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的場悠人さん対談Part2「解体できるもの・できないもの」

塔と井戸 ダイアローグ
的場悠人×佐藤悠

Part2 「解体できるもの・できないもの」
2020.11.07.

今回は、的場悠人さんとの対談Part2です。

前回のPart1では、的場さんが一つのことに向き合ってきたことで、得られたことと、失ってしまったことについてお話ししてもらいました。
今回のPart2では、個人が持つ中心性の限界を踏まえ、全ての人間の生に共通することについて考えていきます。

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全体であり、同時により大きな何かの一部である

佐藤:まとちゃんが繰り返しずっと言っているのは、ヨガに対するコミットが他の問題・人間を排除するということだったわけだよね。

的場:そういうことに対する危機感だね。言葉になった瞬間に、それが含まないものが必ずあって。どんなに全体論みたいのを組み立てたように見えたとしても、たとえ「これは世界の全てを網羅した理論だ」みたいな本が書かれたとしても、

佐藤:括弧の中に入ってしまう。

的場:そう。一部になってしまう。それは比喩的に空間的位置でもそうだし、論理的な意味でもそうだし。出版社で働いていて、実感したんだけど、すごく壮大な理論を組み立てたみたいな本が出て、それが出版される前は、「ついにこれが世に出るのか」みたいな期待感があったんだけど、それも一旦出版されてしまえば、本棚の一角にちょこっと収まっているだけになる。

佐藤:そうだよね。

的場:「ホロン」って言葉わかる?

佐藤:ホロン?

的場:「全体であり、同時により大きな何かの一部である」っていう意味。「全部そうだ」というと、言い過ぎだと思われるかもしれないけれど、これに関しては、「全てがホロンである」と言っていいんじゃないかな。細胞も、社会も、言葉も。

佐藤:そうだね。

的場:どんなに決定的なことを言っている人がいたとしても、「それは見方を変えればこうでしょう」と、いくらでも解体できてしまう。脱構築っていうのは、文脈の設定の仕方が無限にあるからできることだよね。文脈が最終決定できないから、脱構築が成り立つ。わかる?今ので。

佐藤:最終決定できないっていうのは、絶対的な唯一解がないってことだよね。

的場:そうそう。言葉をホロンっていう風に考えたら、どんな言葉もある文脈では全体だし、ある文脈では部分になる

佐藤:まとちゃんはそういうことで納得できるの?ヨガっていうのが、いろんな問題を捉えるものでありながら、あくまで<世界>の一部にすぎないっていうことに。

的場:うん。いいんだよ。納得はしてるけど、現実にそれを生きようとすると、いろんな葛藤があるわけだ。

佐藤:そうだね。今日の居酒屋※1みたいなことが起こるわけだ。

 ※1 Part1参照

的場:だから、健全な悩みだとは思っているよ。こういう悩みがなくなったら、本当は「全体かつ一部」なのに、「全体」という側面しか見られなくなる可能性がある。

佐藤:「ヨガをやってないやつはダメなんだ」みたいなことだよね。

的場:そういう教え方になってしまうケースが非常に多いんだよ。

佐藤:それは、そのまま学校にも同じことが言える…

的場:難しいのは、そういう先生だから学びがないというわけではないんだよね。

佐藤:むしろ、それくらいのパーソナリティーで中心性がある先生の方が、人って惹きつけられるんだよね。オウム真理教の話もそれに近いんだろうけど。

的場:そうそう。

佐藤:オウム真理教に入信した人って、早慶出身とか非常に優秀な人が多かった。高度経済成長があって、バブル崩壊があって、何も信じるものがなくなったときに、麻原彰晃の話し方とか雰囲気に惹かれる人が多かったんだと思うんだよね。社会学者の見田宗介に行った(師事した)か、麻原彰晃に行ったか※2って本当に紙一重だったんだと思う。その枠組みの外を意識するところに辿り着いたか、絶対的な存在に惹かれたかは本当に紙一重だと思う。

