第12回・外山恒一賞 受賞者発表


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外山恒一賞

主に反体制的な右翼運動、左翼運動、前衛芸術運動などの諸分野から、「いま最も注目すべき活動家(もしくはグループ)」を、外山恒一が独断で選んで一方的に授与する。辞退はできない。

外山恒一のファシストとしての再臨(2004年5月5日・ファシズムへの獄中転向を経て福岡刑務所を満期出所)を記念して、2011年より毎年5月5日に受賞者の発表をおこなう。

授賞は、外山恒一が受賞者の活動に「全面的に賛同している」ことを意味するものではなく、あくまで「いま最も注目している」ことを意味するものである。多くの場合、授賞は好意的評価の表明であるが、時にはイヤガラセである場合もありうる。

外山恒一が創設した革命党「我々団」の公然党員は授与の対象とならない。

賞状・賞金・賞品はない。「外山恒一と我々団」や「我々少数派」などの外山恒一関連サイトで授賞が発表されるだけで、受賞者への通知もないが、受賞を知った受賞者は「外山賞活動家」であることを周囲に吹聴してまわって存分に自慢することが許される。外山賞受賞は活動家として最高の栄誉であり、いくら自慢しても自慢しすぎるということはない。

 ※歴代の受賞者などについてはコチラ

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 相変わらずパッとしない革命勢力の後退期である。この1年間も結局、私が自分でやった〝小山田圭吾擁護闘争〟〝運転免許無血更新〟が一番、外山賞にふさわしいではないか。
 まあそりゃあ賞を受ける側より授ける側のほうがずっと現役で偉いというのが、外山賞とその他の数多のどーでもいい賞との最大の違いである。

 〝ウクライナ反戦〟とかの類をあまり評価する気にもなれない。
 95年以来の反テロ戦争を(テロリスト側で)〝今・ここ〟で戦い続けている私は、よその国で始まった戦争にあんまり興味はないし、しかも私の周囲にはどうもロシアびいきの人が多くて、私もつい多少は影響されてしまっている。ソ連のスパイであるに違いない中川文人氏がロシア寄りなのは当たり前なのかもしれないが、全共闘世代の数少ない真の非転向分子の1人と思われる(お会いしたことは1度しかない)武田崇元氏もロシア寄りのスタンスで痛快なツイートを連発しているし、根っからのリベラル派であるはずの清義明氏も、まあ「ロシアが悪いのは前提だけども」としつつ、ウクライナ批判を続けている(清氏のツイートを読んでれば、〝ウクライナはネオナチに侵食されている〟というプーチンの云いぶんもあながち的外れではないことが分かるが、ファシストとしては、〝ネオナチだから悪い〟という意見に与するわけにもいかず、困ったものだ。ほんとは別に困ってないけどさ)。教養強化合宿で食事係を担当している、やはり根っからのリベラル派だったはずのうら若き女学生も、戦争勃発の報を承けてそこに至る経緯を独習し始め、「これはプーチンも怒りますよ!」とガゼン反米意識を高めてしまうし、結構しょっちゅう会っている熊本在住の、第2回外山賞受賞者でもある偉大な演劇人・亀井純太郎氏も、「何か問題が起きたらまず、〝アメリカが悪いんじゃないか?〟と考えてみるのが常識というものでしょう」と実に常識的な発言をして、さすが外山賞受賞者だと唸らされた。
 なお亀井氏はこの1年間にも、「〝批判ばかりで対案を出さないのは無責任だ!〟とベタなことを云いまくっていこう」(私にも古典的共産主義者である亀井氏にも「革命政権を樹立して反革命分子は収容所にブチ込めばいいのだ」という〝対案〟がある)だの、「そんな小理屈で新左翼は騙せるかもしれないが、旧左翼には通用しないぞ!」(もともと新左翼だったのだが、トランプ旋風やコロナ騒動を経て新左翼全体に幻滅し、危うく右傾しそうになった末に〝旧左翼〟を標榜し始めたらしい)だの、「みんな、コロナ騒動では自由より命が大切だったはずなのに、今度は自由のために命を捨てるウクライナの人たちに感動してるようで、おい一体どっちなんですか!」だの、一括して外山賞をまた授与したくなるような名言を連発している。昨年1月のトランプ派による米議事堂襲撃事件に際しても、トランプ大統領(当時)に「『司令部を砲撃せよ!』と人民を煽った毛沢東先生を見るようだ……」と感銘を受けていたようだし、そもそも一昨年、私が展開した反〝自粛〟闘争に際して「靖国で会おう!」というスローガンを思いついてくれたのも亀井氏だったりする。外山賞を受賞するほどの芸術家というのは、かくも常にハイセンスなのである。

