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 「智に働けば角が立つ。情に掉させば流される。意地を通せば窮屈だ。とかくに人の世は住みにくい」という『草枕』の冒頭は、今ではあまりに有名になった夏目漱石の麗筆である。

 かねてより私は、奥妙で、時にユーモラスな文章表現や、細緻な人間心理の観察、そしてその巧みな描写に魅了され、漱石を敬愛して久しい。出会いは高等学校の現代文の授業で『こころ』を読んだというおそよ平凡で一般的なものだが、これ以来悉皆漱石に傾倒している。
 私の文章に対する観念――何かこう書くと偉大なもののように思われるが、果しておよそ小さなものである――は殆ど漱石のものからきている。また私の精神についても、漱石文学の登場人物に対して大きな影響を感じている。つまり私において漱石の存在はかなり大きなものであるのだ。そこで時折この場で漱石について書こうと思うのだが、いざ文字に起こしてみようと思うと、なかなか漱石及び彼の文学について、私の感じているものの仔細を纏綿に書き記すことができないでいた。書き記したいことは沢山あって、車輪を付けて転がるように走ってくるのだが、それらの複雑な関わり合いを頭に描くことができるために、また同時に肝心の出口が広く開けることができないために、極めて輻湊してしまってそのうちの一つも出てこられないのだ。畢竟漱石に対する理解が十分でないのである。ちょっと書いてみては消し、消した後では毫も書けずに唸ることを暫くやっているうちに、つい一年以上経過して、2021年の丑年になった。
 牛というと、私がよく思い返す言葉の中に漱石を由来とするものある。そこで私はこの丑年の初めに、漱石についての文章を書く好材料と機会を得たものとして、漱石文学、また彼の個人主義について少し弁じてみたいと思う。

 まず上述した言葉とは、1916年(大正5年)に漱石が芥川龍之介と久米正雄に送った書簡に書かれたものである。

明暗双々(八月二十一日)
『(前略)勉強をしますか。何か書きますか。君方は新時代の作家になるつもりでしょう。僕もそのつもりであなた方の将来を見ています。どうぞ偉くなってください。しかしむやみにあせってはいけません。ただ牛のように図々しく進んでいくのが大事です(後略)』

牛になって人間を押せ(八月二十四日)
『(前略)牛になる事はどうしても必要です。われわらはとかく馬になりがるが、牛にはなかなかなりきれないです。僕のような老獪なものでも、ただいま牛と馬をつがって孕める事ある相の子位な程度のものです。
 あせっては不可せん。根気ずくでお出でなさい。世の中は根気の前に頭を下げることを知っていますが、火花の前には一瞬の記憶しか与えてくれません。うんうん死ぬまで押すのです。それだけです。決して相手を拵えて押しちゃ不可せん。相手はいくらでも後から後からと出て来ます。そうして我々を悩ませます。牛は超然と押していくのです。何を押すかと聞くなら申します。人間を押すのです。文士を押すのではありません。
 これから湯に入ります』

 (三好行雄編. (1990) 『漱石書簡集』岩波書店.) 

 私は時折この「牛のように」という助言を理想の行動規範として思い返す。特に私のような突出した能力を持たない人間には、全く道理にかなった意見だと考える。私は馬になれない。馬のように速く地を駆けることができない。だから何かを成すためには、馬になろうとしたって無駄である。牛のように、ゆっくりでも根気強く、超然と押していかなくてはならない。
 さて、この書簡を前置きにして、いよいよ本題へ移ろうと思う。


漱石文学の魅力―低徊趣味―

 このような、客観的で、どちらかというと陰った活力の調子は、漱石文学にも共通して見られる(と思う)。漱石文学は時折、低徊趣味的とか、余裕派とか称される。私にはそれがなんの意味を有するか判然としないが、思うに、一般よりも一つの物を細かく観察し、かつ全体と相互に関連しあったものと捉え、対象から一歩ひいたあたりから、右から見たり左から見たりして、余裕を持った態度で美や愚や内外の性質を捉えるのである。だからこそ漱石の観察・描写は明晰で、非常に知的な印象を与えるのである。(分析的な物事の捉え方は東京帝国大学で教鞭を執った際にも現れたようで、堅苦しい文学の講義は生徒からは不評であり、前任の小泉八雲を留任させる運動も起こったらしい)

