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日日是好日

 雲門という中国の禅師がある時大勢の弟子に向かってこう聞いた。
「これまでの十五日以前のことはさておき、これからの十五日以後の心境を一言で述べよ」
 つまり今日までのことは問わないとして、明日からどういう覚悟で生きていくのかと聞くのである。弟子達が閉口していると、雲門禅師が自答して、「日日是好日にちにちこれこうじつ」と言ったそうだ。

 ───ベランダで育てている日々草に水をやっていたら、不図ふとこんな古い話を思い出した。思い出したと思うと、すぐに家を発つ時刻になって、それぎり頭から離れてしまった。


1.  セミナー

 光と陰を交互に渡りながら、木漏れ日の差す並木路を錆びついた自転車で走る。熱い風が身体を這うように靡いて背中へ抜けていく。左右で蝉が鳴いているのが聞こえる。その風のたなびく雲もなく、その声の染み入る岩もなく、ただ筑波の森で響めいて、じりじりと陰鬱な夏の日を作り出している。少し早い猛暑と蝉の輪唱に、背後から無理に押されるような感覚がする。劣化して弾力の無くなった車輪が重そうに私の体を運んでいた。
 木々を横目にして、逃げるように折れて道へ入ると、私の所属する研究室のあるG棟に着いた。この日は九時半から定例のセミナーがあった。
 教室に入ると、既に幾らか人があって、皆ラップトップを開いて黙然としている。前方にはすでに本日の発表者である先輩が登壇の席に着いていた。空調が幾らか効いているようだが、ここまで自転車で走ってきたせいで随分蒸し暑く感じた。
 私はいつも通りの席へ移動して、平生の通り左の席に座っているIに挨拶をした。初回のセミナーでIと並んで座った時からずっと同じ場所に座っているが、どうにもこの席が先生を除いて最前であるから、私は多少極まりが悪かった。そこまでの意欲もないのに、下がろうにも後ろが詰まってしまっていて難しいので、私は仕方なく今日もこの席に座った。
 定刻になって先生が二人入って、態とらしい挨拶を済ますと、学生による発表が始まった。この日は先輩による論文の紹介だった。

 存外発表の間中は生温い感じがする。皆真剣に聞いているんだか、画面に向って考え事をしているのかわからない。発表も真面目なんだが不真面目なんだかわからない。セミナーでは一人一回の質問が義務付けられているので、何か質問を捻り出すために資料を注意深く読んでみるが、矢張り何の話だか判然しない。NMRだとか、キサンチンオキシダーゼだとか、示唆されるだとか、何とか蚊とか難しいことを述べ立てているのが聞こえる。聞こえるだけで、頭の中で咀嚼されずに、生温い夏の風のようにすり抜けていくばかりである。不図Iの方を横目で見ると、ラップトップのモニターで隠すように立てかけたスマホを弄っている。
 それから二十分余で発表が終わった。先生によるスライドの添削が済んでいよいよ質疑応答になると、学生がこれまた何とか蚊とか質問し始めた。私も仕方がないので、
 「本研究は全て分光学的手法によっていますが云々、化合物の影響云々、分光学的ではない手法は云々...」と胡乱なことを聞いてみる。先輩は私の質問を順序立てて論理に合った回答をくれた。私はそれっぽく
 「成程」といって難を逃れた。
 一通りの学生の質問が済むと、これにて論文紹介はお終いとなり、平生通り進行の合図もなく各々の研究の進捗報告が始まる。高学年の者から一人ずつ担当の先生に研究の相談やらデータの発表をする。十人近くが発表を済ますと、漸く私の番になった。
 「先生、リアルタイムTh-Tアッセイをやっていて、まだデータがばらつきます」
 私はこう云いながら、スクリーンに写した散布図と先生を交互に眺めた。先生は口を噤んだまま、目を細めて散布図を睨んでいる。
 実のところ、二月に研究室に所属して、四月頃から本格的に研究をやっているのであるが、七月の初夏に至っても何も進捗がない。

 私は認知症の予防の研究をやっている。こういえば聞こえはいいが、実際はタンパク質を相手に色々の化学をやる研究をおこなっている。だいぶ前からこの研究室で研究が続けられてきたテーマである。
 確か二月ごろに先輩にはじめて実験の基本を教えてもらったが、印刷して手渡されたプロトコルが苦悩の萌芽であった。何年も使い古されたこの手法を頼りにしていることが不思議になって、より詳細なアッセイをやりたくなったのである。再現性が低いという問題を解決したくなったのである。畢竟これがまずかった。私の相手の42残基のペプチドはあまりに繊細で、純度や由来、温度やpH、物理的応力、濃度、気-液界面に影響されやすい。したがって測定誤差が大きい。リアルタイムでのモニタリングをやってみると、反対にそれがよくわかってしまった。
 「この、前のスライドの論文のは攪拌はいくつくらいなんだっけ?」
 「えーっと、900 rpmです」
 「まだプラトーになったとき、だいぶバラついてて、それじゃデータとして出せないから」
 「はあ」
 「POM球とかいれたらどうなるんだろうね。いやAくんはPOM球っていう、小さいビーズを入れてやってるからさ」
 「まだ試してないですね。やってみます」
 「うん、はいはい、まあもう少しやってみて」

 先生は毎度呑気なことを言う。私はどうにかリアルタイムの試験法を確立しようとしているが、既報の通りにやってもどうにもデータがノイズ様にばらついてしまう。既に500 μgで数万円のタンパク質を何回も烏有に帰してしまっているのであるが、先生は毎回こうした太平楽を言うので、私もおべっかを使って平気な顔をしている。
 同期の面々の報告を聞く限り、皆それなりに研究が進んでいるようだが、私はいつまでも足踏みをしている気がする。
 そろそろマウスを用いたin vivoでの実験も始まるので、はやく現段階の研究を進めなければならないのであるが、全くうまく進んでいない。
 それから種々の業務連絡を済ませて漸くセミナーが終わった。
 いつの間にか正午を回っていた。

 下の階の学生居室にIとともに向かう。階段を降りながら、今日はどんな実験をするかと彼に聞くと、
 「今日はスプラウト収穫するわ」と言った。
 彼は相変わらず百姓をやっている。何をやっているのか聞くと、決まって種を蒔いたか、収穫したかしか言わない。詳しく聞くと植物の芽生えに青色光を当てて、屈性について調べているらしい。

 ……控室には一人一つ以上のデスクがあって、冷蔵庫やケトルなどの生活家電も備わっているから、普段学生の溜まり場になっている。今日も例に漏れずセミナーが終わると皆ここへ戻ってきて、そのうちの多少が集まって与太話を始めた。
 先輩たちは陽気で、何気ない会話を楽しそうにやっている。私も時折それに混じる。その日の質問者や発表者を揶揄したり、お互いの些細な変化を批評したり、日々の事柄を話題にしたりして和やかに過ごしている。
 そのうちみんなで飯を食いに行こうという段になる。私は弁当を持ってきているか、百姓のIと二人で飯を食いに行ってしまうので、あまりこの昼食の会には参加しないが、偶に都合が良い時に連れて行ってもらう。この日は弁当も急いた予定もなかったのでIとともに付いていくことにした。

