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カラーとモノクロ 1



芸術という言葉にはさまざまな意味がある。各個人の芸術に対するイメージが違うからだ。これは芸術で、あれは芸術ではない、なんて突き詰める必要はないと思う。自分なりに解釈して楽しめばいい。そう思わない人もいるだろうけど、お互いの気持ちを尊重することが大切だと思う。


同じようにこの人は芸術家だ、この人はそうではない、というのも個人の心の中で感じればいいだけのこと。
わざわざ人前で否定しなくてもいい。

そう思いながらも、人間だからさまざまな感情を持つ。行き違いがあり、もつれることもある。

私の住む街には、モノつくりの人がたくさんいる。
見た目だるそうに語る人も、心はアツい。
私はそんなアツい人たちが好きだ。


でも好きだからといって、相手の言い分をすべて正しいと思っているわけではない。むしろだれひとりとして同じ想念ではないから、それぞれがきらっと輝くのである。

ある芸術家に聞くところによると、相手の作品や主義を認めるということは自分の作品と主義を否定することになるのだという。

なぜか訊ねると、アートとは自分なりのイズムを表現する手段なので、自分の作品を是とするからには他者のイズムを肯定することなどできないというのである。それを許してしまうと、自らが信じていることを否定することになる、つまり両方を正しいとは言えないというわけだ。


だから他者の作品を褒めるという行為は嘘にほかならない。嘘でないなら自らのイズムが間違いだと認めることになる。だから作家は他者の作品は褒めない、もしくは褒めたとしたら嘘だと思え、と説明された。


その話を聞いたとき、私は考え込んでしまった。


私は人の手仕事が好きなので、見るものが常に新鮮かつ刺激になり、素晴らしいと思ってしまう。前述の理屈によれば私は嘘つきか、自分の作風を貫けない未熟者であるということになる。

確かに確固たる自分を持っていないかもしれない。けれど全てを初めから否定してしまうと、新しい刺激を取り入れて成長する幅を失ってしまうような気がする。

自分を信じることは勿論大切だ。でも他者からの刺激を受け入れること、他の表現方法を認めることが、そんなにも自分を否定することにつながるのだろうか。

堅固な殻を持つことは偉大な芸術家には必要なのかもしれない。でも私はただの制作者なので、その気持ちには添いかねる。美しい作品を見たときは美しいと言いたいし、素晴らしい作品を見たときは感動を伝えたい。それが私のイズムである。

彼らとの交流はかけがえのない時間であると同時に、アツすぎるが故に深く傷つけられることもあり、たぶん同じように私が傷つけていることもあるのだろうと思う。

ほっとするときも、はっとさせられることもある。新しい作品のヒントになるときも。
そんな日々をここに記します。

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