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マッドフラッド 12 / 明治時代の真相

こんにちは、TOYOです。
これまで私たちに伝えられていた歴史は、真実の歴史ではなく、
一部の支配者によって捏造された嘘の歴史でした。

私たちが知っている「江戸時代は存在していない」ことは、以前にお伝えしていましたが、今回は明治時代の真相についてお伝えしたいと思います。

明治時代の建造物

芝・増上寺 三門

上の写真は東京、芝・増上寺 三門とあります。
みなさんはこの写真を見て疑問に思わないでしょうか?

人間の身長を考えると、あまりにも巨大過ぎないでしょうか?

建物は石の基礎の上に建築されており、地面に埋まってはいません。
あらゆるお寺の基礎が、地面の上ではなく、石の土台の上に建築されています。日本全国のお寺が、地面の上に建っていないのはなぜでしょうか?

アンベール「将軍家の寺」

アンベールの「幕末日本図絵」より「将軍家の寺」の絵です。
この「将軍家の寺」が、上記の芝・増上寺のことだと思われます

どう見てもギリシャ・ローマ様式の巨大神殿のようです。
人々がとても小さく描かれています。
このお寺は、まるで巨人の大きさに合わせて作られいるようです。

官庁街となっている霞が関に初めて置かれた官庁は「外務省」でした。
「外務省」は1869(明治2)年、「太政官」のもとに、日本で最初に置かれた6省の一つで、当初は現・中央区築地四丁目1番、次いで現・中央区銀座六丁目17番に庁舎が置かれました。

海軍省

明治末期の「海軍省」です。
海軍省は日本の中央官庁の一つであり、旧日本海軍の軍政を司った機関です。
まるで10世紀末から12世紀にかけての、ヨーロッパの「ロマネスク様式」のようです。

陸軍省

明治末期の「陸軍省」です。
陸軍省はやはり日本の中央官庁の一つであり、旧日本陸軍の軍政を管轄した機関です。
煉瓦造りでやはり巨大です。

参謀本部

明治末期の「参謀本部」です。
参謀本部は軍隊において上級士官の作戦指揮を補佐するための合議機関です。
まるでフランスのようですね。

内務省

明治後期の「内務省」庁舎です。
内務省は1873年11月10日から1947年12月31日まで存在した日本の行政機関です。
門柱と屋根にアンテナのようなものがあります。

大蔵省

大蔵省」(現財務省)です。
大蔵省は明治維新から2001年1月6日まで存在した日本の中央官庁です。
1871(明治4)年、大手町の「姫路藩酒井家上屋敷」跡に移転してきたとされています。

大審院

明治前期に撮影された「大審院」です。
大審院は1875(明治8)年に設置された、現在の「最高裁判所」の前身となる施設で、庁舎は1877(明治10)年に完成しました。

農商務省

1881(明治14)年に設立された「農商務省」庁舎です。
農商務省は農政と産業の育成、振興を担当した行政機構であり、現在の農林水産省と通商産業省の前身となる中央官庁です。

工部省 鉄道寮

1871(明治4)年に設置された「工部省 鉄道寮」に始まり、その後、改称・改組を経て、1907(明治40)年に「鉄道院」となりました。

東京浅草雷門

明治末期、「東京浅草雷門」です。
浅草寺の山門であり、東京都台東区浅草一丁目2番 - 3番地に位置し、雷門通りに面しています。

東京高等商業学校

明治末期、「東京高等商業学校」です。商業教員養成所は附設となります。
煉瓦造りの豪華な建物です。

東京府庁舎

赤煉瓦2階建ての「東京府庁舎」です。ロマネスク様式だらけですね。

永田町華族女学校

明治期、「永田町華族女学校(学習院女子大学)」です。
ここもまた、煉瓦造りですね。

明治期、「東京中央郵便局」です。
民営化前の分類では集配普通郵便局でした。

東京勧業博覧会外国館

東京勧業博覧会外国館」です。
1877年(明治10年)8月21日から11月30日までの約3ヵ月間、東京の「上野公園」で開催されました。

吉原遊郭

幕末~明治期、「吉原遊郭」です。
吉原遊廓は、江戸幕府によって公認された、江戸の遊廓です。
当初は日本橋近くにあり、明暦の大火後、浅草寺裏の日本堤に移転し、前者を元吉原、後者を新吉原と呼びます。

