「本心 / 平野啓一郎」 を読んで感じたこと
バーチャルが浸透した2040年代の日本。自由死、テロ、AI、仮想現実、富豪・売春婦。経験したことのない世界・人の擬似体験ができ、考えたことのないことを考えるきっかけとなった。
自分の中で印象に残ったのは以下の3点。
1.最愛の人の他者性とは?
「最愛の人の他者性」は、最も身近で大切な人であっても完全には理解できないという感覚を指す。
人は他者の心の内まで完全に知ることはできない。特に最愛の人となると感情が深まり、理解したいという気持ちが強くなるが、他者である以上、完全に分かり合うことは不可能。
この「他者性」は「本心」の登場人物たちが愛や死について考える上で重要なテーマになっていた。
2. 藤原がなぜエリート主義をやめたのか?
藤原がエリート主義を捨てた理由には、成功や地位といったものに疑問を感じたからではないか。
エリート主義は、常に自分を他者と比較し、自分が他人よりも優れているという価値観に縛られる側面が強い。しかし、藤原はある種の虚しさや自己の在り方について深く考えるようになり、エリート主義が人間らしい生き方から遠ざけることに気付いたと思う。
3. 自由死を正当化しているのはなぜか?
「自由死」は、自己の選択による死を指し、他人に依存することなく、自らの生と死を決める権利があるという考え。
このテーマは、この小説が問いかける人間の尊厳や自由と結びついている。人生を誰かに管理されるのではなく、最後の選択まで自分の意志で決めることが本当の意味での自由であるという視点なのではないかな。
上記の3点を踏まえ、自分の価値観がアップデートされたと感じる。
「他者性」に関しては、わからないからこそ「相手を尊重すること」がもっと必要だと感じた。夫婦も、友人も、親も、兄弟も、結局は何を考えいているか100%理解できない。だからこれまで以上に対話を通して相手を尊重し、互いの理解を深めていく。
「エリート主義的な考え」は正直新卒で入った大手企業では持っていた。出世のために休みを削り、家族との時間を犠牲にした。けど、本当に大切なものを失い、深く考えるきっかけがあり、変わった。今は”自分らしさ”を大事にできている。
「自由死」については今はまだ何とも言えない。人は「死」に向かって人生を歩んでいるのは確かだが、そのタイミングを自分の意思で決めるべきか、それとも燃え尽きるまで全うすべきか、わからない。
朔也の母は70歳だったが、「自由死を選択するには早すぎる」と言われていた。では、何歳だったら良かったのか。80歳?90歳?100歳?
それは人によって違うし、健康状況やその人の環境によって変わる。だからこそ「本人が満足していれば良い」と言いたいが、20歳や30歳だと、どうだろう。さすがに早すぎるし、周りも納得できないのではないか。
そう考えると、自由死を正当化するのは少し難しい。どう受け入れていいか、今の自分にはわからない。
もうすぐ映画化されるこの作品をこのタイミングで読めて良かった。