 ともかく惜しくも受賞を逃してしまったノミネート(された)者をまず紹介していこう。……と、その前に昨年の授与発表に際して、世相に疎いもので把握してなかった、もし把握してればこっちに授与しても良かったなあとちょっと後悔してもいる案件を挙げておこう。

 

昨年のノミネート洩れ 兵庫県豊岡市民

 昨年4月25日投開票の同市長選における、平田オリザと癒着して〝演劇のまち〟づくりを推進していた極悪市長の落選、「〝演劇のまち〟なんかいらない!」との実に健全な主張を前面に掲げた(「〝ジェンダーギャップの解消〟とかもどーだっていい!」とこれまた健全きわまりない主張も並べて掲げた)対立候補の当選は、そもそもどーでもいいサブカルにすぎない議会政治に関連するものとしては、珍しく痛快な出来事であった。もちろん新市長だってしょせんFラン政治家なんだろうし、現在では節操を曲げて〝演劇のまち〟づくり路線を復活させるという悪事に手を染めているようだが、そもそも〝しょせん選挙じゃ何も変わらない〟わけだし、選挙に出るようなFラン人間に期待しても仕方あるまい。何はともあれ豊岡市民は良識を示した、それでよしとしよう。

 では今年のノミネートである。

ノミネート1 宮本一馬

 今年1月23日、電車内で喫煙するというその時点ですでにもう外山賞ものの勇敢な反スターリン主義闘争を展開し、そればかりか、スターリニズムを内面化した今ふうの小賢しい高校生のガキどもに「やめてもらえますか」などと因縁をつけられたので、実に正しくも、この軍国少年どもに10分以上も殴る蹴るの暴行を加え、顔の骨を折る重傷を負わせて逮捕された、栃木県宇都宮市の28歳の飲食店従業員である。
 (読売新聞
 偉大な昭和の御代、少なくともローカル線の車内ではフツーにタバコを吸えたものだ。間違っているのは反スタの闘士・宮本氏ではなく、ガキどものほうであると強く主張したい。

ノミネート2 菅原進の「うっせぇわ」

 とにかく最近のガキどもときたら反革命の極みである。一昨年に大ヒットし、文化的センスというものが致命的に欠落しているくせに〝ものわかり良さげ〟に振る舞いたいリベラルどもにも絶賛されたりしていた「うっせぇわ」が何かの拍子に耳に飛び込んでくるたび、一刻も早くファシズム革命政権を樹立して20歳以下の連中を全員、強制収容所にブチ込まなければならぬという使命感に駆られた。あんなもん、「空気読めよ!」的な同調圧力の賛歌以外ではないではないか。
 (YouTube
 そんなわけだから、往年の名デュオ「ビリー・バンバン」の片割れが、73歳にしてこの反革命ソングをカバーしたバージョンは、ストレートに批判的スタンスなり悪意なりを表現しているわけではないのだが、うっすらと悪意を漂わせている印象がないでもなく、つまりまあ、とても痛快である。菅原氏がこれをYouTubeに上げたのは昨年4月で、〝この1年間〟の出来事ではないのだが、私が知ったのは最近なので、偉いぞ!と顕彰しておく。
 なおビリー・バンバンの72年のヒット曲「さよならをするために」は超名曲なので聴きなさい。あと焼酎〝いいちこ〟のCMソングとして広く知られてはいるだろう04年の「今は、このまま」も。