イメージとは違い、かなりモダンな創りですね。

新吉原大火

明治44年4月9日 新吉原大火の惨状。新吉原大火は1911年(明治44年)4月9日に東京市浅草区吉原で発生した火災です。
知られては不都合なものは消し去ったのでしょう。

逓信省本省庁舎

ネオ・バロックの壮大な「逓信省本省庁舎」です。
逓信省本省庁舎は大正12(1923)年の関東大震災で焼失してしまいました。

この王宮のような巨大さは何でしょうか。

東京愛宕塔

明治期、「東京愛宕塔」です。このような塔があったようです。
山上には江戸開府とともに「愛宕神社」が創建され、明治時代にはモダンな観光施設「愛宕館」「愛宕塔」が誕生したとされています。

旧東宮御所(迎賓館赤坂離宮)

国宝 「旧東宮御所(迎賓館赤坂離宮)」です。
旧東宮御所は、皇太子明宮嘉仁親王、のちの大正天皇のための御住居として明治42年に建設された宮殿建築とされています。

設計および工事の統括は、明治期を代表する建築家、片山東熊(とうくま)とされていますが、現代建築家でも到底及ばないようなこの見事な建造物を、はたして建築できたのでしょうか。

東京明治座

明治期、「東京明治座」です。
明治座は、東京都中央区日本橋浜町二丁目にある劇場ですが、やはりロマネスク様式です。

初代帝国劇場

明治44年 (1911年) 、「初代帝国劇場」です。
東京都千代田区丸の内三丁目にあるプロセニアム形式の劇場です。

北海道拓殖銀行

明治33年2月16日に「北海道拓殖銀行」が誕生しました。
北海道拓殖銀行は、1997年まで存在した都市銀行です。
この建築様式もまた、ロマネスク様式です。

函館 帝国博品館

明治41年、「函館 帝国博品館」です。
函館市の銀座通にあった勧工場(かんこうば)「帝国博品館」は木造建物としては北海道一でしたが、函館大火で焼失してしまいました。

勧工場とは、明治・大正期に多くの商店が一つの建物の中に商品を並べて販売した、百貨店の前身のようなものです。

北海道庁旧本庁舎(赤れんが庁舎)

明治期、「北海道庁旧本庁舎(赤れんが庁舎)」です。
1888年に建てられたアメリカ風ネオ・バロック様式の建築とされています。

東京府庁時計塔

明治期、「東京府庁時計塔」です。
明治維新と共に塔時計が文明開化、近代化のシンボルとして輸入されブームを起こした時期があったようです。

新潟県物産陳列場

明治期、「新潟県物産陳列場」です。
5,000坪以上もある敷地には4棟の物産陳列館、石油陳列館、飲食店などが建ち、国内外の物品見本や参加府県から出品された農産物、水産加工品、工芸品などが所狭しと並べられていたようです。

市立病院済生館 旧済生館病院本館

山形名所 「市立病院済生館 旧済生館病院本館」です。
山形市立済生館条例により設置された、山形市が運営する病院で1873年に設立されたといわれています。

モンタヌスの絵に出てきそうな建物ですが、屋根にはやはりアンテナらしきものがあります。

旧山形師範学校

明治期、「旧山形師範学校」です。
旧山形師範学校は、初代県令・三島通庸(みしまみちつね)の文明開化政策の一環で教育が重要施策としてとりあげられ、 明治11(1878)年に旅篭町(はたごまち)に開校したとされています。

