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【SS】顔のない愚者

まただ。
私は研究室の椅子から立ち上がる。
研究室には私以外に人はいない。
けれども、私には先ほど誰かの声がしたように聞こえたのだ。
しかも、ごく近くから。

私は研究室のドアを見る。
ドアは確かに内側から施錠され、側に誰かがいた気配もない。
ドアには上から下まで、幅広かつ縦長のガラスがめ込まれており、誰かがドアの側にいた場合、気づかないということは決してない。
研究室は一面が白壁とドア、入って右側と左側は上から下まで本棚が設置されており、隅々まで本が詰め込まれている。
部屋奥の一面は広い窓が嵌め込まれており、今は白の薄いカーテン越しに外の光を見ることができた。窓下にも低い本棚が右から左まで設置されている。
部屋中央には来客用のテーブルと椅子が置いてある。
どこにも、誰かが隠れる隙間などない。
従って、何者かの声が近くから聞こえるなど、あり得ない事態だ。

私はようやく、椅子に腰掛けた。
椅子はわずかな音を立てて、私の体重を受けとめる。
狐につままれた思いで、私は研究室をながめた。
この研究室で働き始めたのは最近のことではない。
今まで、このような変なことは一切起きなかった。
なのに、なぜ。何を契機にして、このようなことが度々起きるようになったのか。

今年の健康診断もだいぶ前に受けて、検査結果は良好だった。
家庭的にも、問題は何も起きていない。少なくとも、私の目からは。
精神的に変調をきたすようなトラブルが職場で起こっているかと言うと、これについては『はい』とも『いいえ』とも言えない。
常に時間に追われている仕事内容については、慣れるしかないと全力で取り組んできたつもりだ。
だから、精神的な問題が起因して幻聴が聞こえたのだ、と言われれば、そうかもしれないとも思う。
だが、これは本当に私の精神的な問題なのか。
私は、どうにも疑問に思った。

窓に寄り、薄くかかったカーテンを開ける。
外には広葉樹の枝が広がっており、陽光に照らされて緑が鮮やかに映えていた。
私はその光景に目を細め、しばし外の様子を眺める。
学生が歩いたり談笑したりするのは、ここからは遠い棟でのことだ。
窓の近くには広葉樹しかなく、木の奥には静まり返った会議室を含む棟があるだけだ。
真向かいの部屋は聞けば倉庫だと言うし、そもそも、あの棟まで六メートル以上は離れている。
人の声がしたとしても、近くで聞こえたように感じることはまずないだろう。

私はカーテンを閉め、仕事に戻るべく、椅子に腰掛けた。
開いたラップトップのキーボードに手を掛け、作成途中の文章の終りに目をめる。

まただ。
私は、はっとして顔を上げる。
また、声が聞こえる。

私はうっすらと、その何者かもわからない声に耳を傾けた。
虫が発するような、よくわからない異音にさえぎられてはいるが、その最中にあって確かに人の声が聞こえたのだ。はっきりと。
「怖い……もう止めて。一体、どうして」
と、人の声が言っている。

私は周囲を見た。
研究室には私以外に誰もいない。
私は不思議な思いがして、研究室の中央をふり返った。

ぽつんと置かれたテーブルを見ていると、先週に助手と交わした会話が思い起こされてくる。
確か、実験が上手く行かず、仮説が検証できずにいる。
その上、思うように結果が出せないものだから困っているという話だった。

耳の痛い話だった。
そのときは相手を思ってお茶を濁すような話をしたが、本当にそれで良かったのか。
たった今聞こえた声は、助手の心の声、懊悩おうのうの声ではなかったか。

私は、しばし中央に置かれたテーブルをながめる。
声はなおも言った。

「わからないのか、こんなことを繰り返して……一体、何になる。こんなことは、もう止めてくれ」

私は椅子から立ち上がる。
周囲には人影はない。
ようやく、わかった。
つまりは、これは私の精神的な問題、、、、、、、、だ。
『声』を聴いていてもきりがない。
私は『声』を無視して仕事を続けようとラップトップをふり返り、ふと思った。

いや、これは心霊現象と言うものではないのか。
疑念が首を持ち上げる。
助手は研究を止めたいなどと言ったことはなかったし、私も研究を止めたいなどと思ったことは一度としてない。
つまり、先ほどから聞こえてきた、この『声』は心霊現象。
顔のない愚者達が私にささやきかけているだけなのだ。

私は途中まで進めた書類仕事をラップトップ上で一旦保存し、確認してから画面を閉じた。

スケジュール帳を確認し、スーツの上着を羽織ると、かなり早くはあるが研究室を出ることにした。

タクシーをつかまえ、私は会場の施設へと向かった。
時間になれば私はそこで講演を行うことになっている。
当然、あまりに早い私の登場に施設の方は大いに驚いていた。
だが、快く予備の一室を貸してくれ、約束の時間まで入念な準備を図ることとなった。

部屋の椅子に腰掛け、私は事前に印刷した、自分用の台本に目を配る。
何度も読み込んでいると、言葉が自分の中に馴染んでくるような気持ちさえしてくる。
今の私は敵との対格差などものともしない、伝説級のプロボクサーだ。いや、世界チャンピオンに挑むチャレンジャーだ。

準備はできている。顔のない愚者達よ。
私はお前達など少しも怖くない。
お前達を迎え撃つ準備など、こちらは、とっくにできている。

時間になり、私は舞台の袖に控えて立っていた。
司会の男性が話し始めた。
マイクの声が若干くぐもって聞こえるが、どうやら私のことを話しているらしい。
私は壇上だんじょうの方を見上げた。

「――それでは、もし猿が知性を獲得してしまったらどうなるか。人間の言葉を理解し、人間の理解を超える範囲の『猿』へと進化してしまったらどうなるか。
被検体の猿たちが、進化を遂げたとき。
無限の猿定理が言うように『猿』が一つの小説さえ書きあげ、現代の妖怪とも言うべき『さとり』にすら近くなったとき、果たして人類は上位互換された『猿』を、どう迎えるべきなのか。
知性を持った『猿』の行き着く先とは。
拍手で講演者を迎えることといたしましょう」

割れんばかりの拍手が続く。
私は壇上へと進み出た。



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