2.  昼食

 Eさんの運転する車とTさんの運転する車の二台で定食屋まで行った。この定食屋は名もなき食事処 (実はあすこはくじら食堂という名前があるらしい) の話をしたときに出てきたところで、やはりこの研究室でも人気が高いようだった。
 この日は遅くに行ったので、着いた頃には外にまで人が並んでいた。店は我々が並んですぐに営業中の看板がひっくり返って閉店を示したので、危うく入れないところであった。
 列に並んで待っている間、種々の会話をする。背中が固いとか、猿腕だとか、Sさんの服の不思議な柄だとか、Kさんが週三回ここにきているだとか。
 先輩たちの面白いのは、これは先輩に限らず、大学教育を受けた者に共通することであるが、会話の中で相手の発言を全て理解できるために、相手の意図と自ずからの思考が懸絶することが無いために、第一に否定することが殆ど無いということだ。何を言っても、多少飛躍したことを言っても、容喙しても、返ってくる多くの第一声は「あー確かに」か「なるほどね」である。恐らく彼等はどの立場のどのような感情も意見も頭の中で再現することが出来る。だからそれを理解の領域外として第一に否定することがないのである。そしてそこに何も相手の上に立つようなスノッブの感じはしない。これはとても良いことだが、親睦が浅く面白味として敢えて意見を否定することの少ない場合は少し厄介なことになる。有り体に言えば、「確かに」が往来する会話は調子の悪いものである。お互いの意見や感情を再現し理解するたびに、少しずつお互いの実際がずれていく。否定という確認の作業を失って、何となく中心を失ったような話になる。この一見噛み合っているすれ違いの解消がまず知己ちきとしての超えるべき段階である。大学以降の関係が薄い膜のようなものだと形容したくなるのはこういうところに由来するのかもしれない。
 私はここに由来する浮遊感をこの会話の中にも覚えた。だから時折隣にいたIにのみ話しかけて、二人の内輪の話を少しだけやった。
 薄い膜のような関係性は、只膜があるばかりでは体に張り付いて邪魔に思うこともあれど、少なくともそのうちの昵懇の人間、──Iのような──は柱のように膜を支えてくれる良い存在である。いくら薄い膜でも雨くらいはしのげるようになるだろう。 

 ──暫くして定食屋の中へ案内される。我々は人数が多く、二分された席に着いた。ちょうど壁を挟んで手前側と奥側の空間の境界にあたる二つの洋卓に座らされたので、我々七人は四人と三人に分かれて、それぎりこの小人数で飯を食うことになった。
 私は店に入った順番そのままに奥側の三人の方に着席した。この中には先輩のIさんと百姓のIがいた。
 席から見えるメニュー表を三人で眺めて、どれを食うか考える振りをしたり、決めた振りをしたりした。
 実際この店の飯はどれも美味いのでどれを食うか暫く悩む。私は散々迷った挙句、今まで見たことがなかったレバー唐揚げ定食を頼んだ。そこまでレバーは好きじゃない上に、米とも合わんだろうとは思ったが、なんとなく新しいものを食べたい気分であった。同席した大食漢の先輩のIさんはチキン南蛮を頼んだ。残るIはイワシを煮たのを頼んだ。
 さていよいよどういう話をするだろうと思料する前に、誰が言い出したか、自炊の話が始まった。

 「おれは自炊しないっすね全然」とIが言った。
 「あ、そうなんだ。おれもたまにかなぁ」とIさんが話に入った。どうやらIは総菜やコンビニの飯で日々を過ごしているらしかった。それからIさんは
 「とっちゃんは」と聞いてきたので、
 「なるべくするようにはしてんるんですけど、まあ面倒ですよね」と言いつつ、日々の飯について吝嗇りんしょくにならずに放縦ほうしょうに好きなものを買って食える安逸な身分を多少羨ましく考えた。
 ところへIはこんなことを言った。
 「なんか自分で作った飯って美味くなくない?前はなんか作っとったけど、不味いからやめたわ」
 「そう?別に不味くもならんでしょ」
 「それはお前が上手なだけだって。俺なんか対して料理しないから、作ったところであんま美味くないし、買って食った方がマシだわ」
 「あーまぁ確かに」とIさんもIの意見を案の定是認している。
 「自分でお店くらい美味いの作れんならいいけどさあ」  
 こういうIはご飯にめんつゆをかけて食っているそうだ。めんつゆを米に掛けるくらいが作る手間と出来上がった味の平衡が保たれるのか知らん。
 そうしているうちに飯が来た。未知のレバー唐揚げ定食は、食べてみるとなかなか美味かった。このレバーはサクサクとした食感で臭みもなく、甘辛い味付けで米とも合った。
 「じゃあ飯作る人でも雇えば」
 私は頬に飯を入れながら、いつものようにIにふざけた冗談を言った。
 「家政婦さんってこと?絶対いらねえわ。高いっしょ」
 「なんかあるじゃん。作り置きしてくれる人みたいな」
「ああ、あるんだそういうの」
「じゃあ、Iがやるとしたらいくらならやる?」
 私はIにこういう下らない問答をくだくだしく仕掛けるのを愉快にしている。Iもそれをよく理解しているので、
 「あー、俺がやるとしてね。いやー時給2000円でもやらんわ」と冷笑かした。
 ここでしばらく懸命に飯を口に運んでいたIさんが会話に入ってきた。その様は少し狼藉だと言っても差し支えはなかった。
 「1000円くらいならやってもいいなあ」
 我々がいくらなら働くかという話をしている間に、Iさんはいくらで雇うか側の参加者として入ってきた。Iさんは洒然しゃぜんとして飯をもぐもぐしている。矢張やはり我々は話の中心を失った。私は一瞬の混乱にすぐに挨拶をしかねたので、去就を決するに至らず、生返事をしたあと話はそのまま流れていった。

 Iさんは一寸ちょっと間の抜けたところのある人である。剛腹ごうふくというと大仰で、放恣ほうしというと大袈裟だが、道理を知らないような顔つきをしている。体躯も、細く削れたような私と比べると随分重厚に肥えている。見目も中味も何となく愛嬌があるので、先輩たちから可愛がられている。少し滅入っている人もいるが。
 しかしながら矢張り思慮に欠けたところがあるので、このように会話の平均を無意識に転覆させることが間々ある。それを叩いて元の形に修正できるようなRやEさんやMさんが同じ場にいないと苦労することもある。
 当のIさん本人はそんなことを天で気にしないで、レバー唐揚げとチキン南蛮を一欠け交換しようと言って、私のレバー唐揚げをつまんで美味そう食っていた。
 私はこういう人を見ると、どこか有難い心持ちになる。ここに彼を揶揄するアイロニーは毫もなくて、ただ彼は私にないものを明らかに持っているという事実に対して、その重厚な存在に対して全く有難い気分になるのだ。その上で、Iさんはその手を掲げて勝ち誇る必要すら感じずに泰然としている。私が欲してやまないものを、隠さずに、嫌気も衒気げんきもアイロニーもなく私に披露している。薩張している。Iさんが真面目であるかは知らないが、私はこの人に決して勝つことができないというある種神格的な観念にすら襲われるのである。
 敬虔の念とともにIさんと向かってるうちに、すぐにIさんは目の前の飯を平らげた。私もそれに追いつこうと、次から次へと飯を口へ運んでいった。