 『牛』の書簡を見てもわかるように、低徊趣味と言っても、その内には熱い血が通っている。私は漱石の魅力がここにおいて存在すると思う。決して陰っていても冷めてはいないのだ。漱石文学に生き死にといった第一義の烈しい人間の活動は出てこない。喜劇とも悲劇ともつかない。終幕はあっさり下りる。それでも、その文章の下に、脈動する熱い血流を我々は感ずることができるのだ。それは時に喜劇よりも悲劇よりも鋭く強く読者の精神を左右するのである。

 漱石の魅力はこれにて言い尽くしたが、あまりに抽象的だから、もう少し微に入り細に穿った具体的な話をしよう。


文章表現・技巧

 まず漱石の文章はリズムがあって、軽快でテンポ良く読みやすい。これは漱石が漢学私塾二松學舍で漢学をやっていたことに由来するらしい。冒頭にあげた『草枕』書き出しがそうであるが、多くの文章は比較的短く軽々と出てくる。かつ漢文のように一定のリズムがあって非常に読みやすい。そうして、こうしたテンポの良い短い文の前後には大抵長い文章がくる。つまり、軽め、軽め、重め、軽め、軽め、...とより広い単位でも読んでいて気持ちの良いリズムができているのである。特に、真に迫る場面では短い文が息を呑むように次々と現れてきたり、複雑な心理描写や低徊的な場面では数行にわたる一文がきたり、それが話の内容と、執濃くない程度にうまく一致しているのだから素晴らしい。最近読んだものの中では、『彼岸過迄』の探偵パートなどは非常に緊密で、かつユーモラスな面白いものだった。

 文章の構成以前に、漱石の語彙は最早言うまでもないもないだろう。読んでいる最中にわからない単語を辞書で引くと、載っている例文が今まさに読んでいる文章であるということが珍しくない。文豪に相応しい豊富な語彙である。また、創作された当て字も多用される。どれもユーモラスで、成る程と感じてしまうものばかりである。語から目線を広げると、比喩表現も漱石独特で非常に巧みである。さらにもっと広く見ると、敬太郎のステッキや、美禰子の香水、三四郎や坊っちゃんの借金、藤尾の金時計など、小物に効果を持たせるのが上手い。これも漱石文学の魅力を形成する重要な要素だと思う。

 散見されるテンポの良い短文と豊富な語彙、これは文章に強弱抑揚をつけ、気持ちの良い文章を作り出すとともに、一部分に強いスポットライトを当てることができる様式として、所謂名文の多いことの根拠としても機能している。漱石文学に沢山の名文がある。『草枕』書き出しの他にも、「精神的に向上心のないものはばかだ」とか、「吾輩は猫である。名前はまだない」とか、「だから清の墓は小日向の養源寺にある」とか、有名で印象的な文章が多い。もっと私の好きなところで言うと、「俗界万斛の反吐皆動の一字より来る」とか「自分の神経は、自分に特有なる細緻な思索力と、鋭敏な感応性に対して払う租税である。高尚な教育の彼岸に起る反響の苦痛である。天爵的に貴族となった報に受ける不文の刑罰である」とか、「吾人の性情を瞬刻に陶冶して醇乎として醇なる詩境に入らしむるのは自然である」などなどである。こうした特徴には、きっと強いフレーズを作る能力の他にも、周りを固めたり、流れやテンポを作ったりする、高い文章基盤の建築技術にも注目を与えるべきであろう。
 

 殊にこの傾向を強く感じることができるのは矢張り『草枕』だ。俳句的小説ともいわれるほど、リズムや語彙、表現といった観点から美しいものを読むことができる。少しく冗長すぎると思うこともあるかもしれないが、面白いからぜひ読んでほしい。


漱石の個人主義

 次に人間心理の観察と描写について述べよう。先申した通り、余裕派の漱石文学に烈しい命の戦いは出てこない。したがって人間心理も多くは危機一髪の切羽詰まったものではない。主人公は女性に対してどっちつかずだったり、職にもつかずのらくらしていたりする。だからこそ、より自然でむしろ劇的なものなのだ。
 ところで漱石は文学を以下のように定義している。

F+f 
F:焦点的印象または観念,
f:Fに附着する情緒

(これは『文学論』冒頭にあるらしいが、私はまだ読んだことがないし、漱石はこの『文学論』を「色々の事情で事業を半途で中止した失敗の亡骸、それも畸形児の亡骸」と評している。だからそこまで重大に取り扱わない)