富山県主催一府八県総合共進会・噴水会場

明治期、「富山県主催一府八県総合共進会・噴水会場」です。
明治に入り殖産興業の一環として官主導による民間の各産業、業種の技術の品評が博覧会、共進会というかたちで開催され始めました。

まるで、古代ローマのようです。

三重県尋常師範学校・蔵持小学校

明治期、三重県尋常師範学校・蔵持小学校です。
三重県尋常師範学校は、当初、小学校教師の養成を目的とする三重県尋常師範学校の本館として津市に立てられ、その後、昭和3年(1928)名張市に移築されて蔵持小学校として使われました。

大阪東本願寺

明治期、「大阪東本願寺」です。巨大ですね。

京都伏見稲荷神社

明治期、「京都伏見稲荷神社」です。
伏見稲荷大社は、都が京都に遷る前の和銅4年(711)に創建されたと伝わっています。

鎌倉大仏

有名な「鎌倉大仏」です。
長谷の高徳院の本尊である大仏は、鎌倉幕府第三代執権・北条泰時の晩年になってから作り始めたとされています。

巨大な大仏は、かつて存在した巨人の姿なのではないでしょうか?

凱旋門

新橋凱旋門

こちらは有名な「新橋の凱旋門」です。日露戦争当時の写真です。
やはり人間と比べるとその巨大さがよくわかります。

日比谷凱旋門

こちらは「日比谷の凱旋門」です。
一風変わった奥行きのあるアーチになっています。屋根の上には玉ねぎ型のドームも見えます。

新宿凱旋門

新宿凱旋門です。
新宿凱旋門は、明治38 (1905) 年、日露戦争の戦勝を記念して路面電車の軌道上に建てられたとされています。

名古屋・広小路凱旋門

明治期、名古屋の「広小路凱旋門」です。
名古屋駅(笹島停車場)の開業にあわせて堀川東から笹島までの道路の拡幅工事が行なわれて以後、広小路は名古屋を代表する道としての地位を確立。
日露戦争に勝利した記念に広小路本町には凱旋門が建てられたとされています。

熊本駅前・日露戦争の凱旋門

明治39年、熊本県の「熊本駅前・日露戦争の凱旋門」です。

これまでさまざまな建造物を見てきましたが、これが本当に日本なのかと思わせるような建造物ばかりですね。
これらの建造物は、現代の日本の建造物とは明らかに違うようです。
現代では「ロマネスク様式」や「ネオ・バロック様式」などと呼ばれていますが、この呼び名は真実を隠蔽するために作り出された嘘です。

じつは、これらの建造物はすべて、前文明の遺産です。
約200年前に存在した世界最大の国家「タルタリア帝国」で建造されていた、「タルタリア様式」の建築物です。

大阪・中之島

本当の明治時代は、私たちが知っている日本の姿とはまったく違っているようです。
明治時代の日本の風景は、まるでヨーロッパのような「タルタリア様式」の建造物が立ち並んでいたのです。

「タルタリア帝国」は、1816年2月、突然、歴史上から姿を消してしまいました。
その原因は、ディープステート(闇の政府)による核攻撃と、その後に起こったマッドフラッド(泥の洪水)によって、文明はリセットされ、タルタリア帝国の存在自体も消え去ってしまったのです。

じつは、日本の北海道と新潟や東京、大阪、熊本など本州の一部は、タルタリアの領土でした。
そのために、日本各地にタルタリア様式の巨大な建造物が数多く残っているのです。

しかし、ここに歴史の欺瞞が存在します。
日本国民が貧しかったにもかかわらず、巨石の寺院やお寺などが全国に残っています。
この矛盾はどこから来るのでしょうか?
日本人の貧困はどこから来たのでしょうか?

その理由は、単純明快です。
文明をリセットされてしまったために、「生き残った人々は豊かさを得る手段を失ってしまった」のです。

これが日本の歴史の真相です。

最後までご覧いただき、ありがとうございます。

このブロクの作成にあたり、Mチャンネル「不思議考察」さんの動画を参照させていただきました。



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