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「青天を衝け!」では、なぜ家康が登場するのか。

NHKの大河ドラマ「青天を衝け!」は澁澤栄一を主人公とした物語。
しかしドラマには、なぜか必ず徳川家康が解説者として登場し、
アクセントになっている。

澁澤栄一より300年も前に生まれた家康が、なぜ毎回登場するのか。

歴史の流れの中でその意味を見つけていく。

論語と算盤

澁澤栄一の著書として有名なものが、「論語と算盤」。
これは澁澤氏が著したものではなく、澁澤栄一を信奉する組織「竜門社」の機関誌に掲載された、経営者や企業幹部に向けた講演会の内容を、梶山彬氏が九十項で編集した言行録である。

約500社の会社を立ち上げ、約600ともいわれる慈善事業に関わった「近代日本資本主義」の父が、経済人に語った講演のエッセンスは、これから資本主義のあり方を見直し、社会システムを再構築しなければならない令和の時代の私たちに実践的なアドバイスを示唆している。
半世紀を経た今日でも参考になるビジネス書である。

内容の根幹にあるものは、道徳経済論 合本主義だ。

資本主義は、利益を得たいという欲望に鞭を奮い、鼓舞しながら前進させていく面がある。利益・豊かさというニンジンをぶら下げて、欲望という馬を走らせるという構造だ。

圧倒的な西欧諸国との違いを間の当たりにした明治期は、富国強兵を旗印に追いつけ追い越せと走り抜けた時代だった。

欲望という名の馬は、当然の事ながら暴走する。
行きついた先が軍国主義、バブル経済であり、まわりを観ずに暴走してきた挙句そこに至ったため、一度失速すると中々後に戻れない。

軍国主義はそのまま太平洋戦争への突入しスピンアウト、バブル経済以降今現在に至るまで、我が国は方向性を見失い失速したままである。

澁澤は、欲望という名の資本主義の実態が分かっていたからこそ、資本主義の暴走をコントロールする仕組みが必要だと提唱した。

それが「論語」という概念なのだ。

論語とは何か

「論語」とは、今から約2500年前、中国の春秋戦国時代に登場した孔子の言葉を、孔子の死後300年ののち、孔子の言葉を弟子たちによって編纂された書物である。日本では弥生時代の頃のものだ。

東洋思想は、道教・儒教・仏教という三要素から構築されている。
道教は中国土着の不老長寿を大テーマとした民間宗教として始まり、その後老子・荘子と結びき老荘思想として発展した。

仏教はインドの釈迦を開祖とした宗教であるため、中国からみたら外来宗教である。

儒教は孔子を開祖としている。

東洋思想の特徴は、どれも開祖を神としていないため、キリスト教やイスラム教のような一神教の宗教の概念とは異なる、哲学宗派である。

四書五経

儒教は、四書と五経という経書に編纂されている。
前漢時代に編纂されたものが五経である。前漢、後漢時代と儒教は国を安定させる哲理として用いられるが、三国志の時代を経て、北方異民族支配の時代に入り分散、唐の時代に再び編纂、文治王朝である宋時代の、学術文化の振興期に、朱熹により五経とは別に『論語』『大学』『中庸』『孟子』の4つの書物を四書として編纂、これ以降、儒教の経書は四書五経となり、アジア周辺諸国に大きな影響を及ぼしていく。


東洋思想

孔子の時代

儒教は「孔子」の打ち立てた思想を源泉とし、その後弟子たちによって深められていった学問である。孔子は今から約2500年前の紀元前500年頃、徳治政治とされた周王朝が滅亡、群雄割拠の動乱期に差し掛かった時期である。(※周王朝が徳治政治かどうかは諸説ある)
この時代は、世界的な哲学エポックであり、ドイツの哲学者カールヤスパースは枢軸時代と命名している。

枢軸時代

紀元前5世紀のこの同時期に、ギリシャではソクラテス・プラトン・アリストテレスが登場し、パレスチナでは旧約聖書のイザヤやエレミヤなど予言者が登場、インドではサンスクリット語で書かれたヴェータの奥義書 ウパニシャッド哲学、そして仏教が始まり、中国では孔子・孟子など儒家を始め、老子の道家、孫子の兵法で有名な孫武や、法家の韓非子など様々な軍略家や思想家を包含した諸子百家という知的集団が登場した。
現在の私たちの思想哲学の原型が全てこの時代に興ったといっても過言ではない。

枢軸

なぜ紀元前5世紀なのか

この時代は、青銅器から鉄器への過渡期であり、大帝国へ統一されるまで至っておらず、多数の都市国家で成り立っていたため、言論の自由が比較的自由であったという。

また、鉄器が登場し始めた事により戦闘が激化、大量殺戮が行われるようになり、このままだと人間は滅亡の一途をたどるのではないかと世界中の賢人たちが危機感を抱いたためとも言われ、人間とは何か、生きるとはどういうことかという哲学が誕生したといわれている。

枢軸時代以降、中国では秦の始皇帝による中央集権型の統一国家が登場、ヨーロッパではローマ帝国に集約され、言論統制が強化、以降の思想は、この枢軸時代に誕生した思想から、帝国の勢力保持のための原理として用いられるものが、選択されて発展していく事になる。

古の聖賢の政治を理想とし、家族や君臣の秩序を徳治政治で守ることを唱えた儒教は、動乱期の戦国時代は注目されなかったが、権力安定期の漢時代に入ると、中央政権制度を支える規範として徴用され、官僚育成教育に活用されるなど、国教として保護されていくことになった。

