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森絵都の小説にあこがれて高校サボって海に行っても、結局横浜にしか行けない私たちは自由じゃなかった。

学校サボって海へ行こう

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17歳の夏、友達と学校をサボって海に行ったことがある。中高一貫校に通っていた私と彼女は中学1年生の頃からの友達だ。二人は好きな小説が同じで、よく本の話をした。グループが変わったり、クラス替えがあっても、私たちはずっと仲が良かった。

もうすぐ“17歳の夏”が始まるという高3の7月、下校中の電車で「女子高生があっという間に終わっていく」という話をした。自称進学校に通っていた私たちは、夏からは受験勉強に専念する。

「中1の頃想像してた17歳って、もっと学校サボって突然海とか行けると思ってたんだけどな。」
私が言う。

中1の頃、私たちが好きだった森絵都の『リズム』。その続編の『ゴールドフィッシュ』。主人公が男の子のバイクで海に連れて行ってもらうシーンがあった。ああいうこと、高校生になったらできると思ってた。

「行こうよ、海、学校サボって。」と彼女が言った。学校をサボるなんてイメージのない彼女が、そんなことを言うのは意外だった。彼女が海に行く覚悟があるなら、私だって行きたい。

それから私たちは、この夏が終わる前に、学校をサボって海に行く約束をした。約束をした時点でそれは「ふと、行く」ということからは離れてしまう気もしたけれど、まぁ、駆け落ちの約束をするようなものだ。

どちらかが思い立った時に、いきなり連絡をすることを決めた。

いざ、横浜への逃避行

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それからしばらく経って、ある朝彼女からLINEが来た。

「今日、海行かない?今日はサボるつもりで、午前中の授業の荷物は家に置いてきた。持ってきたら、学校行っちゃいそうだったから。今駅のマックにいます!もしよければ、お返事待ってます!」

彼女には申し訳なかったけど、わざわざ午前中の分だけ器用に置いてくるなんて、その時点でただの「予定」だ。少し気分は乗らなかった。

でも、真面目な彼女がどれほどの覚悟を決めて私に連絡してきたのかを思うと、気持ちを無碍にはできない。断るという選択肢はなかった。

「行こう。」
そう返事をすると、彼女は喜んだ。本当は湘南とか九十九里浜の砂浜のある所に行きたかったけど、午後からは登校するので、行き先は横浜になった。すぐに乗り換えアプリのスクショが送られてくる。

「東横線の中目黒、5両目2番ドアのあたりで!」

タスク化した逃避行に、ドラマチックシンドロームの私は、ちょっぴりショックを受ける。それぞれ自由に電車に乗って、あてもなく海まで行く。そういうのが学校サボって海に行くってことな気がする。

きちんと同じ電車に乗って、私たちは横浜駅に到着した。都内に住んでいた私は、ほとんど横浜に来たことがない。(思ったより…いや思った以上に街!!!!!)と心の中で突っ込む。とりあえず、赤レンガ倉庫のあたりをうろちょろして、海を見てみるけど、見慣れた東京湾が広がるだけだ。

せっかくなので、海を眺めつつ将来のことなどを話してみる。海に来たらそういう話をしないといけない気がした。本来は、学校に何となく行きたくなくて「サボる」のに、「サボる」ためにした「サボり」はなんだか間が持たない。

「逸脱」と「普通」

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彼女は美大受験のことで、行き詰まりを感じていた。
予備校で書いた小論文のテーマは、「人間の不条理」。
彼女はそのテーマに沿って、「動物園で動物を見る行為は人間のエゴではないか」ということを真面目に書いたらしい。

一方、その中で、優秀だと褒められた作品は、「朝目が覚める」「今日は家族が家にいない」「学校をサボってしまおうか」という内容の詩がただ3連続くというものだ。そして最後は最初の一行「朝目が覚める」で終わる。それを、人間の生活の繰り返しの様子が余韻として感じられて素晴らしいと、講師は絶賛したそうだ。

常に「きちんと」ルールに従って生きてきた彼女は、”普通”の真面目さでは通用しない世界に苦しんでいた。常に「逸脱」ができない自分に悩んでいた。

だから、「逸脱」をしなければ、と思った彼女は、私に海へ行こうと声をかけたようだった。その話を聞くと、今朝の私への必死の誘い、海に行こうと覚悟を決めた彼女のことを、すごくかわいらしく思った。

「逸脱」と「普通」は私たちのテーマで、彼女はいつも「変わっている」ことに憧れていて、集団から浮いてしまう私は「普通なこと」に憧れていた。全く逆な二人だったけど、二人ともは自分の枠の外にはいつも出られなかった。

