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第7回「肥満が教えてくれたこと、そしてやってきた家宅捜索」

 前回は私が個人売春で出会ったキショいおじさん達の話をしました。書こうと思えばもっといくらでも書けるのですが、でも、まだ読みたいです? いまはSNSで風俗店で痛客・キモ客話などいくらでもあるし、それより話を進めたほうがいいと思ったから、とりあえず進めますね。

 私が個人売春をやっていた期間は人生で2回あり、第1期はたしか25歳前後、第2期は31歳の頃です。1期を始めた頃はすぐバイト先の上司と2人で住むことになったのを覚えてます。しばらくバイトとかけもちでアポを入れて稼いでいましたが、命の危険を感じる出来事があってそれほど長くは続けられませんでした。せいぜい半年くらいだったと思います。それだけでもストレスと恐怖がすごかったのに、生活のためにやめるにやめられない女性の苦しみは私などには想像もつきません。たまたま同居によって衣食住が確保され中止することができた私は申し訳ないほどに恵まれていました。
 同居していたこの上司について、彼氏といっていいのか夫といっていいのか私はいまだに分かりません。笑ってしまうような間抜けなエピソードがあります。「戸籍に縛られるのは抵抗があるから、事実婚ということにしよう」と私は提案し、安物の指輪を買って2人でつけていました。
 しかし関係が破綻する間近になって、彼が「事実婚」という言葉をそもそも知らず、それが何かを確認することもなく、自分たちは「婚約」をしているとばかり思っていたことが判明しました。笑い話でしたが、この寒々しいディスコミュニケーションは私たちの関係の象徴でした。同居した3年半の間、私たちはお互いのことを何ひとつ理解せず、すべてが謎に包まれ、ノーを言わず、衝突を避け、何も話し合わず、全てはナアナアでした。
 そのおかげで私は自分が結婚をしていたのかしていなかったのすら、いまだに分からないのです。

 同居した3年半のうちに私は幸運にも正社員職にありつけたのですが、すぐに双極性障害と診断され、休職を経て退職。職をなくしてすぐの私に、彼は他に女ができたことを理由に別れを切り出し、何がどーなってなんなんだか、何もかも分からないうちにドタバタの引っ越し。仕送りも期待できず、生活していけないので、生活保護を受給しはじめます。
 そこからは本当に坂道をころがり落ちるように、どん底まで精神状態が悪化しました。
 今から考えるととても幸運だった出来事があります。それはそのころ精神科系の薬を大量に服用していたことで、大変に食欲が亢進し、風船みたいに体が膨らんだことです。買い物依存にくわえてアルコール依存も併発し(そう、私はまさにあの父親の血をわけた子でした)、むくみと肥満に拍車がかかりました。確か精神病棟に入院したとき、人生最大体重を迎えました。
 太っていた頃の自分の写真を見ますと、コロコロしててこれはこれで愛らしいじゃないか! と感じるのですが、自分以外の誰かがそう思うことはありませんでした。私はそれまで彼氏が途切れたことはなく、一時期は同時に三人と付き合っていたことすらあるのに、あんなにも私をチヤホヤした男たちはいっせいに消え去りました。まさにまたいででも避けていくような扱いを受けました。
 若い女に近づくオッサンはけして「俺がお前を好む理由は若さと美しさで、お前の価値はそれしかない」などと口に出さないし、その本音を匂わすことはありません。
 キミは若いのに頭がいい、感性が鋭い、ユニークだ、素晴らしい感受性だ、独特だ、個性的だ、他の若い女とは全然違う、特別な素晴らしい存在だ……こんなふうにあたかも相手の内面に惚れたような素振りを必ず見せるのです。醜いとされる外見にならなければ、その欺瞞に気づくのがずっと遅くなったかもしれないのですから、本当に僥倖でした。
 供給が断たれたことで、出会った男すべてをといっていいほどすぐに性的に誘惑する私の病的な性依存は、まもなく底つきを迎えました。依存症の治癒には底つき体験が必要といわれますが、性依存は男女ともにそれが大変難しいものになっています。神の采配としか思えないような偶然で私はそのきっかけをみずから皮下に貯め込んでいたのですね。
 アメリカの女優、コメディアンで脚本家のティナ・フェイが自伝の中でこんなことを言っていました。「太ったら男が冷たくなったから、男が嫌いになった。やせたら男が優しくなったから、もっと男が嫌いになった」
 私はいまは健康的な体重に戻っているのですが、そのとたん彼らの再びのてのひら返しを日々目の当たりにしており、彼女の言葉の意味がよく分かりました。

 そして私が人生でいちばん人のサポートを必要としていた闘病中、親すら私の体型を公然となじりました。
 実家に帰省すると、母は「女子プロレスラーみたいな背中」と言いました。さらに彼女は、私の着替えをのぞき見た父が「聡子もクビレがなくなってきたな」とつぶやいていたと、メッセンジャーのように私の耳に入れるという、2人タッグのような性的虐待のコンビネーションを見せてくれました。
 ようやく長い長い夢から醒めるときが私にもやってきました。親は私を愛している、という甘い幻想の夢からです。それは単なる願望であり、そして、洗脳でした。
 かわいいうちはチヤホヤして、そうでないときはポイ捨て、私の両親は女性蔑視のキモいオッサンたちと変わりませんでした。無条件の愛でなく、条件つきの愛。
 現実と向き合うときが来たのです。苦しくつらい闘病生活、親は私を支えてくれるどころか、逆でした。悲惨な幼少期がなければ発病することもなかったかもしれないのに。
 親は私を愛していない、親は私を愛していない、親は私を愛していない……それが事実だと、だからこそいまの苦しみがあるのだと、頭では分かっているのに、それでも執着してしまう自分がいました。私を虐待した自覚もなく、母はそれでもまだ電話をかけてきて、食べ物とおこづかいを送ったからねと、私に甘え、媚びつづけました。
 洗脳から覚めはしたけど、それでは次にどうすればいいのか、打つ一手が見つかりませんでした。

 31歳。
 リボ払いの残高が、年齢かける万に達しました。
 生活保護受給者に払える金額ではありません。
 間違ってうっかり督促電話に出てしまったので、言いました。
「来月中に全て払います」
 督促部署のおじさんは、「豊川さん、そろそろ現実見てください。生活保護でどう払えるんですか」
「売春で稼ぎますから大丈夫です」
「そうですか、では払込票の送付ですが、……」
 話しているとき、実はすでに客との仕事を終えたばかりの事後でした。
 私は有言実行をしました。8月だったと思います。相場の下落にくわえ、太って年をとっていたので、すっぽかしに遭いやすくなったり、姿を見て帰られたり、客を取るのは前より大変でした。使えなくなった楽天カードにハサミを入れて捨てました。買い物依存の底つき体験もようやっとここからはじまりです。
 そして翌年の春、自宅の呼び鈴が鳴りました。「江別警察署から来ました」と男の警察官が名乗り、私はまったく何が起こっているのかもわからないまま、ドアをあけたのです。
 

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