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「子どもが書いたような絵」と「子どもに受け入れられるマジック」について。

パブロ・ピカソが「ようやく子どものような絵が描けるようになった」と晩年に言った事はとても有名な話です。小さな頃から天才性を遺憾なく発揮していたピカソが、なぜ子どもが書いたような絵を求めたか、というのは多くの表現者にとって考える余地のあるように思います。

1.子供と大人は何が違うのか。

「子供騙し」という言葉があります。子供しか騙せないような低級なたくらみ、とでも言えばいいでしょうか。マジックにも子供騙しのようなマジックと、大人さえも煙に巻く”本格的な”マジックがある、というイメージを持っている方も少なくありません。しかし、実際は子供こそがもっとも見せるのが難しい観客だ、と感じているマジシャンは少なくありません。彼、彼女らは大人よりもとても素直で、遠慮がなく、観察力に優れています。

大人はマジシャンが多少怪しい動作をしても、心の中で「何かしたな」と思うだけで黙って見ていてくれます。多くの大人はそれほど親しくない他人の欠点や失敗を指摘したり、わざわざその場の雰囲気を壊すような事はしないものです。
それに対し、子供は素直です。怪しいと思えばすぐにそれを指摘します。それはある種残酷なほどで、「見えた!」「わかった!」「持ってる!」などと彼らは叫びだします。その事で心が折れてしまい、二度と子供の前でマジックをするのはやめようと決めているマジシャンも多いのではないかと思うほどです。ましてや「子ども相手にはこんなもので十分」と子供騙しのようなものを軽い気持ちで演じると、大きなしっぺ返しを食う事になります。

さて、この辺りまでの事はマジックの世界ではよく言われている話です。今回はここからさらに一歩踏み込んでみたいと思います。

子供が描く絵、というのは大人から見るとなんとも奇妙なものが多いです。丸くグルグル描いてあるだけのものが実は花だったり、人間と同じサイズの虫のようなものがいたり、それが何かと聞くと実はお父さん(!)だったり、およそ写実性からはかけ離れた、まるで抽象画のような印象さえ受けます。もちろん子供によってそれぞれの絵には個性がありますが、なんとなく何か「子どもの絵」という一貫性があるような気もします。

そして面白い事に、僕らは年齢を重ね、なんとなく社会性を身に付け、多少の文化や芸術や芸能に触れる事で、「子どもの絵」が描けなくなります。僕らは子供の頃に見たように物や世界が見えなくなるし、子供の時に表現したようにそれらを表現できなくなるのです。さて、生まれながらの感受性と、後天的な教育の上での観察眼と、果たしてどちらが本当の世界なのでしょうか。

2.シンブルというマジックの鑑賞について

マジックを演じる上で、一つ面白い例があります。シンブル、というマジック道具があります。元々は西洋の裁縫道具だったものですが、いまだとインテリア用品にもなっていて、海外のお土産屋さんなどではよく売っています。

英国バーチクロフト社製 シンブル

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マジックの世界では独自の進化を遂げて、裁縫道具でもインテリアでもない、用途不明の謎の指サックのようなものです。このシンブルが出たり、消えたり、色が変わったりする、というのがシンブルというマジックです。このシンブルというマジックを好まないマジシャンは少なくありません。一体何の道具なのかわからないし、それが出たり消えたりする意味もよくわからない。それを言うならマジシャンがトランプやステッキを出したり消したりする意味もよくわからないと言えばわからないのですが、トランプやステッキなどはマジシャンが扱う物、というイメージがあるので観客もすんなり受け入れるが、シンブルは知名度が無いので伝わらない、という事です。

実際、何の説明も無しにシンブルを演じると、確かにトランプなどを扱った時よりも受け入れられづらいです。出たり消えたりするのは不思議なような気がするけど、そもそもあれって何? という疑問が素直に楽しむのを阻害しているような印象を受けます。

マジック道具としてのシンブル

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その為、シンブルを演じる際には「これは元々裁縫に使う道具で、ある時期からマジシャンも使うようになって~~」という説明をする事で、ようやく受け入れてもらえるようになります。

と、これは観客が大人の場合です。見せる相手が子供だと、シンブルというマジックを演じるにあたり説明はまったく必要ありません。ただ普通に演じるだけで子供達はとても喜びます。その為、国内外問わず子供を中心に見せるマジシャンでシンブルをレパートリーに入れている事は多いのです。

3.頭ではなく心に伝える、ということ

なぜピカソが「子どもが描いたような絵」を目指したのか、天才の胸中は門外漢である私にはわかりようもないのですが、ピカソが求める真実は文化や教育、成長によって失われてしまう感受性の中にあり、そしてその物事の真実を抽出する事で見るものの頭ではなく心に響かせるような作品が作りたかったのではないか、と感じました。
それは、実はマジックでも同じ部分があって、人が成長によって絵の価値の一つとして写実性を置くように、マジックの価値の一つに意味を置きます。写実性も意味も、もちろん答えの一つではあるかと思いますが、それ以外の道もあって、その一つが先天的な、原始的な感受性にどのように訴えていくか、という事なのではないかと思います。その原始的な感受性を大人に取り戻してもらうには、多分いくらかの手続きが必要です。多くの説明が必要であったり、新しい表現を開発しなければならない事もあるでしょう。それでも、もしそれが成功したならば、観客の頭ではなく心に伝わる表現を行う事が出来るようになるのかもしれません。

ピカソが言うように、子供はみんなアーティストです。そのアーティストから何を学ぶか、という視点はマジシャンであっても大切なのではないかと思います。何せ、子どもというのは本当にマジックが大好きですから、一体彼らがマジックの何をどう見ていて、いったい何を感じているのか、なんとかマジシャンは探り、手繰り寄せなくてはいけません。そこにこそ、実は次の時代のマジシャンが何をすべきなのかのヒントがあるのではないかと感じています。


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