ノミネート3 沖縄の若者暴動

 日本の若者は見るとこナシだが、外国の若者は立派だ。沖縄ももちろん本来は外国であるべき地であって(こんなFラン国家からは早いとこ独立しなさい)、若者もFラン日本人と違ってなかなか立派である。
 (沖縄タイムス
 今年1月27日の深夜から翌28日早朝にかけて、「仲間が警官に暴行された」として300人ほどの(400人とも)若者が沖縄県警沖縄署を取り巻き、石や棒、爆竹、生卵などを投げて暴れまくった。暴走族の一員と誤認された若者が、失明するほどの暴行を警官から受けたという情報がSNSで拡散したことが発端らしい。

ノミネート4 『寝そべり主義者宣言』日本語版の発行と流布

 外山恒一と双璧を成す面白主義系政治運動の巨匠・松本哉氏の新たな所業である。
 松本氏が主導し、「だめ連」の神長恒一氏らの協力も得て今年1月に刊行された日本語版の序文(松本氏)によれば、近年、中国の若者たちの間に「躺平主義」なるキーワードと共に「あえてのんびりした生活をするという謎のスタイル」が流行し、要するに社会主義の国是にふさわしからぬイケイケな弱肉強食資本主義の路線にウンザリした若者たちが積極的なドロップアウトを称揚し始め、しかしべつに真っ向から反政府的な主張を掲げてるわけでもなし、中国政府をただ困惑させ途方に暮れさせているらしい。ついにはどこかの地方都市で「躺平主義者宣言」なる文書が作成され、大量に流通し始めているそうで、松本氏らは早速それを入手し、日本語訳してミニコミとして刊行したわけだ。
 一読したところ、内容的には日本でも近年、突如として政治的のことに目覚めたサブカルどもが称揚しがちな〝ゆるふわ〟アナキズムと大差ないように思うし、しかも文化左翼的なインテリ臭も漂っていて、私などはちょっと(かなり)抵抗も感じるが、よそ様(しかも宗主国・中華様)のことなんで別にそれはそれでよい。素晴らしい!と思うのは、この文書が中国では、SNS上などでではなくリアルなブツとして、つまり紙に印刷された文書として流通しているという点だ。そりゃそうだろう。そもそもSNS上に〝自由〟なんかないし、しかも監視社会化の進みっぷりも後進国ニッポンなんぞとは段違いの、世界に冠たる中華帝国様の内部で起きている出来事なのだ。紙のほうが一億倍安全である。
 それを翻訳して日本にも流布させようとするに際しての、松本氏の姿勢もまた素晴らしい。『情況』22年春号に寄せられた手記によれば、松本氏は中国での流通形態を見習って、日本語版もネット上には流さず紙の小冊子として自主印刷・自主製本し、しかも自ら全国各地のミニコミ書店などに足を運んで〝じかに手渡し〟で納入しているというのだ。偉い! 外山路線、松本路線を継承せんとする若い諸君は、表面的な〝面白〟の部分だけでなく、こういう地道な部分をこそ参考にすべきである。

ノミネート5 ヤジポイ裁判の一審勝訴

 19年7月の参院選で、札幌市内での安倍ちゃん(もちろん当時は首相)の演説にヤジを飛ばして警官に排除された男女2名が、警察のそのような対応を「不当」として起こしていた国家賠償請求裁判の一審・札幌地裁判決が今年3月25日に出て、とりあえずは原告側勝訴の内容だった。原告の2人はまあヘサヨに近いぐらいのリベラル派で、私とは思想的立場は相容れないのだが、たかがヤジも許さないFラン国家のFラン警察はテッテー的に懲らしめてやらなければならないし、お祝いの言葉に代えて外山賞にノミネートしておいた。
 (北海道新聞 朝日 毎日 読売 産経 時事通信
 それに実は、女性のほうは我が教養強化合宿の第8期生(18年春)で、ドーダ!と〝教え子〟たちの活躍を自慢しておきたいのだ。「フェミに目覚めたことは正しいと思ってるけど、以前は面白がれてた映画やドラマやコントを素直に面白がれなくなってしまったことが辛い」とこぼしていたのが印象に残っている。男性のほうとも実は、いつだったか札幌在住の同志・宮沢直人邸で数日を共に過ごしたことがある。こちらも、ここ約10年では群を抜いて大傑作だと私は思っている映画『ハングオーバー』を見せたら、「ムチャクチャ面白いんだけど……ポリコレ的に納得できない!」と云ってて、気の毒になあと思った記憶がある(笑)。