ドラマチックは起こらない

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それから、赤レンガ倉庫の隅に座って私たちはおしゃべりをした。
しかし、目の前の公園にはプラカードを持ち反原発を一人で訴えるおじさんがいる。私だって原発には反対だけど、大声で道行く人に怒鳴りつけるおじさんはこわかった。

おじさんの声に負けないように、私たちはエモい話を大声で話す。
だけどそのうちおじさんは私たちに直接「原発についてちゃんと考えているのか!」と怒鳴ってきた。

決死の気持ちで、学校をサボって海に来ても、全くドラマチックじゃない。
素敵な海の想い出なんてどこにもない。
森絵都の小説には、そんな怒鳴るおじさんは出てこなかった。

私たちは急いでその場を離れ、お弁当を食べる場所を探し、横浜を散策する。遠くにコスモワールドが見えた。ノスタルジックな遊園地に胸が高鳴る。だけど、私には遊園地に入る勇気もない。

横浜の真ん中で、お弁当を食べれるような場所は見つからない。
結局ビルの屋上の緑化地のような場所でお弁当を食べた。
これ、めちゃめちゃ普通の社会人のランチタイムだ…
学校をサボった罪悪感も重なり、全く楽しくない…。
これなら、学校に行っていつも通り友達とお弁当たべたほうが良かったかもしれない。

ドラマチックなことをしようとして、陳腐になるのは本当にみじめだ。柄にもなく逸脱しようとしたばかりに、こんな辱めを受けて…。なんでこんなことしてるんだろ…と思うと、恥ずかしくて悲しくて、もう横浜から帰りたかった。

特に期待した面白いことも起こらない。微妙な空気が漂う。
たぶん、私たちは暗かった。

それから、
「そろそろ学校に行こうか。」
と、どちらともなく時計を見て、午後の授業に合わせて電車に乗って学校へ向かった。

普通に学校に行くより、サボったくせに通学させられている方がみじめだ。電車に乗っている自分たちが、バカみたいだった。結局私たちは囚われっぱなしだった。屠殺されにいく豚の気持ちだ。

私たちは学校に着くと遅刻届を出した。
先生から「2人でどこか行ってたの」と怒られそうになったけど、「偶然駅で会って」と、ごまかした。
先生はそれ以上問い詰めなかった。

数日前に、ギャルっぽい子2人が原宿で遊んだ後、遅刻してきてめちゃめちゃ怒られたというニュースが学年に流れた。地味な私たちが遅刻したところで“その程度”なんだな、と、なぜか、怒られすらしない自分の陰キャ具合に絶望した。

これが私が高校をサボって海に行った話である。
彼女から見たらまた別の物語があると思うけど、当時の私にはこう見えていたという話だ。

「自分の物語」を他人に預けない

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あれから6年が経って、彼女は憧れのデザイン事務所に就職を決めた。私は東大で自分の好きなカルチャーの研究をしている、多少ぷらぷらしても自分の好きなことを仕事にすることにした。

私たちはきっとあの頃よりずっとよくなっている。
行きたかった場所に、ちゃんと行けてると思う。
高校生の頃は砂浜のある海には行けなかったけど、今ならもっと遠くに行ける気がする。

この前「優等生が褒められるなんて、高校生までじゃん」と、人に言われてハッとした。

結局どこにも行けなかった私と、一生懸命横浜に誘ってくれた彼女。
どちらが本当につまらなかったのだろう。こうして陳腐さに文句を言いながら、「いっそ九十九里浜でも行こうよ」と切り出せなかった、自分のダサさに反吐が出る。

“ドキドキする物語”なんて他人に期待してたって起こらない。
自分の物語を生きたいのなら、自分で何かを起こさないといけない。

世の中の「やってはいけない」の理由なんて、大抵「みんなが我慢しているから」だ。
”言うことをちゃんと聞いていた”のに!と、人のせいにしてキレるのは、お門違いだ。

逸脱できない責任は、全て自分にあるのだとしたら?
本当は、どこまででも行っていいのだとしたら?
誰もやったことないことをしてもいいのだとしたら?

「自分に許すこと」を常に増やせる人でありたいと思う。
「自分に許すこと」は「他人に許すこと」であり、それは人への寛容さになる。

だから私は、今よりも、もっともっと、遠くへ行きたい。
なるべく好きな仕事をして、大学院に行って、ミスiDにでて、服を作って、文章を書く。
”許されてないこと”はないのだと、日々思う。
今行けない場所に、行く準備をしている自分でありたい。


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