 こうして腹を満たした我々は来た車で元のG棟へ戻った。 

3.  実験

 それから私は来週行われる進捗報告のために実験の準備を始めることにした。手順をノートに書き下しておさらいしたあと、早速一階へ下った。
 -80℃のフリーザーから、僅か100 μg程度のアミロイドβというペプチドが入ったエッペンドルフチューブを取り出した。これがアルツハイマー病の原因とされているもので、簡単に云えば脳にたまるゴミである。正常な脳では正しく掃除されるが、加齢による代謝機能の低下などとともに徐々に蓄積して線維を形成し、その過程で毒性を持ち、脳を破壊して発症へ進む。
 そこで私の研究というのはこのゴミが線維になる過程を止めてしまえば認知症は発症しないのではないかという仮説に基づいて、そういう活性を持った化合物を探すというものである。だから極言すれば認知症の予防を目的としているのである。
 このゴミは、脳内のような低濃度ではすぐには凝集しないが、実験系に使うような高濃度ではすぐに凝集してしまう。凝集してしまえばそれを止める実験は再現できない。(凝集というのも、単に集まっていくのではなくて、核ができて一気に凝集するというシグモイド様の様態を示す。) そこでこのゴミを使う準備として、完全な単量体、モノマーにする処理をする必要がある。
 二階に上がって、このエッペンにいわゆる凝集除去剤であるHFIPと呼ばれる有機溶媒を加え、これを30分室温でインキュベートしたのち、氷上での針の先から超音波で凝集核を除去する。これでいわゆるシードフリーのアミロイドβが出来上がった。しかしアッセイに用いるためにはHFIPを飛ばさなければならない。手頃な真空ポンプを使ったり、遠心濃縮をしたりするとダイマー (ペプチドが二つ凝集したもの) になるという論文を読んだことがあるので、わざわざ液体窒素で凍らせてから凍結乾燥をしている。これが正しいのかは知らない。
 凍結乾燥機は三階にある。こうしてみるとフリーザーは一階で、主な実験室は一階と二階で、凍結乾燥機と氷は三階にあるから行き来が大変である。しかもソニケーターはG棟を出て隣にある遺伝子実験センターまで借りに行かなくてはならないので、実験をすると一日一万歩も歩くと先輩が云うのも頷ける。
 古びた凍結乾燥機の電源を順に入れて、スタートを押すと、自動のセットアップが始まった。かなりの低温と低圧にまで調整される。大体15分くらいかかる。先にセットアップを始めておくべきことを忘れていて、凍結乾燥機の前に座って黙然としていた。
 氷の中に置かれたアミロイドβを見て、随分手間のかかる奴だと思った。しかしながら一週間も育つのを待たなくてはならない植物を実験に用いているIやRのことを思い出して、まだ幸せなものかしらんと考えた。
 10分くらいが経って、もうすぐ準備が済むだろうと、立ち上がって機械の方を眺めると、忽然こつぜん機械が空気の出入する音と大きいブザー音とともに停止してしまった。インジケーターを見ると、REF.ALARM と表示されている。恐らく配線が悪いのだろう。立ち上げ直しても症状は改善しなかったので仕方なく2階の使いづらい方の凍結乾燥機で刻苦して凍結乾燥を済ませた。

 こうして漸く手に入ったモノマーのアミロイドβ粉末を用いて凝集をモニタリングする。
 このアミロイドβは特徴的な構造とともに凝集するので、この構造に特異的にくっついて蛍光を発する蛍光色素 (チオフラビンT, Th-T) を一緒に入れておいて、経時的に蛍光強度を測定すれば凝集の度合いが分かる。これが所謂Th-Tアッセイとよばれる手法である。
 さて、このTh-Tアッセイは二種類に大別でき、従来行われていたものは、インキュベートとサンプリングおよび蛍光測定を分けた大体4時間ごとの測定であった。4時間ごとにサンプリングするのが何より面倒であったし、4時間ごとに見ていては凝集の様態の測定はそれほど正確とは言えない。
 そこで私がやっているのが、測定とインキュベートを同時に行った10分毎の測定である。簡便かつ詳細なモニタリングができるが、つまり粗もよく見えるということになる。

 実際に何度かリアルタイムのTh-Tアッセイをしてみて、凝集が終わる頃になって測定値が異常に上下することがわかった。散布図にしてみると、到底評価できたものではない。従来の方法では確認できなかった、大きなばらつきがある。

 世に出ている論文では綺麗なグラフが載っているんだから、何かしらの答えがあるに違いないと思ったが、様々な条件を試しても依然このばらつきは解決していない。一体どういうわけなんだろう。ファインマンの言う科学的誠実さは何を隠しているのだろう。いくら悩んでもデータが全てであって、実行よりも考究に平衡の寄った私に一体何ができるのだろうと、私は失敗の日々から思わざるを得ない。
 この日やったのは、攪拌を楕円軌道から、線形軌道に変えた測定であった。このペプチドの凝集には気-液界面や液-液相分離が案外重要であるということを読んだので、試してみようと思い立ったのであった。
 しかしこんな瑣事で結果が変わるのかという感とともに、2階の実験室を出て居室に向かった。

 途中、階段の踊り場の窓から外の景色が見えた。もうだいぶ時が経ったようだが、外はまだ昼のようである。夏は日が長い。暑さこそあれ明るいと気分がいい。人の世も住みやすい。住みにくい世から住みにくき煩いを引き抜く前に、太陽はこの煩いを溶かすように照らし尽くしている。
 しかし明暗は表裏のごとく、明るいところにはきっと暗い影が差す。大いなる悲観は大いなる楽観に一致するがごとく、大いなる楽観は大いなる悲観に一致する。住みやすいところもまた住みにくい。あらゆる芸術の士は天下で最も幸福といえど、同時に最も不幸である。気分が良いとすなわち気分が悪い。そう思った。

 私が思うに、この実験はうまくいかないかもしれない。ある論文で読んだが、通常シグモイド曲線になるべき凝集の様態に、二相性が現れたり、ばらつきが出たりするのは、ペプチドの純度が低いことが主な原因のようだった。特に我々が購入して使用しているような化学合成で作られたアミロイドβでは、若干のアミノ酸配列の異なるペプチドが複雑な挙動の変化を生むらしい。
 ペプチドの精製が出来るHPLCの不調が起こる以前までは精製済みのアミロイドβを購入しないで、縁のある京大の研究室の方から恵与してもらって、こちらで精製をしていたということも聞いたことがあったが、調べてみるとそのアミロイドβもどうやら合成品のようだった。組換えで作られたものを買ったところで、上手くいく保証もない。何だか私はもっと根本的なところに原因がある気がして止まない。
 階段を登り切って、少し溜息が漏れた。

