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クラブ活動が音楽の多様性を奪ってしまうワケ ~ 個人と相反する"全体主義リアリズム"

どうも、作曲家のトイドラです。

僕は音楽がとても好きです。
だからこそ、どんなジャンルの音楽でもみな等しく価値があるというのを信条にしています。
ただ、作曲家という視点で音楽を考えたとき、聞くとどうしても苦々しい気持ちになってしまう音楽があります。
例えば……

こういった音楽たちです。
先に言っておくと、これらの曲を演奏している方、動画を投稿している方、どちらも僕は素晴らしいと思います
手間暇をかけて活動を発信している奏者さん・投稿者の方々はみんなすごいです。マジで。

ただ、
「J-popを吹奏楽(合唱、オケ、筝曲、etc)でアレンジして演奏することに、一体何の意味があるのか?」
という話題は、SNSでもしばしば槍玉に上がっています。
ここには、音楽の「鑑賞者」と「演奏者」という2つの相異なる視点が絡み合って関係しています。
今回は、ここから "全体主義リアリズム" という考え方を導き出し、なんとか胸のスッキリする話にまとめてみよう(?)と思います。

「吹奏楽アレンジ」を聞きたがるのは誰なのか

僕は、中学から大学にかけて7年間、吹奏楽部で音楽をやっていました。
吹奏楽というのは、大変ポピュラーでそこそこ歴史もある編成です。
オリジナルの名曲もたくさんあります。

さて、しかし吹奏楽部で演奏する曲は、こういった吹奏楽オリジナルだけではありません。
ポップスやクラシック音楽の吹奏楽アレンジ版もまた、吹奏楽の世界では人気なのです。
僕の世代はジャニーズの全盛期でしたから、女子部員たちの希望で嵐メドレーとか数えきれないほど演奏しました。

しかし、ここで当時からずっと気になっていたことがあります。
「嵐の吹奏楽アレンジを聞きたがるのは、いったい誰なんだろう?
ということです。
というのも、ハッキリ言って、吹奏楽アレンジされたJ-popは原曲よりもダサい

嵐が好きな人は、わざわざ吹奏楽アレンジなど聞かず、普通に原曲を聞くでしょう。
はたまた、吹奏楽マニアの人は逆にアレンジものなんて聞かず、吹奏楽オリジナルの名曲を聴くでしょう。
吹奏楽版の嵐を聞きたい人なんているんでしょうか。

……なんて言うと、
「いやいや、私は吹奏楽アレンジ聞くの好きだけど!」

という方が出てくるかもしれません。
僕は確信していますが、そういう方は今吹奏楽をやっているか、過去に吹奏楽をやったことがある方のどちらかではないでしょうか?
つまり、このようなアレンジものは、聞き手ではなく演奏する人のために作られていると思うのです。

この話を進めるためには、音楽における「演奏者」という難しい視点と向き合わなければなりません。
そもそもアートは、一般的に「鑑賞者」と「作り手」の2つが関わってできるものです。
しかし音楽では、「作り手」の部分がさらに「作曲者」と「演奏者」の2つに細かく分かれます
この「作曲者と演奏者」という2つの作り手視点が、この話題をどうにも複雑なものにしているようです。

編成を変えることの音楽的な意味

まず初めに弁解しておくと、僕は「アレンジもの=悪」と言いたいわけではありません
例えば吹奏楽の定番「宝島」は、T-SQUAREの原曲と違った雰囲気が出ていて好きですし、

合唱曲の「心の瞳」も、元から合唱曲だったのではないかと思うような素晴らしさ。
原曲は坂本九の歌謡曲なんですけどね。

また、「展覧会の絵」は元はピアノ曲ですが、ラヴェルによるオケ編曲の素晴らしさは言うに及ばず。

こうした「良いアレンジ」は、アレンジによって原曲とはちがった魅力をゲットしています。

音楽のための編成 vs. 編成のための音楽

ただ、さっき挙げたようなアレンジものは、単に「編成が変わった」という以外にゲットしたものはあるんでしょうか。
むしろ、音楽的には失っているものの方が目立ちます。
「アイドル」の吹奏楽版では、冒頭のラップ部分が再現できないので無理やりなメロディラインに変更されているし、

「夜に駆ける」の合唱版では、メロディが歌謡曲風のシャクリやコブシを効かせられないため、全体的にのっぺりした印象になっています。

つまり、これらのアレンジは単に「編成を変える」ということ自体が目的の全てになっていると言えます。
このこと自体は、趣味的な視点からは特に批判できないでしょう。
吹奏楽をやっている人なら誰だって、自分の好きな曲が吹奏楽版にアレンジされていたら嬉しいものです。

