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【発売記念 無料公開!】『崖っぷちだったアメリカ任天堂を復活させた男』 序章「岩田聡氏との別れ」①

DS, Wii, Switch…
岩田聡氏と二人三脚で進めた任天堂の世界戦略の舞台裏とは

ニンテンドーDSやWii、Nintendo Switchを世界市場に送り出した、元アメリカ任天堂社長の著書『崖っぷちだったアメリカ任天堂を復活させた男』

著者レジー・フィサメィ氏がアメリカ任天堂に入社した頃は、「PlayStation 2」が世界を席巻しており、任天堂は「ニンテンドー ゲームキューブ」の売り上げで苦戦を強いられていました。その逆境に、どのように立ち向かったのか。

任天堂をはじめ、P&Gやペプシコ、ピザハットなど、著者が35年間のキャリアで学んだビジネス哲学が1冊に詰まっており、全ビジネスパーソン必見の内容です。また、任天堂元代表の故岩田聡さんや現代表の宮本茂さんとの交流秘話も満載で、ゲーム好きの方にもお楽しみいただけます。

こちらでは、任天堂元社長である故・岩田聡氏との知られざる秘話をつづった、序章「岩田聡氏との別れ」を期間限定で無料公開します。


これまでで最も辛い旅だった。半年間で3度目の旅だったからではない。台風の接近によって、旅の間ずっと飛行機が激しく揺れていたからでもない。
最も辛い旅になった理由は、私の上司でありメンターであり、友人であった任天堂のグローバル・プレジデント、岩田 聡氏の葬儀のために京都に行くことになったからだ。
実際、飛行機に乗っていて最も辛かったのは、亡くなった友人に会いに行くのだとわかっていたことだ。
こうした悲しい旅に心の準備などまったくできていない。せいぜい葬儀の慣習を学んでおくくらいだ。遺骨の見えるところに行き、香をつまんで額に掲げるやり方とか。しかも私は周囲から好奇の目で見られることだろう。他に肌の黒いアメリカ人がいるとは思えないし、NOAの社長として、私は常に注目を集めていた。


「私のガンが再発したんだよ」

最後に岩田氏に会ったのは、わずか数カ月前の2015年3月だった。彼から日本に戻ってきてくれというメールが届いた。ちょうど私の誕生日間近の頃だ。どうも何かおかしい。私は1月に日本に行ったばかりだ。例年通りなら1週間の滞在を年2回行い、その間に会社の経営陣とビジネス戦略と次の製品について話し合う。すぐに呼び戻されるのは、まったく異例のことだった。
この3月の予期せぬ旅について、私は岩田氏にもう少し詳しい理由を聞いたが、彼の返事は曖昧だった。彼が私に訪ねてきてほしいと言った日は、妻のステイシーと祝う私の誕生日とぶつかってしまうのだが、それを言ったところで聞く耳を持たないだろう。3日間だけ特別に京都に来てほしいと言って聞かなかった。
午前8時半に来てほしいというのも変だ。彼はいつも9時に仕事を始めるのだが、それより前に会うとなると、任天堂株式会社の本社に入るのは少し難しい。ガラスとコンクリートの外面に覆われ、大理石の入り口がある本社ビルは、冷ややかで無機質に感じられる。

特に私が到着した早い時間はそうだ。日本の会社はどこもそうだが、任天堂もほとんどの社員に対して厳密な勤務時間を課している。仕事の始まりを告げるチャイムが鳴り、ランチ休憩の始まりと終わりを告げる際も鳴る。だが仕事の終わりを告げるチャイムは聞いた記憶がない。スタッフに帰宅するよう促す必要はないと、会社は考えているのかもしれない。
幸い、岩田氏のアシスタントが早めにオフィスに到着して私を待っていて、扉を開け、エレベーターに案内してくれた。7階の重役エリアに行くには、専用のエレベーターしか使えず、早朝の時間はカードキーが必要だった。
私は小さな会議室に案内された。小さいといっても滞在中に私が使用するオフィスの2倍の広さはあるだろう。私はコートを脱いでWi-Fiシステムにログインした。任天堂はセキュリティが厳重だから、重役の私でも、訪れるたびにログインとパスワードの紙をもらう。私はいつも早めに着いたら、最初のミーティングを始める前に、ちゃんとWi-Fiに接続しているかを確認することにしている。

8時半ぴったりに岩田氏のアシスタントが来て、彼の部屋に通された。このとき岩田氏は社長の在任期間が10年を優に超えていたが、先代の3人が使っていた正式な大きな社長室に移ることはなかった。彼が好んだのは、12人を収容できるくらいの長方形の会議室の上座に机が置かれた、もっとシンプルな部屋だ。他にもプレゼンテーションや開発中のビデオゲームを見たりするために、2台の大きなテレビスクリーンが置かれ、キャビネットは本やビデオゲーム、ゲームのアクセサリーやコントローラーであふれている。会社の社長室というよりは、ゲームクリエイターの部屋と言ったほうがいい。
いつもの挨拶を済ませて、岩田氏から座るように言われて、私は彼の顔をじっと見つめた。それから彼はなぜ今回の出張にこだわったのかを話した。「レジー」と彼は切り出した。

「私のガンが再発したんだよ」


私はショックだった。確かに岩田氏は前回の手術と病気との闘いで体重が落ちていたものの、変わらず精力的だった。ほんの数日前、彼は任天堂がモバイルゲーム市場に参入するための大々的な投資を発表したばかりだ。ここまでの状況からいっても、彼がガンに打ち勝ったことが窺えた。そういうことだったのか。直接話すために私を京都に特別に呼び戻したのだと知り、不安を募らせた私は、彼の話す一言ひとことに集中して耳を傾けた。
私たちは彼の病状や今後の治療についてしばらく語り合った。岩田氏はこれから試そうという先端医療について詳しく話してくれた。ハイテク治療の他にも、奥さんが食事の足しにと特製のジュースとプロテインの飲み物を、朝と昼に作ってくれるそうだ。治療の助けになるのなら、どんな小さなことでも選択肢に加えたいようだった。

しばらくして会話のトーンは変わり、岩田氏がこう言った。「レジー、病気のことは、私が君に京都に来てほしかった理由の1つにすぎない。今の話もそうだが、他にも話し合いたいことがある。我が社の新システムの発売が迫っているから、これについて、話し合いたい。君に初期バージョンのゲームと、手元の試作品を試してもらって感想を聞きたい。プランニングに取り組まないと。なんせ任天堂の将来を左右するゲーム機だからね」
このように話題を変えるのは、岩田氏にとってはいつものことだ。彼は自分のことよりもビジネスを優先する。きっと彼の中では、自分の個人的な状況を話したのだから、今度はビジネスについて話し合う時間だと割り切れているのだろう。
せっかく私が日本に来たのだからと、私たちは一連のミーティングを開いて、後にNintendo Switch(ニンテンドースイッチ)として知られる、ゲーム機の詳細について話し合った。これらのミーティングはすべてビジネス関連だが、岩田氏と2人でランチを取ったり、夜遅くにミーティングが終わってホテルに戻ったりする際は、友人である彼の病気のことが私の脳裏をよぎるのだった。

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