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カラーとモノクロ 3

「一日のうち、制作に何時間を充てているのか?」と訊かれることがある。
一日に何時間と断言はできません。

私は自宅で制作をしているので、家族に話しかけられたり、電話や来客で中断されることもある。また家事にかかる時間は日々一定ではなく、家族の休日にも影響される。

家族がコミュニケーションを求めているときに「今は制作時間だから」と扉を閉めることは難しい。私の制作物で家族全員を養っているというなら、これは仕事であるから勤務中は家族は干渉しない、というルールを決められるかもしれない。しかし、そうではないのに制作のために家族をないがしろにはできない。いるのに無視をするのは互いの精神衛生上よくない。

「自分の制作時間を確保して、制作以外のことにノータッチになるべきだ」
「本当に極めたいと思うなら、家族にかまっている暇はない。家族もそれを理解するべき。子供が熱を出していても作品を完成させることだけを考えて実行する。そういう事ができないのであればあなたはアーティストとしては失格」などと言う人もいる。

失格で結構です、と言うとあきれられる。
家庭を捨てるなんて思いもよらない、むしろ最後に残るのは家族への気持ちだと思っている。自分がアーティストだなんて思っていないし。

人生で何を一番大切にするか、ということは自分で決めて良い。他人から言われる筋合いではない。

家族に自分を分け与える人は大成しないのだと一部の人たちから言われるが、私が求めているのは自分がやりたいことをすることであって、そういう意味では私の中では成就している。

求めるところがどこにあるのかは人それぞれ違うので、誰かの価値観を押しつけられても受け入れがたい。

大成するとはどういうことなのか。
一般的に考えれば、有名になって美術史などに名前が残ることをいうのだろうか。

「十年間、俺が言うことを頑張って実行すれば美術史に残る作品が作れるようにしてやろう」と言われたことがある。
絵の修行をするという意味である。

先生が「作り直せ」と言ったら翌日には新しい作品を持って行って見てもらうということである。

一日の間に制作して先生に届ける時間を考えると、残りの時間で家族に何がしてやれるだろうか?
私がそれは厳しいと言ったら、寝る時間を減らせば時間は作れると言われた。

つまり美術史に残る作家になるためには寝る時間も家族のために何かをする時間も惜しむということである。それに異論を唱える気はない。だって本当にそうなのだろうから。

でも私は、そこまでして有名になりたいと思っているのだろうか?そんな素振りを見せたのだろうか?ただ好きなことを一生懸命前向きにやってきただけなのに?

五十代の私がここから十年頑張ったところで、美術史に残るような作品が作れるとは思えなかった。それで、申し訳ないけど先生の申し出はお断りした。

先生から言われたものを作るというのはすごくハードで、努力して作っても出来上がったものは自分の作品ではないと思う。作らされた感じになってしまうだろう。

先生は非常に厳しいので、生徒の作品は常にボツだった。確かに完成された思考を持つ人からすれば、幼児が描くようなものだろう。

ただそう思ったとしても、生徒が作った作品にバツを書いたり、使えると思う部分だけをカッターで切り取っていいわけではないと私は思った。そんな一枚でも生徒は必死で作っているのである。それでいいと、それがいいと思っているのである。それを先生の気持ちで一方的に作品としては役に立たないので書いても切ってもいい、というのは間違っている。

それでもいい、自分を世界に残る作家にしてほしい、という人もいるかもしれない。私がくだらない自慰行為のためにチャンスを投げ出したと思う人もいるかもしれない。それでも、私は自分がやりたいこと、自分が大切にしたいことを優先した。

一方で、先生の立場になって考えてみると、私は大変不遜な生徒だろう。指導してやろうというのに、断るんだから。教え甲斐がない。

たいした才能もないのに、なんとかしてやろうと思って言ってくれたのに。
ありがたいことだと思っています。
紆余曲折を経て、現在は自由にさせていただいています。
幼児の落書きみたいな絵でも、私は満足です。
自由に描けるんですから。それは抗いがたい魅力です。

あなたは自分で選べていますか?

時に、人は選びたいものを選ぶことができない渦に巻き込まれます。やりたくないことを自分で選ぶしかない、そんな時もあります。
そんなことでも一生懸命やっているうちに、自分に力がつき、のちに役に立つこともあると思います。

負けないで前を向きましょう。今は無理だとしても、いつか自分のやりたいことをする、と心に思っていましょう。


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