日本の儒教


日本への儒教の伝来は、仏教より早く、513年継体天皇の時代に、百済より五経博士が来日したという説と、それ以前、王仁(わに)が『論語』を持って渡来したという伝承が『古事記』などに記載してあることから、5世紀頃には伝来していたものと考えられている、最も古い書籍である。

だが、聖徳太子の時代に、その後伝来した仏教を国家鎮護の宗教として選択、中国から律令制を輸入したにもかかわらず、官僚試験である科挙制度は導入しなかったため、儒教は公家の清原家の家学としてのみ継承、一般には定着しなかったという。

その後、江戸期に徳川家康公が儒教を幕府の学問として取り入れるまで、四書五経を教えるのは儒学を伝承してきた清原家の許可なく講釈は出来なかったという。

平安時代末期、日宋貿易を通して、朱熹が編纂した四書五経という新しい儒学のスタイル(朱子学)が入ってきたが、同じく宋時代に発信された禅の教えの方が武家社会には受け入れられ、朱子学は禅僧が研究するものに過ぎず、その教えも静座や座禅など行法を組み合わせたものであったという。

家康の登場

江戸時代に入ると、徳川家康により封建支配のための思想として儒学が採用され、それまで僧侶が研究してきた儒教を仏教から分離、一つの学問として形成する動きが生じた。
朝鮮の姜沆の影響を受けた藤原惺窩の弟子である林羅山が家康に仕え、以来、林家が大学頭に任ぜられ、幕府の文教政策を統制した。

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「修己治人(己を修め人を治む)(自己の修養と同時に他者へ貢献する)という儒教の理念は、日本人の国民性にも適合、江戸期の安定政権を創りだすと共に、明治維新につながる思想の土台を築くことになる。

江戸期以前の学問は、僧侶や公家、武士の一部が学ぶものとされ、庶民が学ぶ機会などなかったが、徳川の長期安定政権の出現により庶民は始めて文字を読むことを学び、学問が庶民の間に振興していったという。

この時代に広く国民が学んだ儒学は、柔学(おだやかな道を守る学問)ともいわれ、日本人のヒューマニズムを培った学問にもなった。

昌平坂学問所

生類憐みの令で有名な五代将軍、徳川綱吉公は、犬好きであると同時に、学問好きであり、それまで儒学者 林羅山の家系が祀ってきた孔子の聖廟を、湯島に移築することを命じ、昌平黌と名付けた。

この時に、林家の当主は、幕府から学問を総括する大学頭という官職が与えられている。だが当時は昌平黌には通う者は少なく、八代将軍吉宗の孫にあたる老中、松平定信の寛政の改革の際、昌平黌を昌平坂学問所と改名し、幕府直参の教育機関と位置付け、幕臣とその子弟の入学を奨励し、学問ができれば、家柄に関係なく幕府の役職につけるようにした事により、昌平坂学問所は注目され始める。
その後、幕末の動乱期、より広く優秀な人材を登用する必要から、直参のみならず藩士・郷士・浪人の聴講入門も許可された。
(私たちが毎朝読んでいる言志録の著者、佐藤一斎は、昌平学学問所の塾長であり、山田方谷、佐久間象山、渡辺崋山、横井小楠を始めとした多くの優秀な人材を輩出した)

この時に養成された人たちが、幕末から明治時代の日本を支える幕府側の逸材になったのである。この幕府の制度は諸藩にも伝わり、各地に藩校が作られることになる。そこから幕末の志士達が醸成されてきたのだ。

しかし、これは個人の能力を重視する制度であり、それまでの家柄を重視して人材を登用する封建制度を根本から否定したものでもあった。
これが幕府を瓦解させ、同時に明治維新の原動力になったといわれている。

なぜ「青天を衝け」では、毎回家康が登場するのか

徳川家康が登場するまで、学問は僧侶や公家・一部武士など特権階級が学ぶものであり、広く庶民が学べるののではなかった。

身分制度はあったものの、学問をどの身分の者でも学べるものとしたのが徳川家康であり、特に儒教教育に力を入れた。家康の蒔いた「学問」の種が、昌平坂学問所や藩校・各地に寺小屋を作りだし、そこで醸成された優秀な知能が近代日本を創りだした。

江戸時代後期の就学率は70%~86%程度、識字率はそれ以上だったと考えられる。澁澤も回想記の中で、父親から大学・中庸・論語を習い、その後従兄の尾高惇忠の許で、小学・蒙求・四書・五経・文選・左伝・史記・漢書・十八史略・元明史略・日本史・日本外史を始め、三国志史や里美八犬伝など読みやすいものも含め数多くの書籍を読んだと述べており、それはその時代稀有な事でもなかったようだ。そこからも、当時の教育の水準の高さを知ることが出来る。

「青天を衝け」という表題も、栄一が詠んだ漢詩「勢衝青天攘臂躋 気穿白雲唾手征」から引用されている。

澁澤は豪農とはいえ、農民の出自である。成人するまで育った深谷も、現在は東京から1時間30分の距離であるが、上州に近い武蔵の国である。

24歳で故郷を出奔した澁澤は、その4年後に幕府代表枠でパリ万博に行き様々な近代産業構造を学ぶのだが、それを受信できるだけの教育基盤を江戸時代は作りだしていたのだ。

明治維新は西郷隆盛や坂本龍馬、木戸孝允など幕末の志士達が創り出したイメージだが、彼らを創りだしたものこそ、江戸の教育エネルギーというイデオロギーである。教育があったからこそ、内乱にならず無血開城が実現できたのかもしれない。

時代を変えるものこそ、教育エネルギーではないか。
国民に教育の機会を与えた日本で始めての為政者こそ、
家康公なのだ。

山脇史端/一般社団法人数理暦学協会
東洋思想クリエーター


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