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第4回「母は私をレイプした。それでも私たちは双生児だ」

 私が小学生の頃、電子手帳が流行し、子ども向けおもちゃにも、キャラクターもののかわいい電子手帳がラインナップされていました。クリスマスプレゼントとして、広告を指さして、ありったけの勇気を出して「ほしい」と小さくつぶやくと、母は爆笑しました。

「ウソでしょう?! さっちゃんが?! こんなの欲しがるなんて、まるで子どもみたいじゃない!!」

 私は母におねだりをしなくなりました。このたったひとことに傷つけられたというより、こういう言葉が出てくる背景や、親子の関係性に問題があったということを強調しておかなければならないですね。母には、私が年に見合わない大人びた子どもであることが自慢だったのでしょう。
 いつも人に気を使い、大人のような物腰でふるまうから、大人たちは私を精神年齢の高い成熟した子とばかり思い込み、私自身も長年そう錯覚していました。でも実際は、子どもらしいのびのびとした子ども時代を奪われたせいで、私の時間はそこで止まってしまっていました。
 そして、母もまた、まさにそのような子どもでした。

 支配的な母(私の祖母)への恐怖心から、母はノーをノーと言えないまま、体だけ大人になった子どもでした。結婚は無理やりのお見合いで、母から百回も聞かされたことですが、「お医者様との縁談!」と祖母はポーッとのぼせあがり、新婚時代はまるで自分が妻であるがごとく、毎週のように家にあがりこんできたとのことです。
 母は人との距離感がおかしいので、対人関係もすぐにくっついたり離れたり、気ごころの知れた生涯の友人はひとりもいません。一家が山奥の元炭鉱町に引っ越し、地縁が断たれたあとは特に私への依存が激しくなりました。気が遠くなるような長い長い時間にわたってのグチ聞き。私と母は同一化していきました。母が選んだ服を着て、母と同じガードルをはかされ、中年向けの基礎化粧品をつけさせられました。「一卵性母娘」という言葉が流行しましたが、私たちはまさにそれでした。母は専業主婦でしたから、私が不登校になるとなおさら過ごす時間は長くなり、母からの影響は強くなりました。
 13歳の私をグルーミングした20代の彼氏は母公認のつきあいでした。健全交際だと思われていたのです。彼女は「ねえ、Iさんと劇団四季のキャッツ見に行かない? チケット買ってあげるから」と私に言ってきて、伝え聞いた彼氏も当惑していました。
 投影です。母は自分がもし私の身分だったら、若い彼氏とミュージカルデートをしたかっただけなのです。驚いたことに、あんなにも憎み合った祖母と母は同じような行動を取っていました。

 子ども時代に物事を感じるままに感じることを許されないと、人間は監視の目を内面化します。「そんなことを考えるのはいけない」「そう思うのは罪だ、そうでなくこう思うべきだ」すると親もだれも見ていないのに、心の声が自分を叱責し、親の言いつけに背くことができなくなります。この内面化された規範意識を、フロイトは超自我(スーパーエゴ)と呼びました。超自我が強すぎると、ありのままの自分の感性を自分で否定し、自己虐待ともいえる思考をするような、非常に病的な精神生活になります。
 母は思春期の私がオナニーをしないか監視するようになりました。直接言葉にすることはありません。ノックをせずに突然にお風呂に入ってきたり、寝る前に部屋に入ってきたり、抜き打ちテストのようなことをやって、それは親への裏切りであるとそれとなく表現したのです。
 私の精神は壊れました。今でもはっきり、あれは性的虐待だと思っています。性は人間のもっとも根源的なプライベート領域であり、尊厳と分かちがたく結びついています。罪悪感を植えつけ、性をコントロールしようとすると、人はいとも簡単に心を病みます。ひょっとするとあれは私にとって、性器に性器をねじこむレイプよりもよほどむごたらしい「魂の殺人」だったかもしれません。
 私は大変な悪夢にうなされるようになりました。18歳で家を出てからも10年以上にわたってそれは続きました。家族会議でその行為をばらされてつるし上げに遭う夢は、そんなことになったらとても生きてはいけないとしか思えない、最悪の地獄でした。夢の中で母に犯されることもありました。裸の母が勝手に風呂に入ってきたり、ベッドの中に入ってくるのです。
 自分でもいまだに信じられないのですが、父が私に性的視線を向け、欲情しているむねのつぶやきを聞いたことを、メッセンジャーのように母が私に伝えることもしばしばありました。いったいなぜ? 嫉妬や不安の感情を自分で処理できなかったのでしょうか?
 私は25歳で双極性障害と診断されましたが、その前からずっと限界でした。母も父も私の精神疾患をかたくなに認めませんでした。希死念慮に悩む私に父は「死にたきゃ死ね」と吐き捨てました。彼らは幼児ですから、自分たちは気づかわれ世話される側であると信じてうたがわず、また、人を思いやる方法すら知りません。勉強でつまずいて落ちこぼれたように、精神の発達段階でつまずいたまま老いた人々なのです。
 私が30歳を過ぎて、母はわたしたち兄妹の前であっけらかんと「私は子育て失敗したから」と言い放ちました。失敗作たちは黙っていました。還暦を過ぎても、彼女の自己イメージは天真爛漫な幼女であり、私は彼女の不安で傷ついた心をなぐさめ保護するべき聖母、機械じかけの全肯定マシンでしかないのです。
 支配するかしないかの人間関係しか知らない母が支配できたのがこの世でたったひとり私だけでした。大人と子どもの違いとはいったい何でしょうか? 私でしたらそれはノーと言えること、ウソをつかないことを挙げます。他人に迎合し、嫌いな人を好きなふりをしたり、関心がないのに関心があるふりをするのはウソつきです。
 ひたすら人の顔色をうかがい続けた彼女の人生はウソまみれで、人にノーといえません。言いたいことをズケズケと言えるのは私相手だけです。
 母は私をドラえもんに出てくるコピーロボットのように育てました。そんな私もまた、自分にも他人にもウソをつき続けた、ウソまみれの詐欺師のような人生を送りました。
 自分が「こうあるべきだ、こう感じるべきだ」と押しつけられて育ったからと、人にもそれを強制する暴君でした。そんな地獄から這い上がってこれたのは、いくつもの天の采配に恵まれた奇跡のような話です。私にとって親とは神に等しかった。でも、神に反逆して勝利したのです。

 あんなにも母を憎んだあと、私はついに気づきました。私と母は違うところなど何もない。二人とも、子宮を探しもとめて夜の野外を這いずり回る胎児のような、絶対的な孤独のなかにいました。そういう意味で、私たち二人はたしかに魂の双生児でした。
 母を苦しめた祖母が死んだあと、電話で晴れがましく言われました。

「そういえばね、バアさん死んだのよ! 葬式にも行かなかったわあ!」

 私と母に唯一違いがあるとすれば、私はけっして、けっして、実の母親の死を喜ぶことはないだろうという点だけでしょうか。
 ママに会いたい。そう思って涙が出る日すらあります。でも会ったらまた支配されてしまうのが怖くて、こんなにも大好きなママに私はまだ再会できていないのです。
 

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