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自己紹介とぼくのコンパス。

 はじめまして,都内某所の教育学部に通うとある人文学徒です。
 新型コロナ流行の影響で,自分の学年が一つ上がった気が全くしないまま前期が早くも折り返しを過ぎてしまいましたが,ついに最終学年を迎え,少しばかり時間ができたので,以前から書こうと思って登録だけしていたnoteに筆を入れることにしました。

 日々ぼくが何となく考えていることや,どうしても言いたいことを発信するには,Twitterのような短い文章ではなく,noteのように長い方がいい。でも長いと長いで途中から,「あれ?書きたかったこと,結論矛盾してない?」みたいなことも起こりうるので,結構時間の取れるときしかnoteは始められないなと思っていました。
 ところが,ぼくの学友たちがちらほらとnoteで自分の考えをなんと無しに書き綴っているのを見て,長い時間をかけないと長い文章が書けないというのは,人文の人間としてちょっと情けないんじゃないかということに思い至りました。だから生まれてくるのが駄文だろうが何だろうが,むしろ物を書き(たとえ相手は少なかろうと)人に何かを伝える練習のために,今すぐにでも書いた方がいいんじゃないか,そう思って木曜日の深夜に筆を走らせている次第です。

 そうはいっても,最初の投稿です。そんなに長く書こうとは思わない。
自己紹介程度のことをかければ上出来かなと思っているので,今日は自分がなぜ「教育学部」の「人文学徒」と最初に名乗ったのか,それだけお伝えして筆をおきたいと思います。

 そもそも「教育学部」の「人文学徒」という物言いは少し奇妙な,というより微妙な自己紹介です。でもこの微妙さというか,奇妙さは,かなり主観的なもので,ぼく以外には説明なしでは伝わらないと思うので,説明します。

 まず前提の確認ですが,普通「人文学」(英語だとHumanities)と言ったら,人間や人間の行為によってできたものについて探求する学問のことを言います。だから,人の思考の産物である哲学は当然人文学の領域だし,人が書いたもの,つまりは文学や文学研究も人文学の領域に入ります。ほかにも歴史学や,人文地理学,美学,倫理学もこの領域です。一方で,人間の行為の産物ではなく,人間の行動それ自体を研究する領域は「行動科学」(behavioural science)といいます。こちらは,経済学や心理学,社会学などを含み,教育学もこっちに入ります。この行動科学ですが,人間個人を対象とするのではなく,集団としての人間の行動-ごく単純に言いかえれば「社会」-を対象とすると「社会科学」(social science)と呼ばれることになります。だから心理学のなかでも社会心理学は社会科学ですし,社会学や政治学・経済学をこちらの分類で呼ぶことも多々あります。

 さて,ここで問題になるのが「教育学」の扱いです。先にぼくは教育学が行動科学の一つであるというふうに言いましたが,実際には「教育学」はどんな分け方でもできてしまいます。その理由は,「教育学」は対象によって統合されている学問だからです。それがどういうことかといえば,たとえば心理学でも教育現場における心理学であれば「教育心理学」,社会学でも教育を対象としていれば「教育社会学」というように,いくつもの領域にわたる学問を「教育」という研究対象によってまとめあげているのが「教育学」なのです。ではなぜ,さきの文系学問の学問分類の説明で教育学を「行動科学」に分類したのかというと,これこそ主観にほかなりません。

 ぼくの通う大学は,教育学部といっても教育学部しかないような大学で,いわゆる教育単科大学です。学科は教科教育ごとに分けられることが多く,授業では必修科目ばかりだし,教わる内容も教育学的な内容に限って言えば,小手先の教授法や学習指導要領通りの内容論ばかりで,正直言って実のある話がほとんどないのが現実です。(それこそ主観的ですが、、、)
 そうした環境下で,教育学の授業を受けてきたぼくにとっては,「教育学」と呼ばれるものの多くはあくまで「教授法」-生徒指導の方法や,小手先のテクニックを含めて-を指しているように思えるのです。
 実際,「教育学」は英語ではPedagogyとも,Study of Educationともいいますが,後者は先に示した対象を基準とした学問区分としての「教育学」を指しているのに対し,前者は端的に「教授法」を意味します。では「教育学」を「教授法」(Pedagogy)であると考えた場合に,それがどの分類に入るかといえば,これは「行動科学」以外ないんじゃないかと,個人的には思うわけです。なぜなら「教授法」としての「教育学」は,人間そのものや,人間の行為の産物としての「教育」というより,人間の行動自体の学問として,「どのように教えたら効率が良いか」,「何を教えたら「役に立つ」のか」などをひたすら考えているからです。