 居室へ戻ると、ソファにTさんとMさんが座っていた。Mさんは私をみて、
 「お、とじ」
といった。続いてTさんが
 「リアルタイムやってたの?」といったので、
 「そうなんですけど、ちょっとダメそうですね今回も」と返事をするとTさんは失笑した。
 Tさんも私と同じような研究をやっている先輩で、普段からよく助言をもらっている。とはいえ、その助言は模糊たるもので、私がAがいいかと聞けばAがいいかもしれないと答え、Bがいいかと聞けば、Bでもいいかもしれないというのだから、まるで自分と対話しているようなものなのである。
「POM球入れてやったほうがいいですかね」
「入れてやってみてもいいんじゃない?」
 私は深く息をついて、ソファの空いたところへ腰を掛けた。この空気は私にとって心地の良いものだった。それでも卒業研究の手前、今日やるべき実験を終わらせていても、いつまでもこのソファに尻を落ち着けることはできなかった。
 私は荷物をまとめていまだ明るい空の下で急ぎ足で帰路に就いた。


4.筑波山

 それからしばらく経って、季節は秋になった。リアルタイムTh-Tアッセイは依然うまくいっていない。共同研究先は論文の投稿を焦っているようで、ひとまず従来の方法でデータを揃えている。
 その最中で私の産業技術総合研究所 (産総研) での研究の参加が決まった。先輩が扱っている化合物について、マウスにおける効果を検証するための研究であるが、我々の研究室はマウスを扱う施設を持っていないため、態々この産総研に出向くことになったのである。数年前から内々に話は上がっていたようだが、漸くということだった。

 この顛末は同時に車の必要を意味していた。産総研というのは国の研究施設で、大学からは離れたところにあるので、毎日のように通うことになると自転車では骨が折れるし、毎回先輩の車に相乗りするのも気が滅入る。
 新しくバイトを始めて、安い車を買おうとしていたが、全く幸運なことに祖父母が知り合いから車を安く斡旋してくれた。

 ひと月程度で種々の手続きを終えて、父母が車をつくばまで持ってきてくれた。初めてその車を見たときに、直すといっていた傷や凹みなどが結構残っていたのがまず印象についたが、石屋の爺さんが酷使していた車という割に存外奇麗な外観だった。酷使していた割に屋内に置いていたようで、凹んだ背面と比べて前面は新車のような輝きを以て私の眼に映った。
 その日は休日だったので、試し乗りもかねて3人で筑波山まで車で行こうという話になった。

 車に乗ること自体が久しぶりであった。助手席には父が乗った。父は仕事上車に五月蠅い人で、普段こそほとんど話をしない関係なのに、私が運転するといちいち何か言ってくるので、平生に増して凝ってぎこちない空気が車内に漂っていた。私は発進する前から何となく厭な心持がした。
 車は揺れながら北上した。幸いただ道路の上を走るだけだったから、特に運転に困ることはなく、20分余りで筑波山へ着いた。時折父は、飛ばし過ぎだとか、ルームミラーを変えただとか、小さな話を幾つかした。

 筑波山の麓には神社があり、その入り口の大きな鳥居の付近に土産屋や宿などが並んでいて、わずかに観光地の色彩を放っている。この日は平日で人の気配もなく、微かに雨の降る曇った空も相まってかつて栄えただろう痕跡がただ寂しく映った。
 近くの駐車場はどこも空いていたが、一番手ごろなところへ入場すると、暇そうにしていた爺さんが
「オーライ、オーライ」と手を拱いて誘導した。
料金渡すと「生憎の天気だね」と爺さんらしいことを言った。

 我々は形式的に観光を済ます人のように、山頂をロープウェイで目指した。褪せた色の小屋で母が切符を買っている間、父は今日何度目かの煙草を飲んだ。父は愛煙家で、私の想起する父はいつも細い煙草を手に持って、不平とともに少ない煙を口から洩らしているのである。煙草も値上げが続いて父は何度か銘柄を変えた。家に禁煙を勧める者はいない。その煙に厭な顔をするものも、喜ぶものもいない。関心の外に置かれた父のその立ち様は手持無沙汰を嫌うというより、どこか落ち着いていないような感じを私に与えた。

 ロープウェイの乗り場は階段を上った先にあった。母は私の先を進みながら、
 「小さい頃はいろんなところに行ったんだよ」と言った。
 「なんだかんだ毎週どっかしらに連れてったんだけどな」
 二人はこういいいい昔を懐かしんだ。昔を懐古するというより、ただ古い本の頁をめくって目についた文章を音読するかのような具合だった。ちっともそれを覚えていないことを責められる私はただ微笑して、こちらを見る二人のいる古く新しい景色を見つめるばかりであった。
 「まだ先がありそうだな」と父が先をみて言った。父には山を足で登る体力など、もうちっとも無いように感ぜられた。
 ようやく乗り場に着いても会話は少なかった。三人に流れる空気はすでに輝きを失ったこのあたりの建物のものと等しかった。父が懐かしい父でないわけではなかった。母についてもそうだった。ただ私ばかりが懐かしい小さい私を失って、不器用に大きくなってしまったという感じがした。私はなんだか自分の足で山を登ってしまいたいような気分がした。
 曇り空から残暑が汗ばんだ身体に緩く応えた。建物の脇に木々は鬱蒼と控えていた。暑がりな父は先刻から「暑いな」とただ繰り返した。

 ロープウェイに乗ってみると、存外人は沢山いて、席はほとんど満席だった。三人で窮屈に向かいあって座ると、少々不安な揺れと共に山頂へ向かって出発した。木々を切って割くように一本道を突き進んだ。速力を増していくようにも思われた。速力を失っているようにも思われた。私は進行方向に対して反対向きに座っていたので自然山の斜面を見下ろす位置にいた。斜面は次第に伸びていった。ロープウェイは心配なほど急な登り坂をずんずん進んだ。斜面の中途で、今まで登ってきた坂を逆に下って行きはしまいかと憂虞した。 
 ロープウェイは全く皮肉な発明だ。山を足で登ればこそ、振り返った斜面は功績になれど、機械に運ばれるばかりでは怠惰と落ちる不安を映すのみである。その怯懦きょうだを最大にするまで我々を運んでいくのである。
 私はただひたすらに前を向いて山頂を期待する人にはなれようはずもなかった。
 

