見出し画像

誇れ!俺たちは社会の歯車だ!

「社会の歯車であることを誇りたい⚙️」

これは僕自身のキャッチコピーだ。

歯車は工業の象徴であるとともに、システムの象徴でもあり、同時に運命の象徴でもある。

気づいたら製造業界に流れつき、仕組みづくりで製造業に貢献できないかと考えている僕にとって、歯車ほど自分を表すにふさわしい記号はない。

歯車は回転しながら動力を伝える。一つでは力を発揮することはできず、他の歯車と組みあうことによって力を発揮する。そう、まるで我々人間のようではないか。

自ら社会の構成要素となり、最大の力を効率よく伝えるべく回転する存在。そう考えれば、社会の歯車って素敵じゃないですか?

なぜかネガティブな「社会の歯車」

が、世間一般では「社会の歯車」という言葉は印象が良くない。

チャップリンのモダン・タイムズの影響かもしれない。

何にせよ、歯車好きであり、社会の歯車という表現の見事さに魅入られている僕としては、ネガティブな意味で「社会の歯車」という言葉を使ってほしくないのが本音だ。

Twitterでの一連のやり取りまとめ

社会の歯車はダメな存在なのか?

いやいや、そんなことはない。むしろ逆だ。社会に不可欠な、立派な存在だ。

「社会の歯車は素晴らしい」それを伝えることが、僕の一つの使命だ。

謎の正義感に駆られて下のTweetをしたところ、予想以上に多くの反応をいただくことができた。この場をお借りしてその一部を紹介したい。

元Tweet

いただいた反応の一部

歯車が一つ止まれば、機械全体の故障に繋がりかねない。それは僕たちの社会やシステムも同じだろう。

「社会の歯車」があるからこそ社会が成立する。社会を構成する「社会の歯車」こそ称賛されるべき存在だ。

そもそも比喩に使われている歯車自体、人類の叡智が詰まった優れた存在なのだ。

もし「社会の歯車」が「思考停止して自分の作業だけをこなす存在」という意味で使われているのだとしたら、それは歯車さんに失礼ではないか??

最後に僕からも

社会にも歯車にもネガティブな意味はないはずなのに、なぜか悪い意味で使われてしまう「社会の歯車」という言葉。

ひょっとしたら「自分は社会の歯車にすぎないから...」と卑下してしまう人は、自分自身の素晴らしさに気づいていないだけなのではないだろうか。

より広い視野を持って周囲を見渡してみよう。自分のそばにある大きな目的と自分がどのように関わっているか。それに気づくことができれば、もっと自分の存在意義や価値に目を向けられるかもしれない。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?