆無。
泣く泣く英語を話せない意思表示を伝える。

せっかくの承認欲求チャンスを逃してしまい、己の語学力を呪っていた時。

『バスの中で切符は買えますか?』

差し出されるスマホの画面。
先ほど声をかけてきた方が翻訳アプリを使って、そう質問をしてきたのだった。

なるほど、その手があった。いや、素晴らしいですねスマホ。翻訳アプリが標準搭載されてるんだから。一昔前だったら深夜のテレビショッピングで大枚叩かないと手に入らなかったんじゃないだろうか翻訳ツールって。それがスマホさえあれば誰でも無料で使えるってグローバルですね。

と、目の前の質問者そっちのけでいつもの連想ゲームに浸っている場合じゃなくて。

言語の壁は突破できた。
己の語学力を呪うことの無意味さを知れた。

開ける視界。
曇天小雨もなんのその。
心の中は突き抜けるほどのスカイブルー。

なんの憂いもなく承認欲求満たすチャンス到来に心のウキウキとアドレナリンのドパドパを隠しきれていなかったことでしょう。

開く翻訳アプリ。

相手方の質問に答えるためまずは日本語を入力しようとして。


…………………………あー、……と……?


バスの中で切符って……どうだっけ?

バス……切符……要はバスを現金で乗れますかってことが聞きたいわけで現金って使えたっけいつもSuicaで乗るし入り口よく見ないから現金入れるところあったっけいや確か現金使えた気がする小さい時に現金でバス乗ってたはずそういえば子どものころはバスを50円で乗れてたなぁそれで遠くのダイクマに行ってゲームコーナーの64を遊びまくってたなぁスマブラとか007とか知らん子どもと和気あいあいして楽しかったなぁでもあれってもうすごい前の話だしそういえばバスのアナウンスで「交通系電子マネーをご利用ください」「両替やお釣りは対応できないことがあります」とか言っていたような気がするそもそもこれって違う地域のバスの話だもんなぁバスってその地域で乗車ルール全然違うからなぁ前から乗るのか後ろから乗るのか先払いなのか後払いなのか電車と違って個々のバスの情報調べるのも難しいし都内のバスだとどうなんだろう調べないとでも相手が返答待ってるからまずは「ちょっと待ってください」って翻訳アプリで伝えるべきかいやそんなことする前に都バスが現金使えるか調べたほうが早いってというか傘が邪魔でスマホが操作しづらい指先も冷たくて上手く文字打てないしだいぶ相手の方を待たせてるしえっとつまり今なにからすればいいんだ


チョンチョン、と突つかれる肩。

よっぽど自分が困った顔をしていたんだろう。

相手の方は申し訳なさそうな表情を浮かべて。

「ゴメンネ。アリガト。モウダイジョウブ」

見るとグループの他の方が英語を話せる人を見つけたらしく疑問は解決したらしい。


…………………………。


会話中に頭の中で連想ゲームが始まってしまう人は、例えればPCのメモリが常に100%近くになっているのと似たようなものだと、この前YouTubeで誰かが言っていた。

「なるほど」

向き合うべきは英語力ではなくて、会話力のほうだった。



空を覆う一面の雲。
傘を差すか差さまいかはっきりしないぱらついた小雨。

バス停の掲示板が『バスが来るまであと3分』とアナウンスする。


とりあえず。

翻訳アプリをすぐに開けるように設定を変えた。

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