 終着点に着いてロープウェイから降りると、今まで動いていた地を急に固化された足元がぐらついた。
 山頂へ出ると、開けた一面が展望できた。空は以前曇っていたが、吹き抜けた風が三人の古い空気を新しくした。それは久しい行楽地への外出において、我々にとって新鮮な土地で、山へ登るという目的を達成した共同の意識が働いたこともあった。
 私はこの曇天の展望に古い記憶を思い出した。
 あれはまだ私が小学校の低学年にいたころであった。父の休みである日曜日に、どこか山へ出かけたのである。母の作ったおにぎりをベンチに座って食べたのである。あの時も確かに曇っていたのである。確かに輝いた景色であったので、今頃になって同じような曇天に思い出されたのである。私はこの日のほんの一部分の昼飯と空模様しか記憶していない。それくらい私は当時その刹那自己というものと疎遠であったのだろう。
 そんな記憶ともう一つ思い出したことに、最近になって筑波山頂をライブカメラが映していて、Youtubeで毎日配信しているという話を私がすると、今映っているかと父が聞くので、見ると、10秒ほど前の姿で小さく我々が映っていたので三人で笑った。
 付近を少し歩いてから再びロープウェイで山を下った。下りは山頂が恋しくなった。
 帰りがけに名物の七味を買った。店番をしていた婆さんが
 「これね、お茶に入れても美味しいんですよ」といって、紙コップに梅のお茶を注いで、七味を入れて三人分渡してくれた。飲んでみると蜜柑も入った七味が独特な風味を出して、なんだか梅茶漬けの残り汁のような味がしたが、のべつにしゃべり続ける婆さんを前に、流石の父も「美味しいね」と言っていた。

 それから昼飯を食って帰った。父はまた私の運転に小言を云った。途中で有名な焼き芋屋に行って焼き芋を三本買った。出来立ての熱い芋だったが、父はそれを素手で半分にして分けてくれた。火傷したと云いながら熱い芋を食っていた。口から洩れる熱い湯気は白煙と格別であった。
 それから父は洗車道具や鍵の電池の替えまで置いて、電車で帰った。
 最近になってようやく私は母よりも父のお節介なことに気が付いたのだった。


5.  産総研

 初めて産総研に訪れたのは9月に入ってからであった。駐車許可証を手に入れていなかった私は先輩の車に乗せられて、初めて構内へ入っていった。
 道の左右には並木があった。緩いカーブを描いたり、直線を伸ばしたりして出来ていた。建物は皆同じような茶色や灰色をしていた。これらの様子は大学のそれと殆ど同じであった。
 しかし建物の中へ入ってみると、大学とは大きく異なる雰囲気の差に気がついた。警備が重鈍に出来上がっていることは格別、それ以上にどこか堅苦しく、物々しい感じがした。より正直な言葉で同じ意味を繰り返すと、何となく歓迎されていないような心持ちがした。
 我々はこの日初めて研究の主導をするOさんと顔を合わせる予定となっていた。まだ扉を開錠できる入館証を持っていないので、建物の入り口の前で予定時刻まで待っていたが、Oさんが来ないので、先輩とどうしようか話をしていると、偶々通りすがった女の人が事情を聞いてOさんを呼び出してくれた。
 漸く2階から降りてきたOさんはまるで主婦のような人だった。小さな赤いハンドバッグを持って、それなりに化粧もしていた。ただその猫背で歩幅の狭い歩き方に、研究者だという感が明らかにあった。
 簡単に挨拶をすませて、廊下の一角にある机を囲むように着座して、何枚かの研究の書類の記入を済ませた。大体の記入が済むと、情報の取り扱いに関する説明を受けた。
 ひとしきりの注意が済んだと思うと、Oさんが話題を変えてこんな前置きをした。
 「前少し問題があったみたいで、一応注意しておきますけど」
  私は何か特別の注意が来るなと勘付いて、尻を持ち上げて態とらしく座り直した。
 「産総研にはまあ色んな人がいるんですね。だから、学生さんが来るのをよく思ってない人もいるんですよ」
 Oさんは微笑して言った。
 この構内の歓迎されていない感はここに由来するのだと私は理解した。
 「だからといって、まあ気をつけることも特にないんですけど、前にトラブルがあったみたいで、一応言っておきます」
 私と先輩は微笑するばかりであった。そのトラブルの内容というのは遂に聞かされることはなかった。
 この後この棟内の研究員の人らに態々挨拶へ回っていって、最後には責任者の方と面談をした。形式に過ぎないのであるが、一々長ったらしい割に、全く平凡な肩書と名前を言うのが厭だった。成程社会とはまったく面倒なものだと思った。

 この後日を跨いで動物実験に関する教育をいくつか受けた。実験を進めるのは私と先輩二人の合わせて三人であるが、先輩二人は既に産総研で細胞の実験をしていたので、これは殆ど私の準備に過ぎなかった。全ての準備が済んで、いよいよ実験ができるようになるには数週間を要した。

 我々がマウスを使うのは、Th-Tアッセイや細胞実験でアミロイドβの凝集を抑えることが分かっている化合物を、認知症モデルマウスに与えてみて、認知機能がどうなるのか調べるためである。
 したがって産総研でやることは、まず第一にマウスに化合物を経口投与するための取り扱いの練習であった。

 いよいよ練習を始めたのは十月であった。Oさんは練習用のマウスを二十匹購入してくださったようだった。ガウンとキャップを着て、エアシャワーを浴びてSPF室に入ると、棚の中に四つのケージがあって、一つのケージに五匹の黒いマウスが蠢いているのが見えた。棚からケージを取り出してみると、一つだけ六匹が入っていて、Oさんは
 「あれ、六匹って書いてあるね。おまけしてくれたのかな」
 と言っていた。私はそんなことがあるのかと思ったが、慥かに六匹入っていたのでそんなこともあるのかと思った。ここに確かに命の軽重を感じた。
 マウスを扱う部屋には汚染防止のために防護服のような一式を身に着けていかなければならず、初めてマウスを扱うとなると多少心理状態が平生と異なってくるらしい。以前学生にマウスの手技を教えた際に潸然と泣き出した人がいたそうなので、初回の練習は別の実験室でおこなうということになった。
 
 SPF室からマウスのケージをプラスチックの箱に纏めて持ち出して、別の棟の実験室に運ぶと、
 「ケージ出して、ドラフトに入れといてください。結構臭うんで」とOさんが言った。ケージを入れていた箱の蓋を開けると、確かにマウスの獣臭い匂いが強く鼻を通った。