ノミネート6 北尾修一「いじめ紀行を再読して考えたこと」(ブログ記事)

 小山田圭吾いじめ(られ)事件を再検証し、小山田の冤罪を晴らさんとする流れを生む決定的契機となったブログ記事である。最初から〝期間限定〟との宣言つきで昨年7月末に公開された記事で、現在ではもう読めない。おおよその内容については、私が事件を〝名探偵〟として徹底検証した「小山田圭吾問題の最終的解決」でも言及してある。
 北尾氏は、問題になっていた記事(の1つ)の掲載誌である『クイック・ジャパン』の編集部にかつて在籍し、くだんの小山田インタビューの現場にもたまたま居合わせたという人である。私が昨年出した現在のところ最新著作の『政治活動入門』の版元・百万年書房の経営者でもあり、つまり私とは近しい間柄なので、北尾氏が書いたこの記事が公開後まもない時点で私の視界にも入ってきたわけだが、これを読まなければ私だって、小山田はとんでもない極悪人だというのが、Fラン人民なみにネットやマスゴミのデマに踊らされての、思い込みだということに気づけなかっただろう。
 さすが私の本を出そうなどとつい考えてしまうほどの類い稀な見識の持ち主である。

ノミネート7 『実話BUNKAタブー』編集部

 ノミネート対象は昨年7月21日のツイートである。もう元に戻してあるので正確には何だったか忘れたが、突如として〝人権派雑誌〟みたいなアカウント名にして、「五輪開会式ディレクターのラーメンズ・小林賢太郎さんが、『ユダヤ人大量虐殺ごっこをやろう』とホロコーストをネタにしてる動画です」と、20年以上前(98年)のラーメンズのコントの動画にリンクを張り、小山田圭吾氏に引き続いて小林氏までもがオリンピックの開会式がらみの仕事を降ろされるという珍騒動の引き金を引いた。
 もちろんこれは、おそらくは小山田バッシングへの違和感、小山田バッシングを批判する文脈での、つまり〝正しい悪意〟のツイートだったのである。ところがFラン人民がマジで小林バッシングを猛烈に展開し始めて、小林氏は何にも悪くないのに(実際コントを見てみれば、ハリウッド映画にもしょっちゅうありそうなレベルのブラックジョークである)、ヒドい目に遭わされてしまったわけだ。翌22日、同誌編集部は再び、「悪趣味雑誌と散々言われるので、せっかくだから鬼畜カルチャーの代表・村崎百郎の『ゴミ漁り』を真似て、ネットゴミ漁り的感覚でアップしてみたんですが、他人の黒歴史を『これで五輪が中止になる!』とか嬉々として喜ぶ、本当に悪趣味な人がたくさんいてゾッとしてます…」とツイートしている。
 なんだかなーという話だが、ネット社会の狂った現実を可視化させたのは、まあ偉いとも云える。

