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乳がんになった時のこと 23

*今回の話は、今落ち込んだりナーバスになっている方には向かないと思います。でもこの話を書くために、長い体験談を書き続けました。コンディションの良い時に読んでもらえればありがたいです。

「取り返しのつかない事をした」
心療内科で出された薬を1ヶ月ぐらい続けると不眠と頭痛はだいぶマシになった。
でも、脇の痛みや指のしびれ、疲れやすさや、ホットフラッシュ、おりもの増加、生理不順なんかの地味なトラブルは続いた。それでもなんとか仕事にしがみついて、仕事量は入院する前に戻して頑張っていた。

6月
先輩の作家が子宮がんで亡くなった。

その先輩は、若い頃から活躍していた。その人が会議にいるだけで、その場が楽しくなるような人だった。私が離婚して最初についた番組にもいて、会議でどこの席に座っていいか分からずオロオロしていたときに「ここ!ここにおいでよ!」と声をかけてくれた人だった。

1年ぐらい前に体調を崩して会議を長期で休んではいたが、3ヶ月ぐらいで復帰しまた変わらない明るさで仕事をしていた。でもその時には手術を終え、抗がん剤も使っていたという。先輩は自分の子宮がんを誰にも言わず、隠していた。私が会議で「ごく初期の乳がんなので、いきなり死んだりするような事はないです。手術と治療が終わったらすぐにまた帰ってきます」と説明している時、先輩もそこに座っていた。

その時の先輩の体調はわからないが、会議後に作家仲間で話している時、その先輩だけさっと帰ってしまっていた。次の仕事が詰まっているのかな、と思ったけど、そうじゃなかったのかもしれない。ひょっとすると、もう、違う薬を使わなくてはいけない瀬戸際だったのかもしれない。私が入院してからすぐ会議に来れなくなって、それから6ヶ月で亡くなってしまった。

私は、がんの病状の進んでいる人の前で、無神経に「乳がんですが、ステージ1なのですぐ治ります」と言った。先輩はどんな気持ちでそれを聞いたんだろうか。
私は自分の事しか考えていなかった。一生、取り返しのつかないことを言った。

お通夜はとても大きな葬儀場で行われて、弔問客もとても多かった。大きな祭壇に明るく笑ってる先輩の写真が飾られていた。焼香をする時に、その最後の姿に会わせてもらった。先輩は見る影もないほど痩せてしまっていて、私の知っている先輩ではなかった。がん細胞が、彼女の体を食い荒らしたのが分かった。
彼女の夫が弔問客にお礼を言うためにみんなの前に立った。「多くの方にお集まりいただき、ありがとうございます」とだけ言った。旦那さんも同業者で、私も一緒に仕事をしたことがある人だったが、とても疲れているようで痩せて影のようなものをせおっていた。
私は真っ直ぐ帰ることができず、喪服を着ているのに、路地裏の立ち飲み屋に寄ってビールを飲んだ。先輩に謝りたかったけど、もうかなわない。大体謝ってゆるしてもらおうなんて図々しいと思った。
私はこれを一生持っていかなければいけない。

次の週、私はいくつか請け負っていた仕事のうち、一つを辞めた。
なんでそうしたのかは、よくわからないけれど「死」をとても近くに感じたのは確かだった。私が死んで弔問客に頭を下げる子どもたちの姿を考えた。私の体は持ち合わせのこの一つしかない。仕事のために無理をして命を落とす、それは避けなくてはと思った。

「メメントモリ ー死を忘れるなかれ」

私はプロテスタントの大学に行ったので、必修授業にキリスト教が入っていた。授業でその一文が出てきたけれど、その時は「テストに出そうだな」としか思わなかった。こんな時に使うかどうかわからないけど、ふと頭に浮かんだ。

生きてるから、死をいつも意識してずーっと生きる。
そうやって進んでいこうと思っている。

#乳がん #健康 #シングルマザー


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