 「それじゃあ早速やってみましょうか」
 Oさんがマウスの一匹の尻尾を取って軽々しく持ち上げた。マウスは存外小さく見えた。それまでケージの中で集まっていたマウスたちは、一匹が突然宙に持ち上がったことで慌ただしく散り散りになった。
 「人によって結構やり方違うんですけど、私は両手でやっちゃいます」
 Oさんはケージの蓋となっている金網にマウスを乗せると、マウスは自然天然地に足を付けようとして金網を摑む。換言すればマウスの動きを止めたことになる、それから右手の親指と人差し指で首元から背中あたりの皮を金網に押し付けるように摘んだ。マウスは鳴きながら身体を捩って抵抗しているように見えるが、首元から手の皮を引き絞るようにつねられているために殆ど動けなくなっている。Oさんはそのままマウスを持ち上げて宙で仰向けにすると、左手の小指で尻尾を巻き込むようにつまみ、マウスを情けない姿に仕立て上げた。それから右手でゾンデのついたシリンジを持って、先をマウスの口に挿入した。ゾンデはアルミ製で、注射針よりは太く、先端は食道を傷付けないように丸まっている。マウスの口にゾンデを咥えさせたまま、二、三度出し入れすると、針がみるみるうちにマウスの体内へ入っていった。
 「入りました」
 ゾンデの2/3くらいが入ったところで胃に到達したとOさんは言った。ここまでの保定と経口投与は十秒程度の素早い動作であった。
 「はい、こんな感じ。じゃあやってみて」
 あまりに突飛だったので三人は顔を見合わせて笑った。
 「とにかく逃さないように、逃げると大変だから」
 やってみて慣れるしかないというので、戸惑いながらも同じようにマウスを手に取って、金網に掴まらせると、右に動いたり、左に動いたりでまず真っ直ぐ向かない。持ち上げたり掴まらせたり、ケージごと向きを変えたりして同じように首元を掴んでみようとする。怯えるマウスは首をすくめるように丸まって、上手く摘むことができない。ようやく摘めたと思うと、マウスの皮が余分に余っていて、仰向けにしても首に余裕ができて動いてしまう。うっかり尻尾を抑えている指の力を緩めれば素早い動きで手から逃げ出そうとする。もたついていると慄いたマウスが失禁して手に糞尿が垂れてくる。キーキー鳴く。これは大変なことだと思った。
 何度かマウスをもみくちゃにして、漸くまともに掴めたので、いよいよゾンデを挿入するのだが、マウスは固く口を閉じていて、まず口に入れることも難しい。口の横からなら何とか入った。ところが今度はゾンデが殆ど先へ進まない。小さく抜き差ししてみるが、どうにも奥へ入っていかない。まだ胃に到達していないようだが、喉に突っ掛かっているのか、手の中で温かいマウスが苦しそうに大きな嗚咽を繰り返した。
 「あんまり無理やりねじ込むと変なとこ刺さっちゃうから気をつけて」
 Oさんは胃に入る感覚は手でわかるという。
 「昔一回変なとこ刺しちゃったことあるんですよ。そしたら手放した時に見たことないくらい変な動きで暴れちゃって。独楽みたいにぐるぐる凄い勢いで回ったんですよ。本当に見たこと無い感じで怖くて。その子もすぐ死んじゃったんですよね。だから手早くやるのも大事だけど、殺しちゃわないように気をつけてください」
 そう言ってOさんは我々を注意した。
 私は慎重に角度を変えながらゾンデの先端を出し入れしていると、ある角度で、すっと抵抗無くゾンデが深く入っていった。それを横で見ていたOさんが、
 「入ったね」と言った。
 「痛っ!」
 突然隣から鋭い声が聞こえたと思うと、Nさんが手を引いているのが見えた。身体が緊張している様子が明らかにわかった。
 「噛まれた?」
 三人の視線がNさんに集まった。その視線の中心に手袋に滲む赤い点があった。指先が厚くなっている布の手袋の上にゴム手袋をしていたが、布の浅いところを噛まれて皮膚まで貫通したようで、血が小さい円形に滲んでいた。マウスの首元を摘むときに頭を回したマウスに噛まれたようだ。
 「大丈夫です」心配そうな目線を集めたNさんは堪らず苦笑して云った。
 「手袋脱いで、そっちの流しで流そう。アレルギーとかある?」
 「無いと思います」
 私は急に手に持っていたマウスに若干の恐怖心を覚えた。
 Nさんは幸い傷も浅く、アレルギー反応もなかった。しかし恐怖は大きくなったようで、この後もNさんは随分手こずっていたようだった。後から言うことには、注射よりは痛いとのことだった。
 初回は数回だけゾンデを胃に入れることができた。練習を終える頃にはマウスは散々弄り回されて毛並みが全く悪くなっていた。これらの練習用のマウスは繰り返し使うので、再び元の飼育の部屋へ戻した。
 器具の片付けをしている途中、Oさんは「もっと練習しないとですね」と笑いながら言った。保定や経口投与に時間をかけると、ストレスになって実験の結果に影響するから、なるべく手早くやらないといけないという。
 帰り際のエレベーターの前に、小さな写真が机の上に置かれているのが見えた。横には花が供えられていた。よく見ると、白いマウスの写真であった。これは実験動物の慰霊のためのものであった。
 彼らは私達にこねくり回される為に生きていて、こねくり回す必要がなくなったら殺される。そんなことを知りもしない。知ったところで、彼らはきっと殺される。
 私はガラスのドアに反射する私を見て、ひょっとすると自分も同じようなものかと思った。私は何のために生きていて、何のために死ぬのだろうと月並なことを考えた。少なくとも私の生死に意味はない。してみると、マウスの方が、生まれる前から、その命にたった一つの堅固けんごな意味があって、裕福な身分かもしれない。
 

6.  同化

 私はこの日も午後からマウスの保定と経口投与の練習をして、日の落ちかける頃合いに産総研から居室への道を走っていた。
 あれから随分練習を重ね、我々は五匹の保定と経口投与を3分以内で済ませることができるようになった。練習の中でTさんも噛まれたが、私はついに一度も血が出るまで噛まれたことがないのは、小さい私の数少ない自信の一つとなった。
 車にも随分慣れた。しかし自転車には殆ど乗らなくなってしまった。人間は楽をする生き物だと思った。ただ自転車を知らずに車に乗ることがなくて良かったと思うばかりである。苦痛があればこそ、その切除の有り難みが増すものだ。
 悩み事も増えた。車に傷を付けられた事や、洗車する頻度の事、ガソリンの事、金銭の事。人間持てば持つほど裕福になるが、精神的には貧乏になる。いっそ自由などない方が良いのではないかと思うことさえある。

 ハンドルを握る手から微かにマウスの匂いがする。先刻までマウスをずっと触っていたのであるが、こうも匂ってくるのには嫌気がさした。

 窓を開けると、冷えた空気が車内に通った。すっかり紅葉した木々からいくつも落葉しているのがありありと見えた。窓に映る景色が次から次へと飛んで行くように転々とした。

 居室に戻ると、ソファにMさんとRが横に並んで座っていて、ソファのすぐ前のデスクを使っているEさんと何か喋舌っていた。
 劈頭へきとうMさんと目が合った。MさんはM2で、昨年度こそ静かに過ごしていた風に見えたのだが、先輩のいなくなった今は随分のびのびと暮らしているように見える。
 私はMさんと似ていそうなのを研究室での顔合わせの時に、人集りの後ろの方で静かににやにややっていたの見てから悟っていたが、こうも明るい振る舞いの人だとまでは考えなかったので少々驚いている。だいぶ鋭い爪を隠していたなと思う。これではあまり私とは似ていないようだ。