 ※2 Part1参照

的場:そこは気をつけないとね。もちろん、毎日ヨガをやっていても、中心性だけで生きているわけじゃないと思うんだけどね。俺はできるだけ、ヨガ講師の型にはまらないようにしているから。

佐藤:まとちゃんと出会って、ヨガっていうもののイメージが変わったかな。だけど、難しいよね。自分がやっていることの重要さを考えつつ、その枠組みの外側にいる人を尊重していくっていうのは。

的場:そう。でそれでさ、「じゃあ、枠組みなんて最初から作んなきゃいいじゃん」って言うのは、あまり意味なくない?

佐藤:少し話逸れるけど、ネオリベラリズム※3ってそういう考えから出てきたと思うんだよね。管理社会とか福祉国家が作ってきたレジームが、いろんな人間を縛っているから撤廃するべきだっていう考えになると、経済的なことにしか頼れなくなって、却って縛られるんだよね。労働条件で言えば、週5勤務で、1日8時間労働って制約されている方が、個人の自由を担保することになる。そういうことに法律が言及しなくなって、全てを個々が決めることになったら、むしろ弱い個人は苦しむことになる。

 ※3 ネオリベラリズム:新自由主義。政府による市場経済への介入をなるべ  
    く最小限にすべきという考え。

的場:ほんとうにそうだよね。

何に依存しないと私は生きられないか

佐藤:以前、友人が「ネオリベも否定できない」って言っていたことがあって、その理由がなかなか興味深くてさ。彼は人類学を専攻しているんだけど、人類学の研究をしていると、わけわからないことをやっている人たちに対しても、「その人たちにはその人たちの合理性がある」というスタンスを取らなければいけなくて、あらゆる問題を前にしてもどちらかがおかしいって判断できなくなるって言っていたんだよね。相対主義って言うのかな。

的場:そうそうそう。物事を判断する尺度が多様すぎて、何を良いと言ったらいいかなんて、誰にもわからなくなる。だから、コンテクストの設定は自由なんですよ。無限なんですよ。でも、コンテクストを自由に設定できるのは、言語空間の中の話であって。実際には酸素がないと生きていけないし。

佐藤:たしかにそうだね。

的場:「実際にそれがないと生きていけないもの」を、どういう言葉で言ったらいいかっていうのは問題だけど、ブルーノ・ラトゥールの『地球に降り立つ』(2019、新評論)という本では、”terrestrial=テレストリアル”って言葉が出てきたの。大地っていう意味。globalとかearthって言葉を使うと、「宇宙からみた青い地球」みたいなイメージになっちゃうから、そこを避けたくて著者はこの言葉を使っているみたい。

地球に降り立つ横

佐藤:足元みたいな意味?

的場:”人間が生きることができるゾーン”。それがないと生きられない条件っていうか。そこは解体してはいけないコンテクストみたいな。

佐藤:なるほどね。超大前提ってことだね。

的場:そう。それもポストモダンの、全部のコンテクストが意味なくなっていく「全部が意味ありすぎて、全部意味ない」みたいな考え方だと、なくてはいけないものまで解体してしまうみたいなことが起こる。

佐藤:それが、ポストモダン批判によくある「ポストモダンがネオリベを生んだんだろ」っていう考えは、そういうところから来ていると思う。あらゆる近代的な枠組みを無意味にしたことで、結果的に市場原理が絶対的なものになってしまうっていう。

的場:ほんとそうだよね。それから、この本がいいなと思ったのは、自分がどういう状況の中なら生きられるかを、それぞれで見つけていくしかないっていう話をしていて。最終章で、著者が「私はフランス人で、こんなヨーロッパで生きていきたいと思う」って言っていて※4、「あなたはどうなのか?あなたの自己紹介をお願いします」って言って終わるんだけど。つまり、著者が言いたいことは「自分が何に依存しているか」、言い換えると「何に依存しないと私は生きられないか」を、自分なりにだんだん明確にできていくと、なんて言うんだろな、そんなに軽々しく脱構築なんかできなくなる。めちゃくちゃ難しいけど、「これだけは大事に守っていきましょうよ」っていう共通理解をみんなで作っていくしかなくて。

