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僕の理想の教育モデルは「ポケモンの世界の教育」なのかもしれない。〜教師は要らない〜


 僕のミッションは人を明るく(主体的に)することです。

 ですが、あるnoterさんとのやり取りで自分のミッションの矛盾に気付きました。

 僕は子どもを主体的に「させよう」としています。これは果たして本当の意味で子どもが主体的になれることなのかという問いを生み出します。

 じゃあ、子どもを完全に主体的にするにはどうしたら良いか。「完全放置」これしかなくなります。僕のミッションを突き詰めていくと、「教師は要らない」=「僕は要らない」というもの凄い矛盾にぶち当たるわけです。

  じゃあ教師は要らないのか。

  そんなわけないですよね。子どもが社会に適応するには、大人が社会の成立過程を「教える」必要があります。教えなくてもできるかもしれませんが、現代社会が成立するまでの年数くらいの時間が必要になるかもしれません。

 そうなると、「ファシリテーター」だの「伴走者」だの「支援者」など色々言われてますが、教師の仕事の真骨頂は「教える」ことになるのでしょう。

 これらのことから、僕は子どもに「教える」ことはできても、子どもを「完全放置」することができない以上、本当の意味で主体的にすることは原理的に不可能なのです。


 じゃあ、僕はミッションを諦めるしかないのでしょうか。

 



 💡(ピコーん!!)ポケモン!!

 



 「完全放置するしかない。」そのワードから連想したのはポケモンでした。

 ポケモンシリーズの主人公は皆んな10歳になったら旅に出ます。その間親や先生は文字通り「完全放置」です。

 そして最高傑作と名高い最新作「スカーレット・バイオレット」においても同様に親や先生は「完全放置」です。

 そして・・・それだけではありません。なんと今作、制作者側からも「完全放置」されます。これまでのシリーズではストーリーの道筋は製作者によって定められていました。しかし今回はそれすらも撤廃されています。

 自分が行きたいところから自由に攻略できるのです。

 さらにさらに・・・。今作のテーマは「教育」です。主人公は学校側から「自由に旅しておいで」と言われ、自分の見たいものを見たり、自分の会いたい人やポケモンに出会ったりして、自分にとっての宝物を見つけに行きます。

 今作がこれまでのシリーズよりレベルの高い「完全放置」であること。テーマが教育であること。そして今作が最高傑作と言われていること。

 

 これって偶然でしょうか???

 

 さらに言うと、「可愛い子には旅をさせよ」という言葉が今も伝わっていること。


 これも偶然でしょうか???



 僕は3年目を迎えようとしている、ポンコツ教員です。いますぐどうこうできるなんて思ってもいません。

 でも、自分のミッションを諦めたくないなって思います。そのために、「完全放置」の1モデルであるポケモンシリーズには学ぶところがあります。

 「どこから旅してもいい」というシステムもですし、学校の役割が面白いです。「旅の期間中はいつでも帰ってきて自分に必要な授業を受けても良い」というシステムをとっています。

 これを現実で実現するのはほぼ不可能だと思いますが、
 

・選択肢の中から学習内容を順番だけでも選べるようにしたら?
・学年単位で単元内自由進度学習を行い、自分で教室を移動できるようにしたら? 
・学校の校舎の構造を作り変え、学校内を自由に移動(旅)できるようにする。必要な時に必要な先生がいる教室に行き、授業を受けられるようにしたら?(緒川小のオープンスクールのように)
 ・なんなら校区内を自由に動き回れるようにしたら??
 ・VRなどの最先端技術を使い、仮想旅をできるようにしたら?
 
 などと想像が膨らみます。

 ・子どもは教えてもらうことは先生に集中的に教えてもらい、それを世界で使用し、課題を抱えて帰って来て、また先生に教えてもらう。

 ・先生は子どもにとっての「ツール」の一つであり、利用する対象である。 

 これが実現できれば、主体的な人材が育つのではないでしょうか。


 こんな学校作ってみたいなあ・・・✨
 

  

 

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