 「あ、とじじゃん。産総研男?」
 「そうです」
 「やってんなーとざわ」
 そういうMさんの実験しているところはあまり見たことがない。 
 私がノートを纏めるためにデスクに座ったあとも、三人は何か話し込んでいるようだった。殆ど沈黙に近いような会話のテンポから、また難しい精神上の話をしているんだろうと推した。
 彼らは昼間は明るい話を楽しげにやっているが、コアタイムの終わる午後6時を過ぎると段々真面目な話が増えてきて、しまいには人生観のような話を延々とやっている。そんなこと誰にもわからないだろうという問答を無闇にやっている。
  
 「大人になったなあって思う瞬間っていつでしたか?」
 「大人になるとはどういうことですか?」

 今日もこういう会話が聞こえてくる。
 この多くはEさんやMさんが原因である。

 少し喉が渇いたのでデスクを立って、ケトルのあるソファの方へ向かって席を立った。
  
 「茶しばきますわぁ。誰か飲みますか?」と私が云った。
 「あ、お願いしてもいい?」
 「ア カップオブティーわいも」
 
 殆ど日本語を逸脱した会話から焙じ茶を淹れる。湯が沸くのを待つ間に、Mさんが私にこう聞いた。

 「あ、とじにこれ聞きたい。優しさと思いやりってどう違うと思う?」

 私は図らずこの公案を与えられて閉口した。こういう問答に向かうのは趣味の一つでもあるくらい考えるのは好きなのであるが、しかしながら私は口舌の人でなくて、すぐに思ったことを達者にのべつに語り尽くすことができない頭の人間である。考えることに喋舌ることが加わると途端におしのように黙ってしまう。
 「優しさと思いやりかあ」
 「うーん」
 私はしばら黙然もくねんとしたが、遂に何の答えも拵えることができなかった。あまりにも根本的過ぎて模糊として手の掴みようがない。仕様がないので周辺の状況を知るのが良いと考えた。
 「どうしてそういう質問に至ったんですか?」
 「今ね、Rが私が優しいって言ってくれて、いやでも全然そんなことないよっていう」
 私は何となく話の流れが推断できた。そうして一度持ち帰って考えますと言って、近くの椅子で苦い汁を飲んだ。マウスの嫌な臭いが依然鼻に通ってきた。
 それから実験の整理をして、ノートをまとめて、また漠然とした会話を聞いた。

 これ以来私は多少この「優しさと思いやりの差異は何か」という公案について思料した。寝る前にくだらないお伽話とぎばなしを考えるように、不図思い出した晩に頭を悩ませた結果として以下を記してこの長大な日記を纏めたいと思う。
 

 「思いやりは優しさを内包しているのでしょう。優しさとはすなわち自己にくっついているもので、思いやりとは優しさをなるべく自己から切り離して相手に供与することです。
 優しさというのは、まぁ当人の性情や、感覚を示すものであって、自己があれば成り立つものです。これは多少無理があっても前提として了解してください。恐らく行為としての優しさと思いやりを考えているのでしょうが、それじゃあ言葉の定義付けや捉え方の問題の域を脱しませんから、とにかくこういうことにしておきます。

 ただ二人人間がいる場合の優しさとなると、優しさを感じる相手がいるとすると、何か感情を発露した結果、相手がそれがあなたの優しさだと思えばその発露は優しさになるわけです。だからこそエゴだとも言えるわけです。
 両者間に生じる片方の優しさの決定権はその相手にありながら、優しさは自己から出立して、自分は優しさだと思ったものを押し付けるのですから。またそれが優しさだと押し付けられるのですから。そういう意味で、優しさの根本義は自分で、自分主体なものだと思います。そもそも性情ですから、まあ当たり前でしょうが。
 自分のための優しさということは、抹消できない感覚だと思います。優しさは自己に必ずくっついているもので、それを切り離すことはできません。

 他方思いやりというのは、つまり動作そのものを表すもので、相手を拵えなきゃ存在しえません。どちらかといえば、他から出立して、優しさの結果現れる行為でしょう。

 では思いやりはエゴではない完全な利他的なもので、誠であるかといえば、そうとも言えないような気がします。それはつまり思いやりが優しさを内包するからです。思いやりは優しさなくしてはありえません。自己の性情としての優しさすなわち思いと、相手を用意して実行するという点が思いやりに内包されています。もう少し有り体に言えば、優しさを自己からなるべく切り離して、あるいは肉付きのままでも相手に遣るものがまさしく思いやりでしょう。

 相手から見て、それがくだらない自己に塗れた優しさだと思えばそれまでです。
 エゴであれ、優しさや思いやりは授受側がそうだと思ったらそうなのです。きっとそこに僻む必要はないのです。僕は自己本位に、またこれがエゴであれ思いやりを決定して良いと思います。

 優しくなんかないというのは、それが自己だからであって、相手が優しいなり思いやりがあるなり思えばそれで良いのだと思うのです。それくらい薩張している方が気楽だと思うのです。

 この優しさに注目すればこそ、再度言うようにその思いやりはやはりエゴになるのでしょう。自己と切り離せていないのです。全くこの優しさを忘却して、相手のみに注目して、全く思いがけずにこの優しさを遣ることができたら、それは純粋な誠の思いやりそのものであると思います。

 先刻優しさは自己から出立するから切り離せないと言ったのに、目指すべき誠の思いやりが優しさと自己とを完全に解離させることだというのは、優しさを忘却し尽くすのに、優しさをやるというというのは、矛盾だと指摘されることがあるかもしれません。この矛盾を解消するには、同化という違った境地の説明をする必要があります。

 僕が思うに、精神的に何かを全て理解するということや、全く全ての感情を注ぎ切るだとか、心丈夫に安心するだとか、相手を心底思いやるだとか、そういう絶対の境地に入ることができる唯一の方法は、対象の相手と同化することです。対象と自己がたった一つになることです。この二つの境界を失うことです。自己を全く忘れ去り、相手と同化して、絶対即相対の刹那を捉えることです。私はその境地から出た言葉や行動こそ真に美しい人間的なものだと思うのです。

 僕が時折Iさんや昔のEさんを心底羨ましく思うのは、彼らはこういう同化を生得していて意識する必要がないからです。
 彼らが思うままに感情を発露するとき、例えばはげしい喧嘩をするとき、私に言わせれば、彼らは相手と同化しているのです。同化というと少し高尚で大袈裟ですが、彼らは同化という精神的な手法を意識せずとも、結果として絶対の境地に至っているのです。

 もっと言えば喧嘩のような美しい場面でなくてさえ、彼らは自然、自らの自然と常に同化して生きているのです。Iさんは絶対に飯を食えるのです。飯と同化することができるのです。それができるのは、彼らの自己が薄いからです。容易に自己の境界を失うことができるからです。それはすなわち不同不二の自己を持っているということなのです。そういう人間は、決して自己が薄らいでも、はっきりと自分という感覚の重心を失うことが決してないのです。どう生きても、それは彼らの自然であって絶対であるのです。落ち着いているのです。僕はそれが羨ましい。皮肉に聞こえたかもしれませんが、僕はそういう人になりたいと生涯思うのです。