 この定義からもわかるように、漱石文学には一つの主題があって、それを低徊趣味的に語るように心理描写がなされていく。したがって明晰で、上品な仕上がりになっている。その主題、すなわちFは、作品によって微妙に異なるが、根底で「エゴイズム」や「義務と自由」、「自然(natureでなくて、人間心理の自然状態といった意味)」と連関を持つ(エゴイズムと言えば教科書でよく出てくる漱石文学の特徴だ)。したがって、人間心理の描写は、これらの立場に立ったところ、すなわち漱石の個人主義、から描きだされるのだ。これは多少なりとも極言で、決して個人主義に則ったものではないが、彼の個人主義を理解することで、複雑で明晰な登場人物の心理とその描写を理解する一助になるだろう(漱石が作り出す想像の人なんだから当然と言えば当然だ)と思う。また、そうした方が、心理の特徴やら何やらを分析して述べるより面白いし、実際に応用しやすいだろうと思われるのだ。とは言いつつも、私にその分析を書く力がまだ備わっていないというのが、本当のところである。
 そういうわけで、漱石の個人主義を紹介して最後にしようと思う。
 

 彼の個人主義は、大正三年に学習院で行われた講演の中ですべて語られている。曰く、腹の中で煮え切らない、徹底しない、ああでもありこうでもあるというような海鼠のような精神をいだいてぼんやりしていては不愉快である。不幸である。一つ自分の鶴嘴で掘り当てるところまで進んでいって、ああここに俺の進むべき道があった!ようやく掘り当てた!こういう感投詞を心の底から叫びだされるとき、はじめて心を安んずることが出来るのでしょう。容易に打ち壊されない自信が、その叫び声とともにむくむく首を擡げてくるのではありませんか。そうしてそこに尻を落付けて漸々前の方に進んでいくと持って生れた個性ははじめて腰がすわり、ますます発展していくのであって、それが幸福と安心につながるのでしょう。というのだ。

 また、自分の進むべき道を見つけるために邁進する上で、「自己本位」という言葉を手にして随分強くなったと述べている。世間や他人の外聞に左右されず、自分を本位にして実行をするというようなことだが、『虞美人草』では「真面目」という言葉に関連が見られる。本作の登場人物宗近は真面目を以下のように述べている。

「真面目になれるほど、自信力の出る事はない。真面目になれるほど、腰が据わる事はない。真面目になれるほど、精神の存在を自覚する事はない。天地の前に自分が現存していると云う観念は、真面目になってはじめて得られる自覚だ。真面目とはね、君、真剣勝負の意味だよ。やっつける意味だよ。やっつけなくちゃいられない意味だよ。人間全体が活動する意味だよ。口が巧者に働いたり、手が小器用に働いたりするのは、いくら働いたって真面目じゃない。頭の中を遺憾なく世の中へ敲きつけてはじめて真面目になった気持になる。安心する。」
「真面目と云うのはね、僕に云わせると、つまり実行の二字に帰着するのだ」

 ただし、この自由、個性の尊重は、他人にも当然認められるべきものであるということを主張し、その当時流行していた自我、自覚を掲げて自分勝手に振舞う符丁とする個人主義を批判している。つまり、漱石は自身の個人主義を、個人の自由が個性の発展上極めて必要なものであって、その個性の発展が幸福に非常な関係を及ぼすのだから、どうしても他に影響のない限り、僕は左を向く、君は右を向いても差し支えないくらいの自由は、自分でも把持し、他人にも寄与しなくてはなるまい、とまとめている。
(この講演については、『私の個人主義』という本になって出版されている講演録に載っているから、そっちを読むといい)

 この個人主義は、宗近のように登場人物の中ではっきりと持っているものがいる。そうしてこの個人主義の反対を持つものもいる。そして何よりも、漱石が生み出した人物の中には、この個人主義の熱い血が通っているのである。
 文学としてでなくても、この個人主義という思考法は、漱石の時代よりはるかに複雑で混沌とし、個人の幸福というものが多様に、細分に、希薄になった現代においてもなお、非常に有効だろうと思われる。
 だから私は「牛のように」という書簡の中の文章を時折反芻してみるのである。そうして冒頭で取り上げたのである。


 ここまで漱石・漱石文学について十分詳しくないから、そっちの説明が主にならないように、ちょっと文学を離れた形で漱石について記してきた。私の拙劣な文章でも漱石文学の魅力が伝わっていれば、また、彼の個人主義について理解し、少なからず有効に活用できると感じられたのなら幸いである。



2021イラスト2

一時的なヘッダー
年賀状の代わりに描いたユグドラシルのカードに出てくる動物をモチーフにした牛

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