【小説】雪虫の幻想

ある寂れたクリスマスの夜、ネオン街の裏路地を一人の男が歩いていた。ポケットに手を突っ込んで俯きがちに歩く彼は、行き詰まった三叉路に差し掛かった折、はたとその足早な歩調を止めて顔を上げた。視線の先には、全身から薄ぼんやりとした光明を放つ異形の存在があった。分厚く着込まれた深紅の司祭服に、ストッキング帽から溢れ出した豊満な髭は頬骨以下を覆い尽くし、白銀。羆のように膨れ上がった異様な体躯に3畳ほどの巨大な頭陀袋を担ぎ上げ、汗ひとつかかず、深い皺の刻まれた瞼の奥に薄明のような眼光をぬらぬらと輝かせていた。その存在の名は"Santa Claus"。クリスマスの夜に現象する無垢の証人、サンタ・クロースの存在がそこにはあった。
「サンタ…………サンタさんだ、サンタのおじさんだ、あんた」
「サンタさん、ですか……。あなた、既に三十歳を回りますでしょう」
「サンタさぁん、やっとぼくのところに来てくれたんだ…………やっと来てくれたんだねぇ」
「あなた、子供に返った振りをするのは止めませんか……。ここは薄汚い路地裏、痩せた老猫しか居りませんので」
男はサンタと睨み合った。しんと静まり返った街は海底のように冷たく、鯨の吐息のような空気の中で野鳥がほうと鳴いた。
「──おれの実家は石川だ。寒くて雪の多い地域なんだ。両親の仲は必ずしも良くなかったが、おれはそれでも構やしなかった。親父はお袋をぶっ叩いた夜、必ず寝床にお袋を連れ込んでいた。それを見て俺は一人慰めたものさ。──ある時はお袋がヒスを起こして、部屋中が皿の破片まみれになったこともあった。だけどお袋の飯はうまかった。また食べたいなあ。おれはさんが焼きが好きなんだ。酒なんて要らない。飯があれば。子供の頃から好きだったのさ、さんが焼き。──正月になると、親父の知り合いがどかどかと押し寄せてきて、怖かった。おれがいっぱしの男になったら、きさまら煩いぞ、と一言怒鳴って、それから逃げてやろうとずっと思っていた……でもその日はついに来なかった。もうじき正月がやって来る。今宵も寒いし、明日も寒い…………あの日と同じように。お前は、」
男はひとしきり捲し立てると、ぎょろりとした眼をサンタに向けて絞り出すように言った。
「お前は、どうしてここに居るんだい?」
「…………クリスマスの夜の街に、サンタ・クロースは不似合いですかな」
「今更、どうしておれの前に現れた。おれがどんなに願っても、きさまついに一度も来なかったろう」
「子供たちは世界中に居ります。良い子にはプレゼントを、悪い子には罰を、というのは精々大人たちの他愛もない嘯きですよ。実際、悪い子らには石炭をやっております。石炭を貰った子らが喜ばないと、何故言えましょう。──私には、あまり暇がないのです」
「でもお前、今ここに居るじゃないか。昔は居なかったのに、今ここに……こんな荒みきった、子供も希望もない街に…………。ねぇサンタさん、どうして今更ぼくの前に来たんだよう…………」
「子供たちには、親が居ります。だが、あなたに親は居りませんので」
「何だと……親父もお袋も一度だってプレゼントをくれたことなんかなかった! あいつらまだピンピンしてやがる石川で……雪に埋まったボロ屋で屋根軋ませて、今夜もセックスしてやがんだよう!」
男は口を泡まみれにして、叫び声を上げた。その口角は張り詰め、瞳は輝き、笑っているようにも泣いているようにも見えた。
「子供たちは、それでも私を見ることができますよ。私はどこにでも居ります……。今あなたの前に居りますように、どこにでも」
「──8歳の冬、仲良しのバマやんが目え輝かして写真を見せてきた。サンタさんの、橇の写真さ。吹き付ける雪の向こうにぼんやりと、トナカイと橇。バマやんそりゃ喜んでいて、やっぱりサンタさん居るんだ、鈴の音を聞いた、って────だがあんた、おれにはプレゼントをくれなかったね。おれの前には、ただの一度だって現れなかった」
「…………居りましたよ私は。いつもあなたの傍に。プレゼントをやらなかったのは、あなたのご両親でしょう……」
サンタは徐ろに夜空を見上げた。その表情は髭に覆われて虚ろ、真っ直ぐに地を掴んだ両足はぴくりともせず、頭陀袋の中身は今にも蠢いて男に襲いかかるかに見えた。
「うちの宗派は日蓮宗なのさ。仏教徒にクリスマスは要らないって……」
「私はあなたの傍に居りました。いつでもあなたがそう望んだからだ。…………私は、人の法に縛られる存在ではありません。あなたには今、私が何に見えているのですか」
サンタの表情は全く動かず、その彫像のような視線は冷たい路地に流れる時間を止めた。やがて、男は恐れをなした。彼には、それがサンタ・クロースに見えていたのだ。しかし、少し見方を変えるだけでそれはどんな異形の存在としても見うると気づいた時、彼は自分自身を気遣い、それ以上考えるのを止めた。艶かしい微風が枯葉を揺らす。男の頬を汗が伝う。
「おれは…………おれはお前を待っていた。奇妙な冬の夜、不似合いな闖入者が絢爛な小包を抱えて窓をノックするのを、おれは一晩中待っていた」
「あなたは私を見たのですね? 寒さに凍えながら福音を待った長い夜、零時の鐘と共にあなたは鈴の音を聞いたのではないですか?」
「聞いた。おれが布団に包まって一人で震えていた夜、おまえはいつも傍に居た」
「今も、居りますよ」
サンタはにこりともせず、しかし視線を逸らすこともない。眼前に光り輝くその存在を前に、男はついに緊張を解き、諦めに満ちた微笑みを浮かべた。
「でも、駄目なんだ。今更お前に気づいても。おれの救いは、今となってはもうお前しかない。床に就いた親父とお袋の残り香を、おれはあの冷え切った聖夜に置き去りにしちまったんだ。今のおれには何も無い。取り返しがつかないんだよ。だから、おれはおまえに心臓を捧げるしかない──」
男が空を仰いだ時、そこはもはや冷たい路地ではなかった。雪の深々と降り積もる夜、暖かな石油ストーブの匂い。卓袱台を囲んだ家族と、さんが焼きの鄙びた香り。寝巻きの袖を捲り、箸を持った少年は、この虚像の夜に何を想うのか。
「もう今更なのさ。────これは、現実じゃない」

年の瀬も迫る街の喧騒を背に、サンタ・クロースは今日も走る。鈴の音を響かせてトナカイを駆る深紅の使い魔は、深夜零時の日本上空に辿り着くや否や、担ぎ上げた巨大な頭陀袋を眼下の土地に放り投げた。それは奇妙なうねりと共に軋むような音を発し、刹那空中で破裂した。中には大量の雪虫。漣のように空気を震わせ、羽虫たちは夜の空に大量の蝋状物質を噴霧した。今年も雪虫が大発生するのだろう。煙草のように妖しげな空気を燻らせて、雪虫は今夜もサンタ・クロースの幻影を視せるのだろうか。空高く、成層圏をひた走るサンタとその使徒たちは、今宵も世界中の子供たちに夢と希望を届けるべく、一閃の輝かしい光を放ったかと思うと、幾重かの光輪を残して何処か遠い場所へと消えてしまった。

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