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親に理解を求めないと決めたあとも隠れた毒と戦う

noteに書くと、自分の問題が解決しちゃうんだ★
ということがわかった、過去の問題が解けた今、
私の問題は「今」のことと「これから」のことになった。

なのでここからは、今とこれからに向けて書こうと思う。

隠れ毒親育ちが今抱えてるのは、自分の「自分への否定癖」と、
もうひとつある「他人への心の中での批判癖」だ。

やりたいことを実現していきたい時に
この2つがブレーキになっている気がしている。

「自分への否定癖」というのは、親にグズだの金食い虫だの言われていたのでそれが染みついてしまったということ。
でもこれは、なぜか今はそこまで強く感じていない。
単にそう感じる場面が来ていないだけかもしれないが。

一方で「他人への心の中での批判癖」というもの。
実は、これがどうにも厄介なのだ。

今回はこれを克服したい。

できるのかな。

例えば、芸能人に対してでも友人に対してでも、
「こいつつまんない!」とか「センスないなー」って思うことがある。
無意識だが、相手を見下すというか、自分より下に位置づける。ってことをしている。
もちろんSNSに書き込んだりはしない。思ってしまうというだけ。

でもそれって自分の力で生きていこうと思ったとき、自分の何かを発信しようとしたとき、きちんと自分にブーメランしてくる。

どういうことかというと、自分はもちろん「こいつつまんない!」「センスないなー」って言われたくないし思われたくない。
プライドやら尊厳やらがめちゃめちゃに傷つくから。
少なくとも、いつか批判した芸能人や友人より上にいないといけないと感じる。
つまんなくてセンスない人になってしまうのは嫌だ。

その人たちに勝るために、その人たちより面白いかどうかを気にする気持ちと時間のリソースを割かなきゃいけなくなる。

当然納得がいくものができるまでに犠牲にするものが大きくなっていき、そしてそれが完璧になることはない。

批判が怖く、人の目が気になりすぎる。
いつまでも発信することや自分を発揮することを恐れてしまい「やっぱり私はできない人間なのだ…」という自己否定にも加速がつく。

でもさ、もともとさ、「面白い」とか「センスある」なんて測れるものではないじゃん。
数値化できないようなぼんやりしたものだから、何をもって勝ちなのか自分でもわからない。

「なんとなくだけど、私の方が面白いと思う!どうしよう世界一かも!」
「って凄く思ってたけど…自画自賛・・・恥ずっ!中2病!自意識過剰!」

という頭の悪い無限のループを、現在私は本気で繰り返しているのである。

なんだかわからないようなものと十何年取っ組み合っている。

こんなことを自分の中でやり取りしてることがそもそも無駄と気づくのに、私はとても時間を要してしまった。

そして無駄に気付いた今も、抜け出すカギをつかみ切れていない。

これが「こいつつまんない!」「センスないなー」と心で批判してしまったがために乗り越えなきゃいけない巨大ブーメラン。

でも、どうにかこれもそろそろ克服できそうな気がしている。
あともう少しな感じがあるのだ。

聞きかじった話だが、ある美大の方針で「とにかく作品を完成させよ」というのがあるらしい。
どんなに考えて、どんなに素晴らしい理念のもとに作品を作っても、作者が「完成!」と言わない限りは世に出られない。

批判が恐くても、納得ができず言い訳したい箇所があっても、自信がなくても、それを乗り越え、今できることをやり、とにかく作品を完成させる。
世に出す。という経験を何度もするうちに、発信する恐怖心に慣れ、よりよい作品を作ることに昇華することさえできる。

当たり前なのだが、シンプルに力強く、真理をついている。

私に必要だったのはまさにこれ。

ちょっとつまんなくてもいい。あらゆる恐さに慣れる。

「質より量」ってところのある世の道理に少し不満はあるが、
少なくともそのつまんないやつはその時点で世の中に向けて発信している。
0よりよっぽどましだ。泣

他人を気にせず、他人と比べず、自分が思う「面白い」ことに一心不乱に向き合えばよかっただけ。あと、そもそも「センス」は経験からしか得られない(らしい)。

自分の「面白い」をたくさん集めて発信して、人から「面白い」だの「つまんねー」だの言われながら何度でも何度でも挑戦して発信して経験してセンスを磨くしかないのだ。

他人からの批判が、自分の火種になるなら利用するのもいい。
他人からの批判が、自分の生き方の足を引っ張るなら遮断してもいい。

自分で選べばいい。

火を渡る獅子のごとく。
熱さ・苦しさを駆け抜けよ。

生きるというのは周りを見ることも必要だが、
周囲の情報を一旦遮断して集中する瞬間も必要。

私はまだ、それをやっていなかった。

私が誰かに「つまんない」ということだけでは自分が面白いということの証明にはならない。
誰の上にも立っていないし、もともと誰かに勝ちたいと思うこと自体、本当に無意味なことだった。

批判で誰かの尊厳を奪うことはできても、
自分が尊厳を得ることはできない。

それどころか、居もしない価値ある自分を演出することに苦しみ、
できない自分に言い訳をして自分を恥じ、自己否定をし、
できないこともあるの真っ当な自分の価値を下げ、
できることもある素晴らしい自分を無意味にしてしまう。

これでは生きるのが楽しいとは到底思えない。
生きる力が湧いてこない。

たとえば、この他人への批判がさらに「ブス(美醜)」「デブ(体型)」「バカ(知能)」「ダメ人間(存在)」「暗い(性質)」「ババア(年齢)」とかにまで及んでしまうと、自分がこれをすべて克服した人間でいないといけない強迫観念がいつか自分を襲ってくる。

誰かにブスって言ったからには、自分は美人でいなきゃいけない。
誰かにデブって言ったからには、自分はスリムじゃなきゃいけない。
誰かにバカって言ったからには、自分は頭良くなきゃいけない。
誰かにダメ人間って言ったからには、自分は素晴らし人間じゃなきゃいけない。
誰かに暗いって言ったからには、自分は明るい人じゃなきゃいけない。
誰かにババアって言ったからには、自分は若くなきゃいけない。

こんなの全部、苦しい。完璧に克服できる人はいない。
そもそも全部、測れるものじゃない。比べようがない。上も下もない。
ちょっとくらいブスだってバカだってダメだっていい。

でもね もしね、もしよ?
自分を思い切り正当化して、こんなことで苦しむ原因を探すとして、、

これが、親に尊厳をあまり与えられていない子供が、どうにか自分に価値を持ちたいがために他人を下に見ることで自分のプライドや尊厳を保つ自衛方法なのだとしたら…

と思うと、隠れ毒親の罪は重すぎる。

苦しみが長引きすぎる。毒を抜くのにも時間がかかる!
何してくれてんだ!こちとらもうアラフォーだぞ。

子供には尊厳を与えて接しなきゃいけないのはこういうことだったんだ。
誰かの尊厳を奪わせて自分を傷つけ続けさせてはいけない。

と、100%親のせいにするのはここまでにして。


私の戦いが終わるのは、今準備していることを実現させた後。

もう少しだけ先のことみたいだ。

でも、もうすぐそこまできている。

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