バムセは"ぶたくま"なの!-私のバイブル『ロッタちゃん』 を見に行った
癇癪持ちの子どもだったからだろうか。幼い頃に『ロッタちゃん』を見せられていた。ここ最近、濁流のように流れてくるコンテンツや情報に辟易しており、自分のルーツになっているような作品を見返した方がいいのでは?と思うようになった。もう先を追うのも辛くなってきたし、人間の好みなんて、そう変わるものではないので、自分の生育に深く影響を与えた作品に積極的に会いに行くことにした。そう、それが映画『ロッタちゃん』である。実に24年ぶりの劇場公開である。
『ロッタちゃん』はスウェーデンで1992年に『ロッタちゃんと赤いじてんしゃ』1993年『ロッタちゃん はじめてのおつかい』が公開されてから時をおいて、2000年に日本で公開され、大ヒットを収めた。
私はレンタルビデオか金曜ロードショーか何かで見た気がする。96年生まれの私だから、初めて見たのは5歳か6歳くらいの頃だろうか。スクリーンで見るのは初めてである。
ロッタちゃんは、愛らしい存在であるが、同時に世界のすべてに腹を立てている存在でもある。作中の言葉を借りるなら"ごうじょうっぱり"である。相棒のブタのぬいぐるみ「バムセ」と一緒に、小さな身体で、ままならない世界を精一杯生きている。「バムセ」は"ぶた"だが、ロッタちゃんにとっては"くま"である。兄に「ブタだ」と言われたロッタちゃんは「バムセは"ぶたくま"なの!」と反撃する。そうだ、"ぶたくま"である。それがなんなのかはわからないけど。"ぶたくま"は"ぶたくま"だ。
ちくちくのセーターが着たくなければジャキジャキに切り裂くし、自転車に乗りたいのに買ってもらえなければ、隣のおばあさんの家の納屋に忍び込み大人用の自転車にまたがって、坂道を滑り降りていく。──まあ、そのあとすっ転んで、薔薇の生垣に跳ね飛ばされる。おばあさんからせっかく誕生日にもらったブレスレットも無くしてしまうし、全てが自業自得なのに、ずっと腹を立てている。
「セーターを切り裂くなんて、なんて恐ろしいことをするのだ!私はここまでではない!」と幼い頃思ったことを思い出す。
それから、特に覚えているのは、ゴミ捨てをしようとしたロッタちゃんが、右手にバムセ、左手にゴミ袋を持っていて、間違ってバムセの方を捨ててしまうシーンだ。幼い頃から何度も思い出しては「絶望すぎる」と思った光景だ。ぬいぐるみに囲まれて育った私にとっては悪夢の象徴のような出来事だ。何度も思い出しては慄いた。もちろん、愛おしい物語らしく、ロッタちゃんとバムセは再会できるのだが。
ロッタちゃんを取り巻く世界はとてもやさしい。街には性犯罪者は1人もいないし、子育てについてとやかく言う人もいない。あくせくして、イライラしてる人もいない。嫉妬や嫌味をいう人もいない。たまにいるけど、ロッタちゃんは反撃する。ロッタちゃんや、ロッタちゃんの兄や姉たち3兄妹を優しく見守る人しかいない。これは、フィクションが描いた嘘にすぎないだろうか?だけれども、私は、願いの集合体もまた現実のひとつだと思っているから、この世界を願う人たちがいて、この作品がつくられたこと、そして20年以上の時を経てリバイバル上映されることそのものに歓びを感じる。
この映画を日本で公開したのは映画評論家の江戸木 純で、インド映画の『ムトゥ 踊るマハラジャ』を1998年に公開した人物でもある。江戸木は、2000年の『ロッタちゃん はじめてのおつかい』について以下のように語る。
江戸木の、「何より子供を子供扱いせず意志のある一人の人間として扱っているところが素晴らしい」というコメントが美しい。幼さは、自我のないものとして扱っていい愛玩対象ではなく、1人の崇高な魂として尊重されるべきものである。江戸木が「子供映画」に対して持っているスピリットは極めて美しいし、「子供映画」を公開するにあたって託児サービスを実施するのも理にかなっている。
私は幼い頃ロッタちゃんのように大人たちに見守ってもらったし、ざっくり言えば、27歳になった現在でも、そんな優しさをくれる年長者がたくさんいる。ロッタちゃんがお誕生日に赤いバッグをもらったり、ブレスレットをもらったりするように、いろんなものをもらうことがある。私はロッタちゃんであるし、同時に他のロッタちゃんを見守る一員でもある。年下の女の子たちが、ひとつひとつのことに怒ったり七転八倒したり、挑戦したりするのを見ていたいし、応援したい。おしゃまであってくれ。ロッタちゃんのまま歳を重ねたような、ロッタちゃんの先輩たちもいる。自分の好きなものを抱きしめたまま、大人になったような人。イヤなものはイヤ、好きなことは好き。全てがはっきりしていて、チャーミング。無敵のオーラを持っている女の子たち。