 ※4 ラトゥールがどういったヨーロッパを理想としているかは、ぜひ著書を
    読んで確かめてみてください。

的場:たぶん今後出てくるのは、気候変動によって地球上で安心して住める場所が少なくなってきた時に、限られた場所や資源を異文化の人たちとどう分け合うかという問題。今まで人間が近所では何語で話してとか、今年何回この祭りしてとか、そういうものを新しく組み直さなきゃいけなくなってくるわけじゃん。新しい人が入ってきたから。この筆者の説によると、アメリカとイギリスはそういう問題に向き合うのがめんどくさいから、パリ協定の離脱とEUの離脱を決めたんだよね。だから、バイデンが大統領になるのは随分大きなことなんだけど。

佐藤:たしかに、ここ5年くらいの世界の流れに待ったをかけることになるかもしれない。

的場:そう。パリ協定でさ、CO2や温室効果ガスの排出量について各国が目標を立てるみたいになったじゃない。だけど、全ての国の目標を集めても全然足りなかった。それで、近代人の理想とする、自由・平等・人権が守られていて、それぞれが好きなことを追求できるような世界を実現できる地球が、もはやないことがわかっちゃったんだよね。それをわかった人たちが、「これをみんなと分かち合うのはやめよう」って言って、(パリ協定やEUを)抜けようとし始めているのが、トランプを支持している人たちだったり、イギリスの人だったりする。そういう人たちが、気候変動懐疑論とかを流しているっていう。それ(気候変動懐疑論の誤り)に人々が気づかないうちに、自分たちが逃げ切れる(死ぬまで過ごせる)と考えているみたいな話で。それを聞くと本当に絶望的な気分になるけど。

佐藤:難しいよね。だけど、自由とか平等という権利が世界で共有されるかと言うと、全然されてないもんね。日本を見たってされてないところばかりだし。一方で、アジアとかアフリカに、そういう理念を押し付けたことで、分断が起きたり、紛争が起きたり、経済格差が生まれたりした歴史もあるわけだよね。つまり、国家とか自由とかっていう西洋近代的な理念を輸出した結果、そういう悲劇が起きた。だから、開発支援という名の下に、人って死んでいくんだよね。俺がSDGsに懐疑的なのは、その頃と同じことをやっているような気がするから。

的場:持続可能に経済開発をする方法みたいになっていくわけだもんね。

佐藤:そう。17の目標はいろんな問題を内包しているって言うんだけど、ほんとかよって思うの。してないだろって(笑)。

的場:そうだね。それでさ、日本の小学生の塾とかで、「SDGsを学ぼう」みたいなことをやっているのを見たことがあるんだけど、「自然を学ぼう」でいいのにって思う。誰かが17に分けた自然を見るんじゃなくて、自分の眼で自然と人を見て、大切にしたいものは何か見極めていくということを、一人ひとりがやらないとね。

<Part3へ続く>

◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇

いかがでしたでしょうか。お話はPart3へと続いていきます。
ぜひ、お楽しみに。

的場 悠人(まとば ゆうと)
1996年、神奈川県逗子市生まれ。日韓W杯が開催された5歳のときにサッカーを始め、17歳までサッカー一筋の生活を送る。心身のパフォーマンスを上げようと探究する過程で、武術や禅など東洋の心身技法に関心を持つ。2015年、筑波大学比較文化学類に入学。大学2年時にインドでヨガを学び、帰国後学業と並行してヨガ講師活動を開始。現在は出版社に勤務しつつ、ヨガの研究や指導を細々と継続中。

執筆・編集:佐藤悠

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