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アル中モラ父vs自己愛母と毒妹① 20代から40代で絶縁するまでの私の努力

私は、都内の大学に進学した。我が家ではモラハラでアル中の父が酒に大金を使うので、いつもお金がなく、本当は理系にいきたかったけれど、母親に「妹もいるのだから(お前にばかり金をかけられない)」と言われて、学費の安い文系しか選べなかった。

私にそういうことを言った母は、妹には高校からの指定校推薦で私立の理系大学に大学院まで行かせたのだが。全く、矛盾している。

就職氷河期真っ只中で、大学卒業後もやりたいことがあったけれど諦めて就職した。ここで、決定的に人間関係がうまくいかなくなる現象に見舞われることになる。踏み込まれたくない人に、簡単に踏み込まれてしまうのだ。そして、上司なのをいいことに操られてしまう。嫌だと言えない性格を見抜かれていたのだ。

1年もしないうちに手が震えるようになり、転職し、実家を出て地方に引っ越しをした。しかしそこでも、同僚、上司を含めて、人間関係がうまくいかなかった。とうとうメンタルを病んでしまったが、やめて実家に帰るという選択肢のない私は、仕事を続けるしかなかった。そのころの恋愛では、メンヘラっぷりを発揮していた、と思う。

死んだように働き続けていたが、ある時、いい人と巡り会った。直感で、この人はとてもいい人だ。この人となら、「普通の」結婚ができそうだ。と、ピンときた。

私は、この人と結婚することに注力することにした。メンヘラっぷりは一切出さないようにした。果たして、1年後に婚約、その半年後に結婚をした。28歳の時のことだ。

私の結婚を、両親は喜んでいた(と、私は思っていた)。両親は、私の夫の前では、普通の人として振る舞っていた(元々、他人の前では普通の人を装うのが上手だった。だから、幼い時から私の窮状を誰にも察知されたなかった)。

私は、自分が機能不全家族の出身であること、両親や妹にいい感情を持っていないこと、メンヘラ気質であることを、徹底的に夫やその親族に隠して、墓場まで持って行こう、と決めた。

子供なんて本当は欲しくなかった。毒親育ちは、子供に毒を回してしまう、ということがわかっていたからだ。自分がまともな子育てができるはずない、まともな親になろうとすれば、自分が苦しむことになる。自分がされたことを子供にしないためには、自分がされたことを微に入り細に入り思い出して、自分が同じことをしないようにしなくてはならない、いちいち思い出すのは辛いことだ(ほんとそう)、ということがよーくわかっていたからだ。でも、夫がとてもいい人なので、一人くらいは産んでおいてあげないと申し訳ない、と思い、一人だけ決死の思いで産んだ。

とにかく、一人産むのに、相当な覚悟が必要だった。ゆえに、妊娠するのに4年もかかってしまった。

出産日が近づくと、母親に対する嫌悪感が湧き上がってきた。出産後は、怒りの感情が込み上がってきて、子供を触っても欲しくなかった。

産後は、自宅に戻って夫婦だけで子育てをする予定だったけれど、私の産後の肥立が想像以上に悪く、母に手伝いに来てもらうことになってしまった。

私の母は、自分の発言が相手にとってどんなものになるのか、という視点が完全に欠落している。乳腺炎を防ぐ目的で甘いものや赤身の魚を避けていた私に、「誰々さんは、そういうの食べても平気だった」とか、「昔はこういうのは大丈夫だったのに」とか、どうでもいい話をいちいちされるので、イライラさせられた。

とても嫌だったのだけど、何とか2週間やり過ごした。

その後も、子供を育てる中で、両親に対する嫌悪感は、増していった。

しかし、私は、一般的な親孝行というものをしようとしていた。たまには子供の顔を見せに実家に行く、とか、写真を撮って共有するとか、食べ始めの記念日には招待するとか、子供と一緒に三世代で旅行に行くとか。毒妹夫婦が実家に来るときに、私たちも子供を連れて実家に顔を出す、とか。車で片道2時間の道のりを往復していた。

私は、夫や子供や夫の親族に対して、全力で、普通の家の出身として振る舞っていたのだ。

それに加えて、年老いた両親はかつての勢いを失いつつあり、喧嘩の勢いも弱まっていた。そのこととが、私にとっては「まともな親になってきた」ように見えた(実際は中身は何も変わっていなかったのだが)。そして「昔は色々あったけど平和になってきた。これで私もようやく普通の家の出身になれるかも」と淡い期待を持ってしまった。そんな気持ちもあって、私は普通の家庭のように親と関われるかも、そのほうがいいに違いない、などと思い込み、子供の顔を見せるために実家との往復を繰り返していた。

しかし悲しいかな、機能不全家庭では、当事者が年老いても本質は変わっていない。他人が不在になったときにその本性を表したのだ。

あるとき、夫が不在で、赤ん坊だった子供を連れて実家に行っていた時のことだ。実家には、私と子供、父の3人だけだった。

赤ん坊だった子供が、床に落ちた薬を口に入れてしまった(ように見えた)のだ。私は、慌てて大きな声で「ダメー!!」とか何とか言って、子供を驚かせて口の中のものを吐き出させようとした。

すると、その様子を聞いていた父が、烈火の如く、私をドヤし始めたのだ。

「うるさい!何を大きな声を出しているんだ!」と。子供の前で、かつて母のことをモラハラしていたのと同じセリフで同じ語調で同じ声量で、すでに大人になった私は、自分の子供の前で父にドヤされたのだ。

私は、この時、かなりきつめのフラッシュバックに襲われた。私は、子供が薬を飲んでしまったら大変だ!と必死だっただけなのに、何だと??ふざけんな!お前の酒とギャンブルのせいで家庭は不幸だった!と怒りが湧き起こり、泣き叫びながら、「この家は本当に恐ろしい、昔から何も変わっていないんだ!」と父を責め立てた。

父は、いきなり怒ってすまなかった、子供を危険から守るためだったんだね、と理解を示した、なんてこと、あるはずがなかった。

この結末はこうだ。

日頃から自分には非が一切ないと思い込んでいて、骨の瑞まで男尊女卑が染み付いている父は、

「はぁ????お前は何を言っているんだ???お前はおかしいんじゃないのか???」

と、居直ったのだった。相手をおちょくるような、聞き覚えのある語調だ。

ついさっきのことも、過去のこともなかったことにされ、「お前はおかしいのじゃないか????」と帰結させて居直る父。全部、私のせい。私が悪い、と帰結させる、そのねじ伏せるやり方。

モラハラの父は、この手法で、たびたび母のことも精神的に追い詰めていっていた。その度に母は「頭がおかしくなりそうだー」と大声で泣き叫んでいた。父は子供の私にも、同じ手法で追い詰めることがあった。私は、30歳を過ぎて、親孝行のつもりで戻っていた実家で、たまたま夫のいない隙に改めてその魔の手にかかってしまったのだった。

私は絶望と恐怖で固まってしまった。その時の感情は、子供の時の感情と全く一緒だった。

今思うと、この出来事から、夫に全てをばらし、両親と毒妹とは絶縁の方向に舵を切ることになったのだ。実際に、約12年後に絶縁をした。



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