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四書五経とは何か

「東洋古典を毎朝読む会」本日のプレゼンテーターは、日高敏明さん

今日のテーマは
「四書五経」とは何か問題

これがわからないと、東洋思想の根本がわからない。
これをきちんと説明できないと、
「自分は東洋思想を学んでいる」とは、ちょっと言いづらい。

「四書五経とは何か」
それをどの方向から説明できるか、今日のプレゼンテーターを務めてくれた日高氏が苦慮してくれたところと、センスも見せどころだったと思う。

東洋思想は2000年の賢人たちの知恵であり、人間のたかが100年足らずの人生で、それに精通できる人などいない。

つまりみんなが初心者であり、初心者のままこの世を去るというのが東洋古典。だから、分からないことが当たり前で、分からないことがあるからこそ、面白い。

だからこそ、東洋思想の学びには終わりがない。

終わりがない学び、どんなに勉強しても常に初心に戻ることが出来るから。

学ぶことがたくさんあるからこそ、好奇心が刺激され、考える力が養われるのだと、私は思う。

四書五経とは五経+四書のこと

さて、それでも基本はつかんでおこう。

本日のプレゼンテーターの日高氏は、このように簡潔に解説してくれ、私にも大いなる学びになった。

四書五経とは、儒教の経典をまとめてこう呼ぶが、「四書」
と「五経」とは由来が異なる。
「四書」とは南宋の朱子(1130~1200年)に選んだ四つの基本経典で、『論語』『孟子』『大学』「中庸』を指します。
いっぽう「五経」とは、前漢前漢(紀元前206年 - 8年)に選ばれて唐の初めに確定した五つの基本経典をいい、一般に『易経』『書経』『詩経』
『礼記』『春秋(左氏伝)』を指します。

私たちは今まで、「四書五経」といっしょくたにしてきたが、四書と五経は全く別の時代に編纂されたものであり、しかもその間には、約1000年の時間差がある。

昨日の勉強会でも説明したが、今から約2500年前に孔子が登場した。

孔子は「強い者が弱い者を殺戮するのは当たり前だよね」という時代に仁愛を唱えた人物。

存命中は認められなかったが、多くの弟子に恵まれた。
孔子の生きた時代は、貴族政治と皇帝ワントップの中央集権制度の移行期だ。
中央集権制度とは、皇帝ワントップなので、皇帝がコントロールしやすい「お行儀の良い」官僚育成が重要になる。
「お行儀の良い部下」育成において、儒教は大いに用いられ、秦の始皇帝による統一国家登場後、その後成立した前漢時代に、儒教は国教として重んじられるようになった。
その時に置かれたのが「五経博士」という存在だ。
五経博士とは「社員研修講師陣」みたいな存在で、儒家の経典である五経(詩・書・礼・易・春秋)を教学する学官だ。

その後、この儒教の五経は、国の官僚試験の試験項目になったことから、思想より「その文面のみを暗記して模範解答を覚える的」なものに変わっていく。つまり、大学入試のようなもので、「生きた英語」より「文法」や「語彙力」に力を入れるというようなものだ。

そうすると、元々孔子が唱えていた、人の心に訴える道理を説いた思想的なものから、哲学的要素が薄れていった。

以下、日高さんのプレゼンより引用

魏晋から唐にかけてのこの時期、儒教の停滞を尻目に知識人の心を
とらえたのが老荘思想や仏教・道教でした。彼らは老荘思想の自然な
生き方や、仏教や道教の説く精神の安定や不老長寿に惹かれ、
またそれらがそなえた奥深い哲学に魅せられたのです。このような
儒教にとって厳しい思想状況のなか、中国古来の伝統をもつ儒教の
復興を唱える人々が出て来た。
さらに唐の初めに皇帝の命によって、『五経正義』という
疏(注釈のまた注釈)が作られました。
唐の時代は貴族制が根強く残るものの、政治に携わるには
科挙(官僚採用試験)を突破するルートもありました。
科挙では『五経』が試験科目だったため、『五経正義』を制定して
標準解釈を示したのです。
(日高氏プレゼンよりの引用)