ノミネート8 岸塚由将

 これまた私の〝密接交際者〟の1人である。
 かつて福岡市内で「BARラジカル」というのをやっていた時(11〜12年)の最常連客で、以来、友人関係が続いていて、我がファシスト党〈我々団〉の恐ろしい党本部での交流会などにもよく顔を出してくれるし、「ニセ選挙運動」などで街宣にも参加してマイクを握ったこともある。
 18年1月に岸塚氏は何を思ったか突如として地元の福岡県糸島市議選に立候補し、事前運動も何もやってないようだし、すわ一大事、こりゃあ供託金返還ラインも危ういぞと心配した我が党は、党員ではないが友人ではある岸塚氏を救わんと、当然ながら選挙カーとして選管に届け出てるわけでもない街宣車で現地入りし、それまでさんざん実践してきた〝法に触れない選挙妨害〟活動で身につけたスキルを逆用、「頑固な反原発派・岸塚由将君を勝手に応援する謎の一団でございます。勝手に応援しているだけなので、口に出したくても出せないフレーズがいろいろとございます。どうか、真面目な反原発派・岸塚由将君に皆様の清き忖度を!」と面白街宣を展開して、見事ギリギリで供託金没収を免れさせることができた。
 その岸塚氏が今年1月、また選挙に出るというので、もう街宣車もないしとりあえずポスター貼りだけ手伝いに行ったら、なんと岸塚氏、今度は市議選ではなく市長選に出ているではないか! そりゃあもう、どう足掻いたって供託金は返ってこないよ(1割得票が必要)と思ったし、街宣車もないし、ご冥福をお祈りしつつ事態を静観するしかなかった。
 が、フタを開けてみると、他に立候補者もなく、現職市長の無投票再選を阻止するために急遽出たというので評価された面もあったらしく、岸塚氏は2割以上を得票して、もちろん供託金も見事に奪還した。一応は快挙である。
 とはいえ岸塚氏の今回の選挙運動は徹頭徹尾ノーマルなもので、いかにもフツーっぽい候補者を演じ、けしからんことにコロナ問題についてもひどく凡庸な主張ばかり掲げていた。そこらへんはちょっとなあ……と思っていたら、当選した現職市長氏、岸塚氏が余計な立候補さえしなければやらずに済んだ選挙運動の過程で、コロナに感染し、当選するなり静養に入った。そういうインボーだったのか!と感心してしまった。
 (糸島新聞

ノミネート9 熊本市現代美術館の「段々降りてゆく」展・記録集

 これもまあ、私の関連ではある。
 昨年3〜4月に熊本市現代美術館で開催された、〝九州の現代作家のグループ展〟である「段々降りてゆく」展には当初、私の展示コーナーも設けられる予定だった。ところが同館は、名前のとおり熊本市立の公立美術館である。私のような恐ろしい過激派の〝作品〟を展示するのはいかがなものか、と嗅覚するどい市本体側の管轄部署がストップをかけた。
 私としては〝過激派としてちゃんと評価された〟とむしろ晴れがましいことで、べつにいいっちゃあいいんだが、日本の文化行政のFランぶりを露呈する事態であることもまた事実である。福住廉氏など意識高すぎる系の美術関係者らが美術館側の軟弱姿勢を糾弾し始め(批評家・福住廉氏美術家・加藤笑平氏)、もともと企画者の学芸員氏も措置に納得していなかったし、私の展示が見送られた経緯について検証する「記録集」を今年3月末に大々的に刊行した。
 展示に反対したFラン役人も含め、展示しなかったのは正しかったとする側も、展示すべきだったとする側も、それぞれの主張をとにかく真摯に展開していて、ものすごく読みごたえがある。この「記録集」自体が現代美術の1つの傑作だという評価も見られたほどの出来栄えである。
 「劇団どくんご」を強力プッシュしていることでもその炯眼ぶりは明らかな批評家・佐々木敦氏による絶賛エッセイ「外山恒一とは何か?」も、絶賛されないとヘソを曲げるがほんとに絶賛されるとつい照れてしまう私が照れまくってしまうほど素晴らしいが、白眉は一番最後に掲載されているFラン佐賀大の芸術系学部の准教授であるらしい花田伸一氏の論考「外山恒一の共犯者は誰なのか」だろう。展示不許可を〝正しい〟とする立場からの、トリッキーな〝外山恒一ほめ殺し〟で、これまた私は大いに照れてしまうではないか。
 なお、実は前記・福住廉氏が恐ろしいことに日本を代表するFラン芸大・東京芸大(福住氏も教壇に立っているらしい)のギャラリーで〝外山恒一展〟を開催させるインボーを虎視眈々と進め、こちらも今年3月ぐらいだったか、「結局当局の承認を得られませんでした」と連絡がきた。熊本市現代美術館には、私の展示を認めない結論を出してまもなく、新館長として高名な現代美術家・日比野克彦氏が赴任し、また東京芸大のほうも〝外山恒一展〟の提起を却下した後、新年度から同じく日比野克彦氏が新学長に就任した。まことに奇妙な現象である。熊本市現代美術館の件を熊本日日新聞が取材に来た時に、東京芸大の件も「スクープになるのでは?」とチクっといたんだが、記事には反映されず、残念だ!