江戸木が『ロッタちゃんと赤いじてんしゃ』に以下のようなコピーをつけている。
完全にこれ。私の人生観は完全にこれである。
ひとりひとり見ている世界は異なるし、現実というものは容赦ないとされているかもしれない。しかしながら、私にはどうしても『ロッタちゃん』の世界の方が現実としか思えないのである。やわらかくてやさしい世界、納得のいかないことにはとことん向き合ってみるのが私のOSであり、たぶんそのことは、結局この先も揺らがないと今日確信した。今後ネガティヴな方面で更新されることはない、エラーが出る場所は私にとってはエラーである。そんな時に私はもう一度、『ロッタちゃん』を見るだろう。たとえどんなに悲しいものを見たり、自分は世界の別の側面を見てきたと言われても、私が『ロッタちゃん』を、ベースに生きることは変わらない。
愛されていることは罪ではない。愛されてない理由を探すことも、愛されている理由を探すことも、選べるなら、愛されている理由を探したい。この世に愛がなくなったような気がしても、幼い頃に見た『ロッタちゃん』の中にはやっぱりあるし、再上映に足を運ぶ人がいる。作中に登場する「バムセ」は売り切れ続出だそうで、私もまだ手に入れられてない。それから「子どもをひとりの人間として扱う」という、江戸木のスピリットは、とっても素敵だと思う。だって私たちは大人ですら、「ひとりの人間として扱う」ことができているだろうか、と思うと、身が引き締まる思いだ。
愛されてきたことや、愛されていることは、私の誇りであるし、私は次の時代を生きる子供たちにはロッタちゃんのように育ってほしい。もし、万が一私が愛されてきたことが誰かを傷つけるという事実がこの世のどこかに存在したとしても、迷わずこれを選択するのだと、心に決めた。その責任を負うというのが、大人ということなんだと思う。その意味で私は大人になるし、どうしても『ロッタちゃん』以外を愛せない。愛らしく、優しく、朗らかな、ロッタちゃんを取り巻く日常を目指して私は明日も生きるだろう。誰になんと言われたって譲りたくない。
ロッタちゃんは自分の心に正直である。わがままも大概問題だが、欺瞞もまた罪深い。『ロッタちゃん』が、2024年に公開されたことをうれしく思う。世界が『ロッタちゃん』みたいだったらいいのに、と無邪気に言うことに自罰感が伴う世の中であることを、本当に悲しく思っている。たぶん、2000年代くらいまでゆるされてたでしょ。これを書いたら、私は『ロッタちゃん』ベースの世界に戻るから、『ロッタちゃん』ではない世界への忖度はしなくなるけど、どうぞ世界中が健やかであってくれと思う。ロッタちゃんが気ままにやれるくらいにはどうか世界よ輝いていてくれと祈りながら眠りにつく。
私のベッドからは、今日買った2枚のポスターが見える。手元にはバムセがいないから、いっそ手作りでもしようかな。自分の欲しいものはちゃんとずっと大事にしておきたいと思う。
24年ぶりに上映された今作だけど、あと24年後には私は51歳になっている。そのとき、どんな私と、社会が待っているだろう。
ロッタちゃんのスピリットを持ったまま歳を重ねていたいし、『ロッタちゃん』を取り巻くような世界であってほしいと思う。そう思うことは罪ではなく、祈りだと思うのだ。
残念ながら託児サービスは劇場公開24年後もベーシックにはなってないし、むしろ2000年ごろよりも昨今の社会には世知辛さすら覚える。子どもに対しても厳しいと思う。それでも、バムセを抱きしめる人たちがいるのなら、少しくらいは優しくなる気がしている。
なんというか、これだけでいいのにな、世界、と思うことばっかりだ。自分のまわりだけでも、笑顔と優しさのハッピー・パラダイスじゃなきゃ、と、思うのだった。
あたたかさは、まやかしではない、と思う一夜だった。
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