【小説】異形の味

「どう、美味しいかな?」
恋人が不安そうに俺の顔を覗き込んでくる。
「なるほど……前より美味しくなってるよ。うん、美味しい」
そう言って彼女に微笑みかけるが、作り笑いがバレているようで、彼女はあからさまに不満げな表情を浮かべる。
「え〜嘘つかなくていいよ。どこがダメだったかなぁ」
「いや、いいんだよ俺に合わせてもらわなくても。俺の舌がおかしいんだから……」
「手料理も美味しく食べてもらえないなんて、私悲しくて嫌だよ。改善点ちゃんと教えて」
「えぇ……本当に気にしなくていいんだけどな」
料理を食べるといつもこうだ。他人と意見が合った試しがない。
「まずこの味噌汁、香りが飛んじゃうから沸騰させたらダメだよ。こっちの角煮は、多分圧力鍋で時短したんだろうけど、脂身が少しだけ固く感じるね。化学調味料の味もする。このお浸しは、ほうれん草がちょっとえぐいかな。茹でてから水にさらしてないだろ」
「……相変わらず凄いね。全部お見通しみたい」
「でも本当に、前よりも美味しくなってるから。この調子なら、梓沙もきっと料理人並になれるよ」
「私には無理だよ、優くんみたいに舌が肥えてないもん。そんなに難しいこと考えながら料理食べて楽しいかな?」
彼女が不機嫌そうに皿を片付け出す。いやいいよ、食べるよ、と言ってももう聞いてくれない。俺だって、別に楽しくて料理にケチつけているわけではない。ただ、食べたら自然とそう感じてしまうだけなのだ。俺自身にはどうしようもないのに、彼女は皿を片付けながらどこか責めるような目で俺を見つめる。

次の日、仕事を終えて帰宅しようとすると、同僚に肩を掴まれた。
「おいおい、待てって。今夜は月末恒例、部署飲みだぜ。お前も来いよ」
「え、俺はいいよ。不参加の連絡しただろ」
「いやいや、そういうことじゃなくて……お前さ、ちょいとノリが悪いんじゃないのかい? 正直な話、高田部長にお前連れてこいって命令されてんのよ。お前が全然飲みに来てくれないから、みんなお前と仲良くできなくて寂しがってんだぜ?」
俺だって、同僚とは仲良くしたい。けれど、懇親会をいつも食事とセットでやるから、俺には参加出来ないんじゃないか。前に高田部長と話したとき、自分は他人と食事するのが苦手だと話したはずだ。食事なしで懇親会をやってくれたら参加できると伝えて、部長は検討すると言ってくれたはずなのだが、そのやり取りを覚えてすらいないらしい。

会場は安い大衆居酒屋だ。こういう店は大体お冷に水道水を使っているから、不味くて飲みたくない。ファーストドリンクは烏龍茶だな……などと考えていると、部長に渡されたドリンクメニューには酒しか載っていない。
「すみません、俺酒はちょっと……」
すると高田部長は怪訝そうな顔をして、
「なぁに言ってんだ、電車通勤だろ? 1杯目くらい飲んどけ、なぁ」
と俺の肩を叩く。
「えぇ、でも味が──」
その時、同僚たちが俺を見る目が気になった。俺を無意識のうちに憐れんでいるような、小動物に憐憫をくれているような目だ。俺はその目に嫌気がさして、仕方なく烏龍ハイを頼んだ。
「カンパーイ!」
意を決して飲んだ酒は、鉄と洗剤と有機溶剤の味がしてすごく不味かった。だが、別に飲めないほどではない。この世界で飲み食いされている大抵のものは俺にとって不味いので、俺は不味さに慣れている。

