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思考の癖

自分の思考の癖。

会話しているその場で考えられない。自分の時間を作らないと考えを出せない。最終的に人の考えに流される。でも自分の考えは捨てきれない、、

他の人は自分の考えを常に持っている気がする。自分は常に持ちきれてない気がする。いつも他人に答えを求めている。

最近思った。

世の中に答えはない。

世の中は「事実」と「思考」でできている。

俺が学校の授業でやってきたことは「事実」を知ること。

自分の考えを強く持つこと。自信を持って話すこと。これができないことに劣等感を感じていたのかもしれない。本気でいいと思うものをいい、とはっきり言えない。中学生あたりからかもしれない、どんどん周りを意識し始めたてから。

思春期になって、周りにダサい、と思われたくない、という思考が強くなった気がする。そして、いいと思うものをいいとか、本心でやりたい、と思うことをやりたい、と言わなくなっていった。そして、どんどん勲章を求め出すようになっていった。

結局は、それが自分に自信が持てなくなっている理由になったんだろう。自分には嘘はつけないから、自分が空っぽに感じる。

昔は、いいものを純粋にいいと思って、絵をたくさん書いたり、習字も楽しかったし、論文書くのも楽しかった。純粋に楽しんだことは、自分でも自信が持てた。思いもよらない結果にもなった。

今でもダサいのはいやだ。でも本当のダサい、は何かと考えるようになった。

自分で純粋にいい、楽しい、共感できることを追求することが自分の考えに体感を伴って、自信に繋がる、ということだと思う。

自分は何にどう反応するのか、感じるのか、考えるのか、それを純粋に重ねていくことが、自分を作ることになるんだと思う。

そして、ただ、漫然と感じるだけじゃなく、それを言語化することで、思考を味わい深く嗜めるし、さらに追求できる喜びがある気がしている。言語化しないと、単純に忘れるし、頭が整理できない、追求もできない。

哲学する、って昔からいうけど、こおいうことなのかも。

俺はすぐに答えを「知ろう」とばかりしてきた。知るのは答えではなくて「ファクト」、そしてその先に反応した自分の思い、考えを言語化していく。

言語化が圧倒的に足りない。

言語化は自分の発見。それが自分の存在を確認できることになる。それが哲学と呼ばれるものじゃないか。

鍛練LOGより https://fourteenthmoon.com/

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