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【小説】灰色の海に揺蕩う⑨

 怒鳴り過ぎて、泣き過ぎて頭が痛い。
 目覚めは最悪の気分で、乾いた涙が固まって瞼が開かない。
 なんとか起き上がった布団も敷いていない床の上。
 朝の光が差し込むアパートの部屋の中は、がらんとしていて澄華一人きりだった。
 昨日、澄華が包丁を自分で片づけるだけの分別を取り戻したのを見届けて、亮とあざみは心配げに帰って行った。
 亮には不安定な家庭が、あざみには陰湿なイジメの問題が降りかかっているというのに、優しすぎて泣けてくる。
 パートから帰って来た母親に、玲との父親の関係を問いただした結果は、怒鳴り合いの大喧嘩に発展した。
「あんたって、お父さんとお母さんにソックリ」
 大人げない捨て台詞を残して、母親は鞄を片手に家を出て行った。
 ふてくされた顔が浮かぶ。
 漁師町でもあるこの町は、酒飲みが多い。
 そのせいか、明け方までやっているスナックや飲み屋には事欠かない。澄華の母親も、その中のどれかで夜を明かしたのだろう。
 或いは玲の父親を呼び出して、隣の市にあるホテルにでも行ったか。
 考えただけで吐きそうになる。
 最低限の身だしなみを整えると、澄華はアパートを後にした。
 トボトボと学校までの道のりを歩く。
 玲に合わせる顔が無い。
 玲が澄華のことを気遣っていてくれたことを知ってしまっただけに、余計に居たたまれない。
 放課後のささやかな避難場所。
 三人だけの空間。
 それさえも失ってしまったら、澄華はどうやってこれから過ごして行けば良いのだろう。
 昨日、反射的に握っていた包丁の柄の感覚を思い出す。
 死ぬほど、憎らしかった。
 自分の母親なのに。
 殺したいほど。
 唇を噛み締める。
 何もかも放り出して、どこかに行ってしまいたい。
 あの児童書の姉弟のように、無鉄砲な冒険の世界に飛び込んで行ければどれだけ素敵か。
 足を引きずるようにして校門を潜る。
 澄華は靴のそこを申し訳程度に拭って、そのまま校舎に上がった。
 どんな処理をしたのか知らないが、玄関の生ゴミの臭いは綺麗に消えていた。
 ゴミの痕跡も。
 それに少しだけホッとしながら、澄華は教室に向かって力なく歩く。
 ――音が聞こえてきたのは、間もなくだった。
 ジョリ、ジョリ。
 ゴリゴリゴリゴリ……。
 何か、堅いものが削られていく音。
 フラッシュバック。
 思い出したのは、美術の時間だった。
 まるで、木でも削っているかのような。
 澄華は教室の入り口で立ち竦んだ。
 肩口まで伸ばした髪を、綺麗に梳いた制服の後ろ姿。少女が、背中を向けて、あざみの席の前にいる。
「――なにしてんの?」
 澄華の問いかけに、セーラー服の襟が揺れた。
 振り返った少女の手には、彫刻刀が握られている。それよりも、澄華が驚いたのは、振り返った少女が。