ノミネート10 與那覇潤

ブックオフで何となく(ブレイク作の『中国化する日本』には大いに感銘を受けていたし)買っといた歴史学者・與那覇潤氏の昨年6月の著書『歴史なき時代に』を、何となくパラパラと読み始めて驚愕した。世相に疎いので知らなかったが、私と同じく一昨年の春以来、與那覇氏もまた反〝自粛〟の論陣を張り続けていたらしいのだ。コロナ問題に関してマトモな(つまり陰謀論的ではない)反〝自粛〟論を提起し続けている人文系インテリは、日本では私と東浩紀氏だけだと思っていたからである(小林よしのり氏もコロナ問題に関しては比較的まあマトモなことを云っているとは思うが、要するにオウムの時に起きたマス・ヒステリーと同じなのだということに未だに気づいていない致命的欠陥がある。〝人文系インテリ〟の枠に入れていいかどうかは分からんし、〝陰謀論的〟でないかどうかもまだちゃんと確認していないのだが、倉田真由美氏、中川淳一郎氏も反〝自粛〟の論客であるらしいことを最近知り、とりあえず目に入った範囲ではそれなりにまっとうなことを主張しているようだ)。
 コロナ問題に限らず、いわゆる〝キャンセルカルチャー〟に関しても與那覇氏は怒り心頭らしく、「つくづく歴史学というものが嫌になってしまった」という嘆きから「まえがき」はスタート、例の呉座勇一氏の一件を引き合いに(與那覇氏も呉座氏の擁護者と見なされ攻撃を受けたらしい)、このFラン日本のFラン人文系インテリどもを徹底的にこき下ろしている。「新型コロナウィルスへの対策と称して、自粛への同調圧力が異常な統制社会──あたかも戦時体制が再来したかのような、私権の制限の当然視を眼前にもたらしているのに、過去を扱う専門家であるはずの歴史学者たちだけが、なにもしない」として、そういう醜態をさらしてしまうようであれば、「大学での歴史学の教育を通じて、一般の学生や聴講者が学べる有益なことは『ない』」、「歴史学にはこの際、コロナでお亡くなりになっていただくほうがよさそうだ」とまで云う。いやもうまったくその通り。異論があるとすれば、歴史学者たち「だけ」ではなかろう、人文系諸学問ほぼ全滅じゃん、という点ぐらいである。だから私は口を酸っぱくして、日本の大学(とくに人文系)は全部Fラン、予算など全額廃止して良しと云い、我が「教養強化合宿」こそ日本の最高学府であると云い続けている。
 與那覇氏は同業者(だった歴史学者)たちを「盛り上がっている時事ネタにいっちょかみしたくてキャンキャン吠えるだけ」、現在や過去の現実の世界とのつながりを前提とした問題意識を失って「もう日本の大学でやっている歴史学は『ガンダム学』と同じになっている」、「自粛に同調しながら『鬼滅の刃』の新刊だけは買いに行き、マジで最高の教材だ、舞台になっている『大正時代の授業に使える。学生のウケが違う!』とSNSで騒いでいた人であるとか。学生は教員のそういう姿、内心では冷ややかに見ていると思いますよ」、「『政府が自粛しろって言うんだもん。民意も怖がってて、逆のことを言ったら叩かれるもん』と言わんばかりに、彼らはこの間、大学の研究室どころか自宅に引きこもり、SNSではお友達どうし、ずーっと内輪でZoom研究会の宣伝だけ(失笑)。そりゃ、『こいつらに税金使いたくない』と思われてもしかたない」、「普通の国民はまさに、(20年)4〜5月の緊急事態宣言下で私権を制限され、とっくに『戦前に戻されて』いたわけ。その時は率先して大学のキャンパスを封鎖し、政府の政策のお先棒を担いだ先生たちが、自分らの業界団体(日本学術会議)に手を突っ込まれたときだけは『日本を戦前に戻す菅政権を許さないぞ!』って、意味わからんじゃないですか」……などと舌鋒するどく、「コロナでなにもしなかった歴史学者たちを、もう同志とも友人とも思わない。これからは信じられる人にだけ向けて、独りでやっていこう」との決意を表明している。とにかく、読むよろし。
 與那覇氏は昨年6月刊のこの『歴史なき時代に』の後にも、8月に『平成史 昨日の世界のすべて』を出し(内容紹介には「昭和天皇崩御から二つの大震災を経て、どんどん先行きが不透明になっていったこの国の三十年間を、政治、経済、思想、文化などあらゆる角度から振り返る」とある)、まもなく今月中には『過剰可視化社会』という新著も出るようだ(こちらは「目に見えないウイルスの感染者数が日々『可視化』されたコロナ禍の2年間の後に残ったのは、一人では安心感を得られず、周囲にも疑いの目を向けあう日本人の姿だった」とある)。いやはや、何とも心強い。