次から次へと料理が運ばれてくるが、俺はそのほとんどを食べない。別に食べてもいいのだが、どうせ不味いのだから好んで食べようと思わない。
「優也くん、遠慮しないで。食べなきゃ勿体ないぜ」
同僚が気を使ってそう言ってくれるが、俺は何も遠慮しているわけではない。
「いや、俺味覚が過敏で食べれるもの少なくてね、お気づかいなく」
「そうかい……なら、美味しいと思うものだけ食べてくれればいいから。注文してもいいぜ」
注文という言葉を聞いた別の同僚が、手際よくメニュー表を回してくる。まるで俺以外の社員がみんな手を組んでいるようだ。どうして、この人たちは意地でも俺に何かを美味しく食わせようとしてくるのだろう。俺は今日ここに食事をしに来たわけじゃないし、この店に俺が美味しいと思うものなどない。俺は何も食べなくてもこの場を楽しめるのに、こいつらはあくまで俺に料理を食わせて、自分たちと同じ土俵で楽しむことを俺に要求し続ける。善意で渡されたメニュー表を手に、俺は何かを注文するしかない。
「え、じゃあ…………だし巻き玉子で」
届いただし巻き玉子は、食えなくはないがやはり美味しくもない。ニュートラルな気持ちで食べ続ける俺に、
「美味しい?」
と聞いてくる同僚たちの顔を眺め、俺はその一択問題に答え続ける他ない。
「うん、美味しいね」

だんだん酒が回って、みんな声が大きくなってきた。かく言う俺も、普段飲まない酒のせいで顔がかなり火照っている。
「ほら、ここの燻製ハム美味いのよ。みんなも1枚食べてみて」
高田部長が皿をみんなに回し、俺はもう断るのが面倒なので大人しく取って食べる。他の人たちは美味いですねなどと言って食べているが、俺は当然そうは思わない。
「これ燻製じゃなくて燻液に漬けてますよ。発色剤の味もする……」
そう呟くと、高田部長が言う。
「ん? いやいや、そうかな? そんなことないと思うけど……」
同僚が今度は鰹のたたきをテーブルに置いた。
「お、来た来た。店内で藁焼きしてるそうだぞ。食え食え」
俺は言われるままにそれを食うが、やはり満足できる味ではない。
「1回焼いてから冷凍してますねこれ。あと藁焼きって言う割にガスの匂いするな……」
今度は部長が明らかに無口になるが、微妙な空気を察知してか、同僚が部長にネギトロ巻きを運んでくる。
「ほら優也くん、良かったら食べなよ」
また部長が差し出してくるので、俺はそれを食べて言った。
「なるほど、植物油脂の味しますね。これ、適当な魚のすり身を色付けしたニセのネギトロですよ」
「いやね、君。なんでそう言い切れるんだい。何か証拠でもあるの?」
証拠も何も、食べれば分かるではないか。そう言おうと思って顔を上げると、場の同僚がみんな見覚えのある顔をしている。さっきと同じ、俺を見下したような憐れみの顔だ。俺は理解した。俺以外の人はみんな同じ、食べても何も分からないのだ。
「せっかくの部署飲みなのにね、俺は君みたいな人と食事しても、正直つまらないよ」
「いや、俺はそもそも食事なんてしたくないって言ったじゃないですか……」
顔が火照って、思ったことがつらつらと口から出ていく。
「優也くん、そうやって何にでも不平を言って、手当り次第全てを嫌うことが自分らしさだと思っているのかい? 君1人が妙なことを言って楽しくなさそうにしてるとね、みんなの空気も悪くなるんだよ」
「いや、俺にだって好きな物はちゃんとありますよ……? 部長が好きな物を偶然俺が嫌いだってだけで、勝手に決めつけないでもらえます? それに俺、確かに料理は不味いけど、つまらないなんて一言も言ってないじゃないですか。俺ちゃんと伝えましたよね、食事なしの懇親会がいいって……」
もはや同僚たちの視線は憐憫ではなく、侮蔑の類へと変わりつつある。
「君ね、そうやってわざわざ難しく考えて何がしたいのよ。一流シェフの料理しか食べませんよってアピール? そりゃ大層なことだけどねえ」
恋人の顔が脳裏を過り、俺は頭を抱える。
「いや、なんで誰も彼も難しいとか何とか…………むしろ、難しいことやってるのはそっちでしょう? 俺の…………俺の、普段の食事知ってます?」
「いや、知らないよ」
部長が俺を見下ろすように言う。数秒の静寂があり、俺は言った。
「蒸した近郊野菜と塩ご飯…………それだけですよ」
しばしの間があり、部長がフッと吹き出した。幾人かの同僚も同時にクスッと笑った。それを切っ掛けに、俺は席を立って椅子や皿を吹き飛ばしながら店の出口に向かって猛進し、そのまま夜の街に紛れた。