ただその感覚は、きわめて「演奏者」視点に偏っていることを忘れてはいけません。
より正確に言えば、音楽の「楽器編成」に偏っているとも言えます。

例えば、世の中にはいろんな音楽のオルゴールアレンジが大量に存在します。

これらのアレンジは、原曲と比べて音楽的な要素をかなり失っています
多様な音色やダイナミクス、オーケストレーションによる重厚な表現など、全て失ったうえで「オルゴールアレンジ」という座にちんまり収まっているわけです。
つまり、これらのアレンジは「音楽のために楽器編成を選ぶ」というのとは逆の順、つまり
「楽器編成のために音楽を作る」
という順で作られています。
そして、上の2つのアレンジが両方とも安眠のためのBGMとして作られていることからもわかる通り、こうした楽器編成に偏った音楽は、かならず実用音楽・機会音楽になってしまいます。

機会音楽の価値

このような考え方で、改めて冒頭紹介したようなアレンジ曲を見直してみましょう。
確かに、少なくとも機会音楽としての実用的な価値はあることが分かります。
定期演奏会に向けてみんなで楽しく演奏するためには、このようなアレンジ作品はあつらえ向き。
それに、実用音楽だからといって全てが無価値だとは言えません
貴族のための実用音楽だったバロック音楽、現代でも未だに高く評価されていますし。

ただ、「編成ありき」で作られた音楽が、「編成の自由」=音楽表現の自由を奪われていることは事実です。

  • 弦楽器で演奏したほうが美しいメロディを、編成の都合でクラリネットに置き換える

  • ポップス的なシャクリのあるメロディを、合唱曲の書式に従って平らにならす

こうした作曲のしかたが「音楽的である」とは流石に言えないでしょう。
同じように、バロック音楽であっても、貴族の好みに合わせて無理やり音を直すことが仮にあったとしたら、同様の批判を免れないと思います。

演奏者は"特殊な聞き手"

ただ、バロック音楽と現代の「編成ありき」音楽とで異なっているのは、バロックはあくまでも「聞き手」側にメインの視点があったということです。

というかそもそも、音楽は誰かが聞くためにあるものです。
そういう意味では、演奏者は本来
「その音楽を誰かに聞かせるための存在
のはずです。

しかし、現在の「編成ありき」音楽ではガッツリ演奏者が主役になっています。
こういう構造は、特に学校などのクラブ活動で顕著です。
演奏者として活動に参加し、楽しく青春を送ったり、様々な体験を得たり。
こうしたアクティビティ自体は素晴らしいですが、クラブ活動ではなく「音楽」という視点に立った場合、この構造はわりかし奇妙であることを自覚したほうが良いと思います。

演奏者は、いわば "特殊な聞き手" です。
つまり、演奏者も自分たちが演奏する音楽を聞いているという意味では一応「聞き手」なのです。
ただ、演奏者は純粋な「聞き手」とは違い、自分たちの演奏する音楽に並々ならぬ思い入れを持っています

カラオケに行くことを想像してください。
みんな自分の大好きな歌を、感情たっぷりに歌っています。
果たしてそのとき、
「自分の歌には原曲とは違った魅力が加わっている!
などと大それたことを思うでしょうか。
どちらかというと、みんなが好きなのは「歌を歌っている自分」ではなくて「自分が歌っている歌」の方、「自分が好きな歌を好きに歌う」という行為そのものでしょう。

同じように、「演奏者」たちは「自分たちが演奏している曲」「演奏」という行為そのものがとても好きです。
そのせいで、「曲を演奏している自分たち」の見え方がどうしても偏ってしまいます。
「そんな曲演奏する意味ある?」と言われれば、音楽的な話をするまでもなく
「オレたちはそれを楽しんでいるのに!」
と感情的になってしまう。

好んで演奏されるタイプの音楽について考えるとき、このような「演奏者」の難しい特性はどうしても無視できません。

「社会主義リアリズム」の過ち

「演奏者」視点で音楽を考える場合、どうしてもあらかじめ1つの正解が決定されてしまいます。
つまり、
「オレたちは、この楽器編成で演奏するのが楽しい!」
という価値観が正解ということになります。
これは当たり前の話です。
だからこそ、例えば合唱クラブの人が邦ロックをやろうと思った場合、
「今からギターとベースとドラムを練習して、シャウトが出せるボーカルを探そう!
ではなく、
合唱曲アレンジ版を買おう!」
となるわけです。

逆に言えば、いきなりギターやベースを練習し始める合唱部員は
「お前ら軽音楽部へ行け!」
と追い出されることでしょう。
いきなりバンドを編成し始めることは、音楽的には間違いではないものの、合唱部の価値観で言えば間違いです。
これこそが「編成ありき」の音楽で起こることであり、平たく言えば
「音楽の多様性がなくなる」
ということになります。

さて、このように考える中で、僕は1つのことを思いました。
「この話、なんか社会主義リアリズムの顛末に似てるな~」
というものです。

社会主義リアリズムとは、旧ソ連を中心とした社会主義国家で起こった音楽的なムーブメント
どういうものかというと……

社会主義を称賛し、革命国家が勝利に向かって進んでいる現状を平易に描き、人民を思想的に固め革命意識を持たせるべく教育する目的を持った芸術

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

・・・。
現代の価値観で言ったら意味不明で冗談にしか見えませんが、当時は国家が公式に社会主義リアリズムを主導していました。
つまり、「どういう音楽が正解か」を国が定めていたということです。