 でもこの行動科学に分類されるような教育学という分類には,正直ぼく自身が納得できません。なぜなら「教授法」は「教育」の本質ではないと思っているからです。
 そして,あえて攻撃的にいうなら,ぼくはむしろこういう「教授法」的な教育学が大嫌いです。
 理由を簡潔に述べるなら,そういう「教育学」には「人間」がいないから。ぼくは大学受験の段階では「歴史学」を志していましたが,その理由は「歴史」に人々の動きがあって,人々の生活がそこに描かれているから,そこに描かれる人々のストーリーにロマンがあると思ったからでした。その後,大学に入ってすぐに社会学のゼミに参加させてもらって感じたことは,社会学も人間を数字で統計的・全体的に把握することはあるけれど,そういう数字の変動の中に人びとの生活実感があるということでした。
 そう考えてみると,やっぱり「教授法」的な「教育学」には「人間」が顕れてこないのです。よく教員あがりの先生が「子どものために…」みたいなことを言っていますが,そういう先生でさえ実際に教えている内容はといえば,「どうしたら効率よく学習内容を伝達できるか」です。そこにあるのは,子どものテストの点数という功利主義的な数字と,先生の個人的経験に基づく成功体験の話,あるいは実験結果としての心理学的数値です。

 いやいや待ってくれよ,と。

 そもそも本当にそこに人間の存在を,あるいは「子ども」の存在を念頭に置いて考えるなら,「どのように教えるか」ではなくて,そもそも「教えている内容はそれでいいのか」という問いから始める必要があるんじゃないでしょうか。なんで教師たちは教科書に書いてあることを教えることに精いっぱいで,人間形成に必要なものが何かという根源的な問いに目を向けないのでしょうか。あるいは「人間形成」という教育の目的そのものが可能な目的なのかということをなぜ考えないのでしょうか。

 ぼくは大学に入って,本学ではごくごく少ない(ように見える)理論派の先生方から徹底的に物事を相対化することを学びました。絶対的な正しさとか,「こうしておけばいい」みたいな価値はかなり疑わしいということをその先生方は教えてくれます。そして,こうした「相対化」の態度は,すべての学問(科学)において求められる在り方だと,私は思います。

 もし,教育学が「科学」であると主張するなら,教育学もまた絶対的な正しさや,確実性を疑わなければいけないはずです。しかも。一部の実践派の先生は「子どものため」をスローガンにしているようですが,実際には子どもしかいないような学校はどこにもありません。学校や教育を取り巻く環境は,実に多様で,子どもだけではなく,教師や親としての大人も関わることになりますし,もっと敷衍して考えれば,ほとんどすべての人が教育を受けて社会の成員になります。(あるいは逆に考えれば,教育が社会の成員を振り分けてしまうある種の暴力装置である可能性も当然あります。)そういう意味で,「教育学」はもっと広く人間を眺めながら「絶対的真理」に揺さぶりをかけ続けられる学でなければならないと思うのです。

 教育学部に在籍して4年目。本当は教育学部になんて来たくなかったぼくですが,いまは「教育学部の人文学徒」を名乗っています。それは,教育の学部的な知(現場感覚的なテクニックや,人間の数値化)を飛び越えた人文的な知識を教育学の領域にに持ち込んで,人文学的な教育学の可能性にごくごく微力ながら寄与したいと考え,そこに少なからぬ希望を見出しているからにほかなりません。要は今,ぼくは大学4年目にして運命を受け入れ,この箱の中でできることを必死で模索している最中です。
 そんな暗中模索の中で道を迷わないよう今手に握りしめているもの,それが今まで嫌いだった「教育学」というコンパスなのです。これを手放すと僕の興味は散逸して,漂流者になりかねないから笑

 あんまり長く書かないつもりで,気づいたら3700字も書いてましたが,これが,僕がわざわざ嫌いだった「教育学」の学生を名乗り,しかもそれに「人文学徒」という言葉をつけて,一見すると奇妙な組み合わせを自ら作り出して自己紹介した理由です。
 ここまでずっとお付き合いしてくれた人は少ないと思いますが,これからどしどしいろんな事書いていこうと思うので,ご指導と応援よろしくお願いします。

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