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僕が選び取った孤独・僕が選び取った自由

昨日、僕は名古屋大学の文学部を卒業してきた。「学位授与式は11:50~」とホームページに書いてあったので、どんな式がどのように執り行われるのか全く分からなかったが、独り定刻通りに講堂へと赴いた。講堂前には、色とりどりの袴に身を包んだ女性たちとスーツを着込んだ男性たちが大勢集まっており、サークルの仲間と思しき集団や学科の友人たちと連れ立って写真を撮っていた。対する僕は、学ラン姿で独りである。僕は懐かしい孤独感を覚えていた。この孤独感は4年前、入学時に味わったものと一緒だった。

入学当初、僕はたくさんの知り合いを作り、いろいろなイベントに参加してサークルにもたくさん入った。いわゆる大学デビューというやつだろうか。しかし、ほどなくして僕の大学デビューは挫折に終わった。気の合わない同級生とぎこちなく馴れ合うのは苦痛でしかなかったし、サークルの人間とは考えも価値観もまるで合わなかった。自分が集団の中で浮いていく感覚。当時はだいぶストレスを溜め込んで狂いかけていたと思う。そういうわけで、僕は同級生たちと無理に仲良くするのをやめ、ストレスの元でしかなかった吹奏楽部も退部し、明らかにそりの合わなそうな作曲サークルには1度も行かずに幽霊になった。これこそ、僕が選び取った孤独の正体である。それは自由である。

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僕は、自由を手にすることで必ず孤独になっていった。自由とは自分の思い通りにすることで、それはつまり他人の思い通りにしないことである。だから、人は自由を希求すればするほど孤独になっていく。孤独を嫌う自由もあるが、それは本当の意味でその人にとって自由を行うことにはならないだろう。孤独は自由の代償なのだ。

僕は高校生の頃から自尊心が高く、他者と自分とをいつも差別化していた。周りの生徒がちんたら歩いているのが気に食わず、僕はものすごく早く歩いていた。登下校の際も、僕は何十人もの生徒を抜き去りながら爆速で自転車を走らせた。昼食も、みんなが談笑しながら食べている中で、僕は必ず一人で食べた。これも僕が選び取った孤独である。周りの生徒はちんたら歩いていたのではなく、ただ隣を歩く人に歩調を合わせていただけなのだ。喋りながら飯を食うという人体構造上極めて不条理なことをしていたのも、彼らが馬鹿だったからでは決してなく、それが彼らの選択だったからである。同じように、僕も自分の選択でこの自由を選び取った。風を切り思うさまに走る夕焼けの通学路は気持ちが良かったし、一人で黙々と飯を食いながら周囲の会話に耳を澄ますのも悪くはなかった。そして何より、僕はそれによって他者の望まれざる介入から解放されていた。孤独はその代償であり、僕はそうした孤独の中で生きてきた。今までずっとだ。

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僕は孤独が好きなわけではない。時折無性に人肌の恋しいときがある。これは確かに自分で選んだ孤独だが、僕はまだマシな方を選んだにすぎないからだ。自分が孤独を被るのは不条理だと思ったこともあった。そういう時は、決まって周囲にアピールをする。俺を見てくれ、俺に踵を返してくれ、独りにしないでくれ、と。だが、それすらも僕の自由の範疇であるかぎり、相手にもまた無視を決め込む自由がある。それに気がついてから、僕は身の軽くなる思いがすると同時に、永久に解消されることのない孤独の寒さに気付き泣いた。しかし、それでも僕には自由を執行するほかなかった。自由を手放すことは僕の生存上考えられないことだった。

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それで、卒業式会場で僕はまた独りであった。落ち合った友人ともすぐにはぐれ、学ラン姿で場内を好き勝手にうろついた。この5年間を総括する言葉があるとしたら、「僕が選び取った孤独」だと思った。僕は、僕が自由のために孤独を選び取り続けたことを恥じていない。その結果手にしたものに後悔してもいない。いや、本当に? そう言い切れるほどにははっきりと答えが出ていないかも知れない。僕が努力して、その末に手に入れようとしたものは、この寒い孤独だったのだろうか。独り奇妙な格好で徘徊し、周囲からは多分卒業生とすら思われていない、否むしろ誰の目にも映っていないであろう今の僕を、僕は本当に願ったのだろうか。

やがて、友人の江坂さんが会場にやってきた。写真を撮ってもらおうと思い、待ち合わせていたのだ。そして何やら大きなものを手にしたかと思うと、それを僕に渡してきた。それは赤い花束であった。僕は面食らって、
「ありがとうございます。めちゃ嬉しいです」
と言った。しかし、江坂さんはそれに対して笑いながら返した。
「正直、トイドラを喜ばせようっていうより、トイドラみたいなひねくれた奴が卒業式で立派な花束もらってたら面白いかな、と思って持ってきた」

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こうして、自由のために孤独を選び続けてきたはずの僕は、友人から1束の花をもらい受けた。思えば、僕が求め続けてきたのは自由であり、必ずしも孤独ではない。自由のためにもがき、苦しみながら選択し続けて、その結果が無機質な孤独だとしたら悲しすぎると思った。そういう意味で、この花束は僕を救った。この写真から花束が失われたとき、その意味は大きく変わるだろう。

大学で過ごした5年間、僕は自由であり続けようとし、その結果孤独を甘受し続けてきた。しかし、これからはあまり孤独、孤独としつこく言い過ぎないようにする。同じ自由を希求する仲間がいるし、自由を追う僕を、あるいは僕が追う自由を好んでくれる人がいる。逆に言えば、そうした人たちと出会うためならいくら孤独を享受してもかまわない。そんなことを思う卒業式であった。

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