待って!そもそもなんで集団で授業しなきゃいけないんだっけ??
「個別最適な学び」という言葉を聞いて、「子ども一人一人が孤独にタブレットに向かっている」、「子ども一人一人がドリルなどに孤独で励んでいる」のような景色を思い浮かべます。図書館の自習室的なイメージですね。
それを学校の通常教室で実現するとなると、何だかすごく寂しいし、気味悪さすら感じます。「活気がなくて授業っぽくない」と思ってしまいます。
授業といえば、子供の挙手があって、先生の面白い発問があって、グループ活動があって・・・という風景を思い浮かべるからです。こういったものがない授業は授業と言えないとすら思ってしまいます。
でも、ふと思ったんです。
「あれ??何で授業には発問が必要なんだっけ?子供の挙手が必要なんだっけ?グループ活動をする必要があるんだっけ?」
「これらって学びの成立に必須な条件なんだっけ?」
「授業って集団でやらなきゃいけないんだっけ???」
この問いについて考えていく記事にしていきたいと思います。
まず、思考の出発点として理想の学びを土台として設定します。僕が設定する土台は、「最も学びが深まる場面とは、学習のテーマについて熟考してきて尚且つ主張が異なる3人が対話する場面である」です。
この土台が間違っていたらこの後の思考が全部誤りになるので、この土台の妥当性については相棒に検証してもらいました。
相棒によると、僕の設定した土台(理想の状態)はこれからの議論に十分耐えうるものだそうです。相棒を信じて、ここから進めていきたいと思います。
それではよろしくお願いします!!
この理想の状態を学校現場で完璧に作るのは不可能でした。「学習のテーマについて熟考してきた三人」が学習テーマについて熟考するためには、それぞれに指導者が必要なので人数が足りないんです。ご存知の通り、基本的に先生:児童=1:30くらいですもんね。
ただ、ここからが先人たちのすごいところです。この中で無理くりでも「理想の状態」に近づけるために授業の仕方を工夫してきました。例えば、「発問→挙手からの発言」「自力解決→集団思考という流れ」「グループ活動」などです。
授業の基本技とも言える、「発問→挙手からの発言」から見ていきましょう。先生が発問し、児童が挙手をして発言することによって、児童と先生に対話が生まれます。そして、それ以外の児童は対話場面を見ることができ、体験することができます。
「最も学びが深まる場面とは、学習のテーマについて熟考してきて尚且つ主張が異なる3人が対話する場面である」
ではなくても、対話という形を作り出せているという点で、理想に近づくための一つの手段として極めて有効なものだということがわかります。
次に「自力解決→集団思考という流れ」です。自力解決で自らの立場をもち、集団で対話することで
「最も学びが深まる場面とは、学習のテーマについて熟考してきて尚且つ主張が異なる3人が対話する場面である」
太文字の部分がある程度は達成されます。これも先人たちが理想の状態に近づけるために編み出した方法論なんでしょう。
最後に「グループ活動」です。これは一番想像しやすいのではないでしょうか?できるだけ「3人」という数に近づけ、一人一人が対話に参加できるように編み出した方法論です。
紹介したのはほんの一部ですが、先人たちはこのような方法を編み出し、リソースが限られた現実の中でも理想の状態に近づけようとしてきたのだと思います。
まあでもこれはあくまでも「理想の形になるべく近づけたもの」であり、「理想の状態」ではありません。
「発問→挙手からの発言」は対話できる人数が限られます。だから他の人は対話を見ることにとどまります。
「自力解決→集団思考という流れ」では、自力解決の時間が子供によっては足りなすぎます。また、子供が熟考するためには教師の補助が必要ですが、全員を机間指導の際に補助するのは不可能です。
「グループ活動」の最も大きな問題点は、対話のタイミングが教師によって決められることです。「対話」とは誰かの合図で始まるものではなく、必要感を感じた時に発生するものです。誰かの合図で始まるような対話では学習効果は半減するでしょう。
だから、ここらが学校で行われる授業の限界であるわけです。
今までだったら!!!
もう一度「理想の学び」の図を見てみてください。
全てのネックは、熟考を助ける先生(T)の不足にあったわけです。
・・・ここをAIが代替できるとしたら・・・????
「現実の授業」が「理想の学び」に一気に近づきます。子供がAIと対話しながら学習テーマについて熟考し、考えを持ち寄って子供同士が対話する、ということが可能になるからです。
ここまできたところで今回の主題に戻りましょう。
「あれ??何で授業には発問が必要なんだっけ?子供の挙手が必要なんだっけ?グループ活動をする必要があるんだっけ?」
「これらって学びの成立に必須な条件なんだっけ?」
「授業って集団でやらなきゃいけないんだっけ?」
今までの主張を踏まえると、この主題に対する答えは・・・
必ずしもそうでない。「先生が足りない」という問題さえ解決すれば、集団での授業は必須条件ではなくなり、そこに付随する「挙手→発表」「発問」なども同様に必須条件ではなくなる。
ということになります。
記事のまとめにかかります。
もちろん今まで通りの「挙手」や「発問」ありきの授業形態も残ると思いますし、必要だと思います。
しかし、今後僕らは、新たな授業形態を考えるにあたっては、「挙手」「発問」みたいな「授業の当たり前」みたいなものが存在しない授業も想定していかなくてはいけないのかもしれません。
なぜなら既存の授業の型に止まっては、AIやICTの良さを十分に発揮できないからです。
例えばAIを従来通りの授業の流れで活用したところで、AIは「便利な辞書」くらいの使い道しかできません。
よって、これらの技術を駆使し、子供の学習効果を高めるには、学びの本質に立ち返って、「これまでの当たり前を疑う」。この姿勢をもっていかなくてはいけないなと思いました。
(・・・ぶっちゃけ嫌ですけどね・・・笑)
ここまで読んでくれてありがとうございました!!
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