「サクラさん?」

 ここ最近、欠席をしているサクラトウコが震えながら立っていた。
 どうして、と思ったところで、サクラトウコが昨日も欠席していたことを思い出す。
 玲の言葉。
 ――誰がやったんだろうな。
 そうだ。欠席していれば、教室に戻らなくても良い。正面玄関は昼間、施錠されていない。生徒ならば余計に堂々と、我が物顔で出入り出来た筈だ。
 けれど。
「なんで?」
 サクラトウコと関口あざみの間に、接点など思い浮かばない。
 まさか、あざみの兄のクスリ問題にサクラトウコの親類が関わっているのだろうか。
 思いながら、澄華は可能性が高そうな質問をぶつけて見る。
「タカサキかクラミチに、やれって言われた?」
 澄華の言葉に、サクラトウコが激しく首を振った。
 彫刻刀を握る指先の関節が、白く浮かび上がっている。澄華は昨日の自分を思い出して、だんだんと血の気が引いていく。
「なら、どうして?」
 澄華の問いかけに、サクラトウコがチワワのような、金魚のような目をして言った。
「――い」
「え?」
「ズルい」
 か細い声の意味が分からない。
「なにが?」
 心底、不思議に思って聞き返したところで、わなわなと震えるサクラトウコが彫刻刀を握り直した。
「ハセガワさん、なんで」
「え?」
「なんで、あたしは、助けてくれなかったの」
「は?」
 何を言っているのだろうか。
 あたしは?
 澄華が誰かを助けたというのだろうか。
 いや、助けなかった?
 助ける?
 澄華が思い出したのは、サクラトウコが学校を休み始めたのは、澄華があざみに初めて話しかけた次の日からだったと言うことだった。
 サクラトウコは、澄華に助けを求めていたのだろうか?
 澄華はそれを無視していたのだろうか?
 心当たりが浮かばない。
 何より、澄華に恨みがあるのならどうしてあざみに嫌がらせをしていたのだろう。
 真っ白な顔をしたサクラトウコが、彫刻刀を握り締めている。ペンを握っていた時と同じ、独特の握り方。
 プリントの署名欄に、小さな文字で綴られた名前が浮かぶ。
 サクラトウコ。
 佐倉藤子。
 ――藤子。
 ――フジコ。
「フジコサンって、サクラさんのこと?」
 パッと思い浮かんだ事柄を、そのまま口にする。澄華の言葉に微かに頷いたサクラトウコが、彫刻刀を握り締めたまま、真っ直ぐに澄華に向かって来るのが、やけにゆっくりと見えた。

