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失敗ばかりのチャーリーブラウン。何者にもなれないスヌーピー。

スヌーピーといえば、誰しもが知るキャラクターのひとつ。しかし、その本を読んだ者なら誰しもが感じる「????」の数々はいうまでもない。

哲学書としての一面を持ちながら、ここまで広く知れ渡り、愛される物語はそう多くないと思う。

そんな私は、スヌーピーは知れども、本を読んだことは数回ほど。そんなやつがスヌーピーを語るなと言われそうだが、スヌーピーについて話したいわけじゃない。

今日は、在宅勤務。若者風にいえば(私は27歳なので、十分若者だと思いますが。。。)「しごおわ」と同時に家にいる。

すぐに「プシュッ」と音を立てて一杯引っ掛けたら、脳がありもしない方向へ思考を巡らす。

様々な思考が巡る中で、ひとつだけ、ここ最近で心に残っているものがある。

それが何を隠そう、スヌーピーだ。

最近、会社の福利厚生で「schoo」が見放題になり、通勤時間で見ている。その中で、「チャーリーブラウンは何十年も近く続くこの作品の中で、一度も成功したことがない。しかし、一度も諦めたことがない。一方でスヌーピーは、何事にもチャレンジするが、結局は犬なので何者にもなれない。」そんな言葉があった。

普段は記憶力も悪い私に、これほどまでに残っている言葉は少ない。

どこか、勇気をくれる言葉だった。

スヌーピーが哲学書として有名なのは知っていたし、読んだこともある。でも、実のところよくわからないことがほとんどだった。でも、私の中で、この言葉がずっと光っているのは事実。

自分の私生活に目を向けると、一度も成功したことはないし、一度も何者にもなったことがない。なんとも形容し難いが、どこか自分と共通点のようなものを覚えた。

何をしてもうまくいかない、どんなに成功しても何者にもなれない。一見すると絶望に感じるこの言葉が、輝いて見えるのは、どこか人間の営みの儚さを象徴しているからだと思った。

星の王子さまに、こんな一節がある。「砂漠が美しいのは、どこかに井戸を隠しているからなんだよ。」

夢も希望も何もない、砂漠のような人生だけど、それでも歩み続けるのは、どこかに井戸のような、見えないけれど生きる希望が隠れているから。

SNSでキラキラした人生を見せつけられるたび、つい自分以外の人はすでに井戸を見つけていると思ってしまう。つい自分の目的を見失ってしまう時がある。

しかし、私はまだ井戸を探す途中にあって、そのためにはチャーリーブラウンのように失敗もし、スヌーピーのように何者にも慣れない自分を悔やむこともあると思う。彼らの生き方や、言葉に、そんな力強さを感じました。

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