 あなたが求めるような真の優しさというものも、同化することにあると思います。自己を全く捨て去って、天の自然に身を任せるごとくに、相手の気持ちになるのです。それが優しさの詰まるところだと思います。それを行動にするのが思いやりだと思います。

 僕の考はこの通りです。だからある人は、自己の付き纏う優しさや思いやりに苦しむのでしょう。真の優しさのために、自己を忘れたいと無意識にでも思うが故に、ついに自分が分からないと思うのでしょう。自分を忘れてしまったと思うのでしょう。それなのに我執が強すぎるとも思うのでしょう。この矛盾は絶対即相対の境地に入れなければ苦しいです。

 先僕が漱石から学んだという自己本位と、則天去私そくてんきょしという二つの矛盾した、表裏のような明暗を持った、一つの私の足跡と標榜について、何となくわかってくれたら嬉しいです。

 ところで先日私をさといと言ってくれましたが、私はまだまだ悟りは得られそうにないです。これを書いている時まさに生きているのが嫌になりました。人生というものの全体が嫌になりました。浮遊した精神を無理やり繋いだ身体を引き摺っている自分が嫌になりました。身体だけぶら下げているような自分が嫌になりました。
 最も身近な他人の過去と現在とを比較して見てそう思いました。今まで生きてきた暗愚な二十余年と今後生きるだろう暗愚な何十年かを想起してそう思いました。
 「生きているのが苦痛だ」
 これが私の全く正直な本音なのです。私の日記はそういう溜息の集まりです。説法の序でに、もう少し私の溜息を聞いてください。

 先日皆既月食を見ましたね。
 私は皆さんで月見をやる前、大学でアルバイトを終えたあとの暗くなり出した頃合いに、ふと空を見上げた時に、一足先に建物の間から欠け始めた月を見たのです。私はこのとき満月の左下の黒く侵されたところを見て思わず慄然としました。自然の強大な力を意識しました。

 ご存じの通り私は今、恋慕という私にとっては全く無縁な道の中へ、人ごみに流されるように無理やり押し込まれて歩いています。それも誰かに手を引かれて歩いています。周囲には誰かの手を引いていると見せかけながら。私はこの道を前を向いて堂々と歩いていけないのが恥ずかしいのです。涙が出るほど情けないのです。
 そうしてこの人の手が、もしくは私の手が汚れているのではないかと不安でならないのです。それを確かめる勇気もないのです。
 また、この道を逸れて、手を引いてくれていた人が人混みの中へ消えていってしまうのが怖くてたまらない。人混みの中で全く異なる人間の中を歩いているのを見るのだと思うと苦しくってたまらない。
 また、この道を先を見て、際限なく進んでいくなかで、私とこの人間が変化していくのが怖くてたまらない。この道を振り返って、この人間の変えられない過去を知るのが怖い。
 まるで子供のように、黙ったまま引き摺られているのです。
 手を引かれながら、この道をずうっと進んでいって辿り着くのは絶望の谷だということを知っています。決して日の当たらない道だということを理解しているのです。よし満月が空にあっても喰われる運命だと知っているのです。

 「これからの十五日以後どういう覚悟で生きていくのか」
 欠けた薬缶頭やかんあたまにそう言われるような気がしました。私は恋と同化することができない。自分のこころで手一杯なのに、相手のこころまで容れてやる余地など毫もありません。

 私は私に繋がったこの手を振りほどいて、気づかれないうちに頭を丸めて宗教の道に入りたい。そうとさえ思うのです。辛うじて目に映る私の前途には今までの通り奇人として死んだように辛うじて生きるか、宗教の道に入るか、死ぬかしかない。(生憎ながら先日Kさんが同じように出家したいと喋舌っていて驚きました)。
 死というものを重く丁寧に取り扱いたいという願望から、死ぬか生きるかということをなるべく口にさえしたくないのですが、こんな風に身体だけぶら下げて生きているのが苦痛だと、いよいよ死ぬしかないと思うことがあります。口が裂けてもそんなことを口外することはできないので、こんなことを考えながら暗くて狭い穴倉あなぐらで寝ています。時折は起きて明るい陽の光を浴びます。
 まだまだ明暗の絶対即相対の境地がわかりません。ただ美しい景色を見たり、美しい音楽を聞いたり、激しい喜びや悲しみに包まれたりしても、飢じいところに身を置いても、創作に身を置いても、誰といても、ちっとも安楽することができません。自己を忘れることができません。自己が全く落ち着いていないから、自己を忘れ尽くすことができないのです。なまじ自由があると、なまじ頭が働くと、あれこれ選ぶことが出来るのです。しかしそれはつまり、乙は乙でなくはだめだ。甲は甲でなくてはだめだ。…あれでなくては厭だ。ということと同じなのです。始終焦っている人そのものなのです。

 先刻、Iさんのような何も考えていないような人が羨ましいといいました。Iさんのような自然と同化している人になりたいと言いました。ところが私は彼らのような人には決してなれないのです。訳ははっきりしています。私が彼らのようになりたいと言いながら、こころではなりたくないと思っているからです。彼らを尊敬していると言いながら、実際は軽蔑しているからです。本当になりたいとばかり思っているならば、もう疾くになっているに違いません。こんなことを考えるはずもありません。ところがちっともなれていないのだから、私は心からこうはなりたくないと思っているのです。これが実際というほうが正しいかもしれない。詭弁に聞こえますか。下らないと思いますか。  
 私はこの矛盾を承認します。私は私の論理の足らないところを首肯しゅこうします。くだらないです。詰まらないです。脳力の足らないことを是認します。
 そうしていよいよ、ここまで思考を上り詰めて、漸く私はどうにでもしやがれと考えることが出来ます。一切を放棄することができます。思考を少しやめることが出来ます。絶対か相対かの境地から世界を眺め下ろすことが出来ます。思いやりを与えることが出来ます。
 私は先日間抜けに口を開けて、ぐうぐう言いながら寝る女を見て、穏やかな気分になりました。その柔らかな髪を撫でました。布団の乱れたのを直してやりました。刹那に自己を忘れていたのかもしれません。
 私は時々自分の頭が良くなくて助かったと思うことがあります。もしも聡明怜悧そうめいれいりに出来上がっていたら、いよいよ死ぬまで孤独に苛まれていたような気がします。
 
 
 随分寒さも増して、冬になりました。マウスを殺しました。家族で福岡へ旅行に行きました。Iさんの意外な悩みを聞きました。

 それから終に私はリアルタイムTh-Tアッセイを確立させました。ペプチドの準備法の改良と均一な攪拌が解決の一手でした。プロトコルは存外あっさりと完成しました。出来上がった時も、なんだこの程度がというくらいでした。日々漏れる溜息と同じようなものでした。しかしそれは十分生きるに値する充足感でした。

 


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