■■■■■

「結局、どういうことだったの?」
 亮が不思議そうに言うのに、澄華は溜息を吐きながら敷きっぱなしの布団の上に胡座を掻いた。寝間着代わりの擦り切れたジャージに、ヨレヨレのTシャツ姿。
 普段なら、玲の家に集まってダラダラとした放課後を過ごしている時間なのに、今日は澄華の家に全員が集合している。
 亮に、玲に、あざみ。
 狭い1LDKのアパートに、中学生が四人も居座っているせいで、部屋の中には閉息感が漂っている。
「噂だと、スミちゃんは刺されて入院してることになってるんだけど」
「なんだそりゃ、馬鹿じゃないの」
 亮の言葉に反射的に言い返して、澄華は自分のせいかと頭を掻いた。騒ぎの当日から何となく学校を欠席し続けている。
 学校と母親と某かの話をしているらしいが、詳細は知らない。
「アンタのせいで、学校に行かなきゃいけない」
 自分の時間が減らされたことへの文句を呟きながら、教頭やクラス担任と面談をした筈の母親は、その日帰って来なかったからどんな話し合いがなされたのかは不明だ。
 左の掌。
 病院で手当てを施されたそこには、大きな絆創膏が貼られている。
 処方されたのは、痛み止めと塗り薬だった。
 掌が使えない、と言うのは思ったよりも不便で澄華は閉口している。自転車のハンドルも握れない。荷物も持てない。風呂もシャワーもままならない。利き手で無いとは言え、如何に『手』という部位を使って生きているのか今回のことで痛感させられた。
 うっかりと掌を付いた時など、飛び上がるほどに痛い。自然と、左手の扱いが慎重になる。
「――そもそも、玲ちゃんが言ってた通りだったらしいんだよね」
「は?」
 亮が怪訝な顔をする。
「タカサキとクラミチが喧嘩してて、ヤバいって話」
「ああ」
 そんなこともあったな、と亮が呟く傍らで、玲は無表情にじっとしている。
 あざみは興味深そうな顔で、澄華の説明に耳を傾けていた。
 元々の始まりは、SNS上でのタカサキアイとクラミチマイコの意見のすれ違いから始まったらしい。しばらくは当人同士だけの対立が、女子のグループを巻き込んでの喧嘩に発展した。
 『どっちの味方』と、次々に女子生徒たちが意見表明をする中で、煮えきれない態度を取っていたのが佐倉藤子だったらしい。
 優柔不断。
 どっと付かず。
 八方美人。
 そうやって佐倉藤子を責め立てている内に、対立していたグループは再び一つに纏まっていた。なんとも陰湿な形で。
 フジコ、と言うのはグループ内での佐倉藤子のあだ名だったらしい。SNS上での佐倉藤子のメッセージや発信を、片っ端から無視して、それを面白おかしく話題にしているのが他の生徒の耳に入り奇妙な形で噂が広まった。
 タカサキもクラミチも、それを面白く感じて積極的に噂を煽った。
 結果として、佐倉藤子は学校中から『幽霊』扱いされるという憂き目にあっていたらしい。
「えげつねぇ」
 げっそりとした顔で呟く亮に、澄華は頷いた。
 3組のクラスメイトたちは、何となく佐倉藤子へのイジメを察していたものの、それを傍観していたらしい。澄華は全く気付いていなかったのに。
「だから、自分のクラスのことだって言ったじゃん」
 亮がしたり顔で言うのに、澄華は肩を竦めた。
 そのツケならば、掌の怪我という形でもう払っている。
「助けてくれなかった、って言うのは?」
 あざみが訊くのに、澄華は首を振った。
「それがよく分からないんだよね」
 佐倉藤子の言い分は支離滅裂だった。
 彫刻刀を突き出して、澄華の掌を切りつけた途端に、糸が切れるように座り込んで泣き出した。
 ただ、関口さんがズルいズルいと子どもの用に繰り返すばかりで、どうしようもない。
 痺れを切らした澄華は、佐倉藤子を引きずるようにして職員室に連行した。
 泣きじゃくる佐倉藤子と、血塗れの掌の澄華を見て、仰天した教頭の顔は今思い出すだけで滑稽だった。
 澄華は、そのまま病院に搬送されたので、その後がどうなったのかは良く分からない。
「――新しくイジメの対象になりそうだった関口さんに、スミちゃんが話しかけたのが気にくわなかったってことかな?」
 亮が首を傾げて言うのに、澄華は目を細めた。
「気にくわなかった、って言うより」
 悲しくて、絶望して、腹が立っていたのだろう。
 けれど、声に出してしっくりする言葉が見当たらない。
 結局、澄華は黙り込んで布団の上から、フローリングの床に視線を飛ばした。
 白い抉れた跡。
 彫刻刀を握り締めていた佐倉藤子の気持ちが、澄華には少しだけ理解出来るような気がした。
 理解出来るからと言って、助けられるわけでは無いけれど。
「まぁ――関口さんには、トバッチリだったよね。ゴメン」
 澄華が余計な忠告をしなければ、あんな不愉快な目に合うことは無かった筈だ。
 澄華の謝罪に、あざみが軽く瞬きをして言う。
「別に、大丈夫。前も言ったけど、慣れてるし。それより、長谷川さんの方がさ」
「え?」
「大丈夫?」
 本気で心配されている。
 くすぐったさに身を捩りながら、澄華は答えた。
「大丈夫だけど。別に、掌以外に怪我してないし」
「――じゃあ、学校来たら?」
 それまで沈黙していた玲が、出し抜けに言った。
 なんとなく目が合わせられない。
 そんな澄華に構わずに、玲が淡々と言葉を続ける。
「来なよ。スミがいないと、調子狂うし。ココア、買っておくから。関口さんも連れてさ」
 返事をしない澄華に対して、玲は一言だけ「来いよ」と言いおいて腰を上げた。
 アパートの薄っぺらいドアを開いて、玲は一人でさっさと出て行く。
 その後ろ姿を見送りながら、膝を抱えて澄華は呟いた。
「玲ちゃんってさ――体温、低いよね」
「なにそれ」
 おかしそうに亮が言う。
 あざみが真顔で頷いた。
「分かる」
「でしょ?」
「なんか――低いよね」
「低い」
「なに、女子二人で分かりあってんの?」
 亮が不満そうに唇を尖らせながら言って、ふと思い付いたように目を輝かせた。
「つーか、関口さんって呼び方硬いからさ。あーちゃんって呼んで良い? つーか、呼ぶからさ」
「――亮は、体温高いよね」
「ああ、高い。分かる分かる」
「ねぇ、何の話してんの?」
 澄華の言葉に、あざみが頷き、亮が不満そうな顔をする。
 澄華はあざみと視線を見交わして、少しだけ笑った。

続く

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