つまり、官僚試験としての儒教になってしまい、思想としての本来の想いが伝わらないようになってしまった。思想的には「つまらないもの」になってしまい、仏教や道教に人々は引き寄せられ、儒教としてはこれではいけない!ということで、新たな潮流が始まるのだった。その新しい潮流こそが朱子学だ。

『四書』の『論語』『孟子』は、唐時代以前は「基本経典」では
なかったのです。後から付け加えられました。
『大学』『中庸』は『礼記』という基本経典の一部から抜粋された。
宋の時代は、学問が奨励され、官僚はみな科挙によって採用する
制度が確立し、高い教養と意識を持った知識人が活躍できるように
なった時代でした。『大学』は特別に扱われるようになった。
(日高氏プレゼンより)

四書とは何か。


四書とは、『論語』『孟子』『大学』「中庸』。

その内、「論語」「孟子」は後から付け加えられたもので、
「大学」「中庸」は、五経の「礼記」から、これはいいぞと抜粋したものである。つまり礼記のダイジェスト版だ。

故に、「五経」と「中庸」は短い。

誰が四書を編纂したかというと、朱熹という人物だ。
儒教は宋の時代に朱熹が新たに編纂して、思想的な部分が教化された。
つまり儒教のルネッサンスのような動きが起きた。
このリバイバルした儒教を「朱子学」と呼び、朱子学になってから付け加えられたものが、四書ということになる。

日本でも、儒教は飛鳥時代前に入っていたが、あまり注目されず、徳川時代に入り、「武士をお行儀の良い部下にする」必要性から採用された。

つまり結構最近になって入ってきた考え方であり、現在我々が「儒教」だと思うものは、「朱子学」ということになる。

宋の時代というのは、学問が奨励された文治国家であったため、このような学術的リバイバル運動が起きた学術の黄金期。

そして、その中で礼記より抜粋した「大学」は、特別に扱われるようになったのだ。それはなぜかというと、日高氏はこのように解説してくれた。

『資治通鑑』の著者として知られる司馬光(1019~1086年)
は単行の『大学』を初めて『大学広義』という注釈を作りました。
さらに程兄弟も、『大学』に深く関心を寄せ、「大学は乃ち孔子の
遺書(孔子が後世のために遺した書である)」と重視して精密な
研究を行いました。これらの成果を受けて、朱子は『大学』を独立
した書として本文を整理し、注釈の整備に精力を傾けたのでした。
(日高さんのプレゼンより)

資治通鑑とは、全294巻という気が狂うほど膨大な量の歴史書。

編年体といって、起きたことをすべて年代順に記しているというもので、「なるほどね~そうなんだ!」と簡単に思うかもしれないが、紀元前403年の周の時代からの通史なもので、1000年以上の編年体という、気が遠くなるほど膨大な歴史書である。
しっかり読もうとすると100年以上かかるのではないかと言われている。

こういう事を知ると、中国の智の集積のすさまじさを感じる。

この時に「大学」についての注釈が作られた。
これはすごいことなのだ。
何故かというと「大学」は他の書籍に比べると極端に短い。それを敢えてクローズアップしたことがすごいのだ。

更に、当時の最高級の学者が「大学」に注目し、

これって「孔子の遺書だと思う」といって研究を行った。

そのことは、朱子にも大いに影響し、「大学」を独立した書籍として、四書の一つにしたのだというが経緯だ。

ちなみに、孔子は一切文章を残していないので、実際の孔子の遺書ではないが、ここで言いたいことは、

「孔子が本当に言いたかったことがこの短い書に書いてある」という意味なのだと思う。

そのあたりは、宋の時代の朝の講義でより深く追求するとしておこう。

つまり、四書五経といっても、ひとつのものではないということ。

そして、その流れの中での「大学」の位置づけを感じて戴くことが、今日の日高氏のプレゼンテーションの目的だった。

明日は、孔子とはどのような人物か。

お楽しみに!

毎朝15分間の学びを通して、少しずつ賢くなっていければいいなと私は思う。

山脇史端

https://surirekigaku.com/2020/08/30/daigaku/


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