すると、こういうことが起こります。
この曲はちゃんと社会主義を礼賛していて"正解"なのでお墨付きをもらう。

この曲はずっと暗くて憂鬱なので"不正解"、大バッシングを食らい演奏禁止になります。

今考えると本当にアホみたいですね。
そもそも、社会主義"リアリズム"とか言っていますが、

革命国家が勝利に向かって進んでいる現状

のどこがリアルなのでしょうか。
ご存じの通り、革命国家・ソ連は勝利に向かうどころか1991年に解体され、消滅してしまいます。

現代に息づく「全体主義リアリズム」

今の話をまとめると、このようになります。

  1. ソ連が「社会主義リアリズム」にのっとり芸術の正解・不正解を定める。

  2. 正解の作品しか世に出なくなる

  3. 作品の多様性が失われ、文化が衰退

ちなみに、現代でも未だに社会主義リアリズムをやっている北朝鮮という国では、今もこんなポップスが生み出されています。

パッと聞いただけで「何か古臭いなあ」と思いますし、それより問題なのは、他の曲を聞いても大体似たような曲しかないということです。
北朝鮮の音楽文化は、とうてい豊かとは言えないものになっていますね。

さて、これと同じような構造が、現代日本のクラブ活動にも存在しているのではないでしょうか。
つまりこういうことです。

  1. クラブ活動(部活やサークル、市民楽団など)が、「演奏者」の視点で音楽をやるに従い、「この楽器編成で演奏するのは楽しい!」という価値観に固まっていく。

  2. 「楽器編成ありき」の音楽が好まれるようになり、相対的に音楽性が軽視される。

  3. 作品の多様性が失われ、文化が衰退

「社会主義リアリズム」と対比させて書いたせいで、何だかクラブ活動を社会悪よばわりしてるみたいな書き方になってしまいました。
誤解なきように、僕は別にクラブ活動が悪いとは思っていません
そもそも、上に書いたような構図は社会主義リアリズムとはスケール感がかなり異なっています。
国家単位のデカい規模ではなく、あくまで小さなクラブが単位ですからね。

というわけで、この構図を社会主義リアリズムに倣って「全体主義リアリズム」と名付けてみます。
ここで言う"全体主義"は、「個人よりもクラブ全体の価値観に偏ってしまう」という意味で、政治用語の"全体主義"とはちょっとニュアンスが違います。

社会主義リアリズムは今や過去のものとなり、現代は「個人主義」の時代です。
多様性を大切に、色んな価値観を尊重し、この世界を生きていこう・・・
・・・などと言うのは簡単ですが、実際のところ個人主義を貫くのも大変です。
何が正解か分からず、仲間を見つけるのも一苦労ですから。
そういうわけで、けっきょく今になっても「全体主義リアリズム」というスケール小さめに閉じた文化が、人々の心のよりどころになっているのです。

そもそも、社会主義リアリズムの音楽には一定の人気があります
有名なショスタコーヴィチの交響曲には熱狂的なファンがいますし、先ほど挙げたような北朝鮮のポップスにもファンがかなりいます。
あのような音楽は、確かに感情表現が明快だし、スカッとするようなカッコよさ抜けるようなエクスタシーがあることは否めません。
だからこそ、同じく分かりやすい「全体主義リアリズム」的な音楽にも、一定のファンがいることは理解できます。
ただ、だからこそ特に演奏者の方々には、
「自分たちは、音楽的にはかなり変わった立場にいる」
ということを積極的に意識してほしいなと思います。

平均化される音楽文化

さて、最後に1つだけ問題提起をして、この文章は終わりにします。

ここまで、ずっと「アレンジもの」の音楽を題材に話を進めてきました。
楽器編成ありきで作られたアレンジは、演奏者目線では楽しいものの、聞き手目線での魅力は薄い……
そういう話です。

ところが最近は、この話がアレンジではないオリジナル作品にも言えるようになっています
つまり、初めからアイドルソングやJ-popのような曲を吹奏楽(合唱、オケ、筝曲、etc)のオリジナルとして作曲し、売り出している例が目立つのです。

ここでは、記事を読んでいる方々に配慮して具体的な曲例は出しません
しかし、このような事態はとても悲しいことです。
この流れが進めば、音楽はポップで分かりやすい方向に平均化され、楽器編成以外の内容的な差がなくなってしまうかもしれません。

それぞれの音楽ジャンルには、使う楽器や音楽の構造、音の鳴らし方の習慣、思想の違いなどによって、さまざまな内容の違いがあります。
クラブ活動でみんなが気軽に音楽に触れられるのはいいことです。
ですが、表面的な部分だけではなく、あくまで内面にまで歩を進められるといいですね。

▽▽▽トイドラの「音楽ガチ分析チャンネル」▽▽▽

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