歩き疲れ、何十分あるいは何時間経ったのかも分からず、ここがどこかも分からない。俺は馬鹿みたいに気分が悪く、もうこんな目に遭うなら今からたらふくゴミでも食って味覚障害者になってやろうかと思った。ヤケ食いして散財しようと思い、見も知らぬ薄汚れた天ぷら屋にいきなり入って注文した。
「えび、いか、きす、銀宝、なす、人参、紫蘇、しいたけ、玉子、かき揚げ…………」
高くて不味いものを阿呆ほど食ってゲロ吐いてそのまま道端で乾涸びて死のう。そう思いながら値段も見ずに頼んだ。店主は面食らったようだったが、やがて静かに油を焦がす音が聞こえ、いくつもの天ぷらが目の前に並んだ。俺は泣きながら、美味しく食えなくてごめんなさい、こんな俺でごめんなさい、と咽びながら天ぷらを口に運んだ。しかし、その時予想外のことが起こった。
「美味……しい……」
黄金色の椿油で軽やかに揚げられた種々の具材は、いずれも今までに食べたことがないほど美味しかった。どの具材も巧みに味わいが引き出され、余分なものは一切なく、ただ朴訥で衒いのない至高の味がそこにはあった。呆気に取られて厨房の方を見ると、みすぼらしい顔立ちの店主が俺を見ながら涙を流していた。
「分かるよ。おいらはあんたみたいな奴のために天ぷらを揚げてんだ──」
改めて見ると、店内に客は俺以外おらず、店中が油のしみで汚れ、とても美食家の集う店という雰囲気ではない。俺はハッとして、店主の顔を見つめた。
「締めて、26,500円。払ってくれるね。ここで会えた仲間のために……」
俺は店主に天ぷらの代金を払い、店を出た。その時、町は既に夜だったが、眼前の通りには数多の店が所狭しと毒々しく光り輝いていた。大手のファミレス、安価な居酒屋、中華のチェーン店、ラーメン屋に回転寿司屋……。その全てが、自分こそ美食だと喧伝し、味の分からない人々を恥ずかしげもなく騙し、異常な創意工夫の果てに異形の味を編み出して確固たる存在感をそこに据えている。
「地獄……」
町の背景に溶けた憐れな天ぷら屋を後にして、俺は恍惚の中で泣き笑いしながらくるくると踊った。

終電には間に合った。何ヶ月ぶりだろうか、満足に膨れた腹をさすりながら家の扉を開けると、居間で恋人がテレビを見ながら夕飯を食べていた。
「あれ、優くん早かったね。飲み会どうしたの……え、その顔どうしたの? 何かあった?」
「梓沙、さっきはごめん……。お前の料理美味しかったよ、本当に。また作っておくれ……」
俺は力なく彼女に近づき、そのまま彼女を抱きしめてさめざめと泣いた。
「え、急に何!? ちょっと、怖いんだけど」
部長には明日謝ろう、同僚のみんなにも謝って、今度からは部署飲みにもきちんと参加しよう。あの天ぷら屋には、金が溜まったらまた行こう……。そして店主と一緒に泣きながら天ぷらを食う。終わらない悲しみを肴に、軽やかな金色の天ぷらを食う。

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