ノミネート11 神真都Q

 危ないところだった。ほんの数時間前まで、(あ、アレがあった!と本年度の授賞対象をギリギリで思い出さなければ)今年の外山賞は彼らに授与する他あるまいと考えていた。反〝自粛〟、反マスク、反ワクチンの反〝生権力〟闘争こそ現下最大のテーマであり、とにもかくにもそれを実践している人々を称揚したいのだが、いくら何でも2年連続で〝Jアノン〟っぽい人々を称揚するのにはもちろん抵抗がある。
 詳しくは知らんが、〝反ワクチン〟で実力闘争を展開している団体で、今年4月には、ワクチン接種会場に12名ほどで押しかけて騒いだというので、中心メンバー4人が逮捕された。ネットでもマスゴミでも叩かれまくりだが、彼らを叩く資格があるのは、このコロナ状況下での反〝生権力〟闘争を自身でもちゃんと展開している者だけである
 (朝日 毎日 読売 産経 東京新聞
 現在発売中でそこそこ売れてるらしい『情況』22年春号に寄稿した文章でも、私はこう書いている。「マスク問題で地道に日常的に闘っているのは私以外にはトランプ派だかJアノンだかの素っ頓狂な陰謀論者たちばかりで、そういう連中をバカにしているであろう人文系知識人たちは、しかしちっとも闘わないではないか。マスク全体主義に対して批判的に〝論評〟ぐらいはしているのかもしれないが、具体的に日常的な場で闘わないのでは意味がないではないか。それとも具体的な闘いは、自分たちのご高説を聞いた誰か別の人たちがやればいいとでも思っているのだろうか? くっちゃべってるだけで自分は闘わないのなら、せめて実際に闘っている素っ頓狂な陰謀論者たちへの支持ぐらい表明すべきである」、「せっかくお勉強して〝闘うための学問〟の専門家となった人文系知識人たちのせめて少数派の諸君(とくに〝生権力〟や〝環境管理型権力〟を批判的に云々してきた諸君)が本来やるべきは、まず親ポリコレ派の左翼連中とは縁を切り敵対する覚悟さえして、マトモな人文知と決定的に切れているために素っ頓狂なことしか云えずにいるJアノン的な潜在的革命戦士たちを支持し、鼓舞し、いっそおだて上げて、彼らの信頼を克ち得た上で、もう少し政治的に正しい反ポリコレのロジックを提供し、浸透させることだろう。レーニン先輩が喝破したとおり、大衆運動の自然発生性の延長に革命はなく、自然発生的なJアノンたちの反ポリコレ運動がとりあえずは目も当てられないトホホなものであるのは当たり前で、そこに正しいイデオロギーを外部注入するのが革命的知識人の役割だったはずである」。
 もちろん私は一昨年の〝高円寺駅前・懲罰宴会〟闘争にせよ今年の〝運転免許無血更新〟闘争にせよ、あるいは昨年の〝小山田圭吾擁護闘争〟だってコロナ状況下でヒマすぎて起きた〝小山田いじめ〟との闘いだし、ちゃんと闘っているので、べつに神真都Qの諸君をわざわざ絶賛しなくともよいわけだ。少なくとも、何もしとらんテメーラよりは神真都Qのほうが一億倍偉いんだぞ、ということを指摘しておけば充分だろう。
 神真都Qの諸君の他にも、マトモなのかやっぱり〝Jアノン〟チックな人たちなのか、よく知らんのだけども、マスク非着用で飛行機に乗ろうとして揉め、辞職勧告決議案とか可決されちゃってる広島県呉市議の谷本誠一氏とか、議場でマスク着用を拒否してやっぱり辞職勧告を決議され、Fラン市民に選挙で落とされてしまった元大分県臼杵市議の若林純一氏とか、とりあえず立派な人たちは他にもいる。谷本氏は65歳、若林氏は62歳で、やっぱり老人のほうが正しい頑固さを貫いてるよな、こういう人たちを「老害!」とか罵倒する連中が「うっせぇわ」とか愛聴してるんでしょうな、という気持ちになる。
 まったく〝Jアノン〟的ではない普通の立派な会社だが、時短要請を拒否してスターリニスト小池にいじめられている飲食チェーンのグローバルダイニング社も裁判闘争を頑張っている。立派だ。

