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教師なんかに何ができる?


 「正欲」という小説を読みました。

 この本を読んで真っ先に思い出したのは去年受け持った子。

 「先生死ね」

 と言ってきたあの子。

 「人を傷つけるのが気持ち良い」

 「幼稚園くらいの頃からそう思うようになった」

 そう言っていたあの子。

 このような子たちに対して、一体教師はどれほどのことができるのでしょう。



 僕は前年度、心の底からこの子を理解したいと、力になってあげたいと、そう思っていました。

 この子の置かれた状況から色々想像し、推測し、結論を出し、それに合った行動をしました。

 いま思えばどれほど的外れで、独りよがりで、傲慢な行動だったんでしょう。

 僕にこの子が理解できるはずがなかったんです。想像なんてできるはずなかったんです。

 ましてや、変えられるはずなんてなかったんです。

 だって、一般の男性が女の子に性欲を抱くように、その子は「人を傷つける」ことに性欲を抱いていた可能性があるから。

 それをやめさせることは、僕に「女の子を好きになるな」と言っていることと同義である可能性があるから。



 どうやら世の中には僕が想像もできないような性癖をもっている人間がたくさんいるみたいです。

 多様性という言葉にもおさまらないくらい、、、。

 僕はこれまで、こういうマイノリティーな人たちに向けて「かわいそう」とか、「自分は理解しよう」という視線を向けてきました。

 それが当然だと思ってましたし、正しいと思ってました。善のつもりでした。

 ただ、それがどれだけ烏滸がましく、独りよがりなものなのかこの小説を読んで気づきました。


 僕のこの烏滸がましさは、子どもとの接し方にも表れていました。

 問題行動を起こした児童がいるとします。

 僕は、いつもその問題行動には何か意味があるに違いないと思い、想像し、その人の思いを理解しようと努めてきました。

 でもですね、よく考えたら理解できるはずないんです。

 想像できるはずないんです。

 勝手に理解できた気になって、子どもに寄り添おうとすることは、相手の心に土足で踏み入れるような無神経なことです。

 そのようなことは、越権行為です。教師にはそんな権利与えられてないんです。

 教師にできることなんて、本当はほとんどないんでしょうね。



 じゃあ、教師にできることは何もないのか。





 そうですね。きっと何もないんだと思います。





 子どもを変えると言う意味では。




 唯一教師にできることは、

 子どもを理解しようと努めることではなく、

 子どもに信頼されるように努めること。

 高い人格をもって、信頼される教師であり続けること。

 そして、万が一秘密を打ち上げてきたら、受け止めてあげること。

 この、「待ち」の姿勢でいることこそ教師にできる唯一のことなんだと思います。


 僕たちが勤しむことは、子どもの考察なんかではなく、


 とにかく尊敬される人物であるように努めること。

 具体的には、

 公正・公平であること

 知的であること

 思いやりがあること

 学び続けていること

 授業が分かること

 面白いこと


 これらを兼ね備えている教師であれば、そのような子たちが自ら悩みを打ち明けてくれるかもしれません。


 結局、人格と教師力を極めることでしか子どもを育てることなんてできないんでしょうね、、、。


 











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