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落語を通して考えるマジックという芸の事。

8月11日~20日に鈴本演芸場にて行われている「吉例夏夜噺 さん喬・権太楼 特選集」に行ってきました。しっかりと新型コロナ対策がされ、客席も一つ置きの半分が定員。豪華な面々が出る舞台なだけにもったいないなと思いましたが、逆に言えばとても贅沢な時間だなとも言えます。

落語という芸は本当に不思議な芸だなぁと見る度に思います。特に古典落語の場合、どんな話かはある程度オチまで含めて知っていたりしますし、他の落語家さんがやっているのを聞いている事も多いです。それなのに、例えば前座さんがやっている時は全然笑えなかった話が、名人級の落語家さんにかかると一言ごとにお腹がよじれるほどに笑わされたりします。台本が同じなのになぜこれほどに差が出るのが、芸人の端くれとしては大変に興味が湧きます。

落語という芸はシンプルです。この令和の時代に、こちらが心配になるほどにシンプルな芸です。たった一人で舞台に座り、照明もいじらず、音楽も鳴らさず、大した道具も使わず、一歩たりとも歩きません。

これが例えば凝った照明で、BGMや効果音を鳴らし、映像やプロジェクションマッピングをふんだんに使い、スモークやレーザーを足したらもっと良くなるかと言われると多分そんな事はなくて、むしろそうした演出を蛇足と感じるのではないかと思います。シンプルであるが故に良くも悪くも実力が正確に観客に伝わるのが落語という芸なのだと思います。その為、演じ手によって残酷なほどに差が出てしまう芸なのでしょう。人間というものがこれほどまでに出る芸もないのではないでしょうか。

落語の事を考えていくと、僕の取り組んでいるマジックというものとどう向き合うか、という事の多くのヒントを貰えます。例えば落語に古典落語と新作落語があるように、マジックにも古典と新作があります。マジックを演じる方の場合、どちらかというと古典より新作を好む傾向が強いように思います。

そして、マジックも同じトリックなのにマジシャンによってまったく違って見えるものです。マジックを見る機会が多くないと、マジックというものは「タネ」というものに支えられているからタネさえわかれば誰がやっても同じだろう、と思う方も少なくないのですが、これは落語で言えばどのネタを話すか程度の事でしかありません。同じネタでも落語家によってまったく違う話のように聞こえるのと同じように、マジックも演じ手によってまったく別物になります。

落語が上手くなる為にはどうしたらいいか、という事はきっと難しい命題なのだろうと想像出来ます。きちんとセリフを覚える、大きな声で滑舌良く話す、などというテクニカルな要素ではきっとすぐに行き詰る事でしょう。上達の為には落語という芸と、人間への深い理解が必要になるのでしょう。その上で、自分の芸とは何か、という何とも雲を掴むような事に答えを見つけていかなければいけないのだろうな、と思います。

マジック、というものも実は同じようなもので、テクニカルな要素の追求だけでは、次にはなかなか進めないように感じます。マジックもシンプルな芸ではありますが、それでも落語よりかは要素が多いので、芸として見せる際にごまかせる要素が多く、少し濁ってしまうようにも思います。たまには余計な要素を排除し、自身の芸のコアの部分は今どのくらいなのか、という残酷は評価をするべきなのかもしれないなぁ、などと落語を見る度に思います。

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