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第十二回外山恒一賞

樋田毅『彼は早稲田で死んだ』


理由

 私の著作とか、絓秀実氏や千坂恭二氏の著作はまあ別格として、樋田毅氏の『彼は早稲田で死んだ 大学構内リンチ殺人事件の永遠』は、今世紀に入ってから出た中では最も重要な本である。つべこべ云わずに読め、としか云いようがない。
 短い書評も書いたように、72年に早稲田大学で起きた、自治会による一般学生(川口大三郎)殺害事件と、それを機におよそ1年間にわたって展開された革マル派主導自治会追放運動(第3次早大闘争)について詳述した、唯一の著作が、事件50周年の日にちょうど書店の店頭に並ぶように、ついに刊行された。著者は、闘争のほぼ中心人物と云ってよかろう立場の人で、その過程で革マル派に捕まってリンチを受けた経験も持つ。
 日本の〝68年〟に関連して特大に重要なのは、ポリコレ監視社会の起点である70年7月7日の「華青闘告発」と、諸党派による掌握自治会を通じた恐怖支配によってノンセクト学生運動が事実上不可能な状況に追いこまれ、つまり現在の〝何にもない大学〟状況の起点となる72年11月8日の「川口事件」の2つで、この2つの事件の重大性に比べたら、〝よど号〟だの〝三島事件〟だの〝連合赤軍〟だの、〝東大安田講堂〟でさえ、どーでもいい昔話の類にすぎない。
 華青闘告発については、絓氏の一連の著作を通してようやく一定広く認知されてきたが、川口事件については(もちろん絓氏も繰り返し注意を促してはいるのだが)なおほとんど知られないままで、「教養強化合宿」でもイマドキのモノを知らん学生たちには私が口頭で詳しく説明する他なかった。
 とはいえ私は著者・樋田氏のスタンスにはかなり懐疑的である。苛酷な闘争を担った樋田氏ら当時の早大生たちには尊敬の念をどれだけ表明しても足りないぐらいではあるが、〝自治会〟なるもののそもそもの反革命性を暴露した全共闘運動の後に、いくら革マル派による不正選挙で選出されたのとは異なる、正当に選出されたものであるとしても、〝自治会〟を再建してそれに依拠しようという運動は、端的に全共闘運動の到達点からの後退であり、敗北は必然的であったと云える。樋田氏が批判的に描いている、革マル派の暴力に暴力で対抗しようとした「早大行動委員会」の学生たちのほうに〝全共闘以後〟の思想的正統性はあったはずだし、これを機にぜひ、今度は早大行動委を担った部分による回想記が世に出ることを願う。

 ※ ん? ずっと勘違いしてたがよく考えたら昨年11月に出た本なんで、〝50周年〟ではないな。しかし事件の起きた〝11月8日〟のタイミングで書店に並ぶように刊行された印象はあった。

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