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3.噓つきは「真実」の始まり

3.噓つきは「真実」の始まり
 
訴訟やらなにやら難しい事を言っても、最後は子どものために家庭裁判所が公正明大な判断をしてくれる。そう思う人が大多数だろう。しかしながら、日本の家庭裁判所の現実と言うのは大多数の人が考えるものとは完全に違うものである。子どもが片方の親に一方的に拉致・誘拐され訴訟となった時に「司法の闇」と言う事をイヤと言う程思い知ることになる。
 
日本弁護士連合会(JFBA)研究所が出版した書籍の序文に「親権を争う離婚訴訟に於いて弁護士の間で共通のコンセンサスがある」とし、その第一歩:クライアントと一緒に子どもを保護する事です。と書かれている。連れ去れとか誘拐しろといった直接表現ではないが、この「保護」が実際は何を意味するのか。誘拐指南以外のなにものでもない。第三者による誘拐(身代金目的誘拐)であれば、警察に通報後、直ちに捜査が開始され子どもを取り戻すためにあらゆる機関が協力する。そして逮捕・起訴された被告人が「正当な取引」などと言っても裁判官は当然に退ける。ところが誘拐・拉致実行者が実親であれば、裁判所はいとも簡単に誘拐・拉致実行犯に親権・監護権を与えてしまう。「継続性の原則」と言うものだ。実はこの原則は法に明記されたものでも社会的合意を得たものでもなく、裁判所が単に法廷慣行の中で採用しているに過ぎないものである。裁判所としても親権・監護権が争いになった時にどちらに親権を委ねるかを決める事には大きな困難を伴う。そしてどちらかに「優劣」があるとは限らない。そこで今の環境を変えるのは子どもに負担があるとかいう理屈で「子どもを奪った」方に親権を委ねれば手っ取り早いという論法でしかない。公正中立とされる裁判官が実は拉致・誘拐指南弁護士と結託するのであるが、裁判官としてもこの「継続性の原則」には別のメリットもある。裁判官と弁護士は同じ法曹資格であり(検事も)、多くの裁判官は職を辞した後に弁護士となる。いわゆるヤメ判と言われるものだ。実子誘拐ビジネスは我が国では日常茶飯事として浸透しており、弁護士業界としても大きな「収入源」となっている。何も知らない人ならば、それを「妄想」と言うかも知れない。しかし妄想ではなくこれが現実なのだ。
 
裁判は裁判官次第の当たりハズレのクジなどとも揶揄されるが、中には当たりの裁判官と言うのはいるのであろうか。確かに「いた」のではある。各種メディアにも取り上げられたが、千葉家裁松戸支部で2016年(平成28年)3月29日に出された「フレンドリーペアレント判決」である。子どもとの面会をより多く他方の親に認めた別居親側に親権・監護権を認め、当時同居していた親は直ちに子どもを引き渡すように命じた判決だ。ただ、制度上一回の裁判では終わらない。この事件は同居親側が控訴し、2017年(平成29年1月26日東京高等裁判所は原審を破棄し、これまで通り拉致・誘拐親に親権を認めてしまった。そして我が国は一層の無法の国となり果てたのだ。
 
子どもの拉致・誘拐は、社会の根幹である家族の問題であり言い換えれば誰もが常に直面する可能性のある事でなければならない。しかしながら日本では多くの人々は無関心で、自らが被害者となって初めて気付くのだ。松戸でのフレンドリーペアレント判決は、確かに裁判官の良心という極めて当然の判断であろうが、高裁によって破棄された事で他の裁判にも影響する負の側面まで生じてしまっている。これまでにも離婚訴訟や親権・監護権、面会交流などを争う審判に於いて、他方の親のDVや虐待を殊更に主張する輩は数多くいたが、松戸での判決は拉致・誘拐側が主張した「子どもの連れ去り(拉致・誘拐)ではなく緊急避難」「破綻の原因は(別居親側の)、肉体的、精神的、経済的、性的暴力」と言うものを明確に否定している。夫婦間の暴力と言ったものは直接証拠がない事も多く、判決理由などで「なかった」とまで明確に言及する事は多くない。この事件では少なくとも裁判官が別居親側に拠る暴力などが「完全になかった」との確信があるからこそ、そこまでの言及に至ったのだろう。そしてこの判決は、この無法社会の中で子どもを奪われ絶望を見た当事者には一筋の光となったワケだが、一方で実子誘拐ビジネスという「産業」からは激しい非難を浴びた。画期的な判決故に、当事者であった別居親は注目を集めることになるが市井の生活を営む一個人に過ぎない。それが既得の権益を守ろうとする実子誘拐ビジネス産業界から激しい個人攻撃で袋叩きとなっている。その個人攻撃の一例であるが、NPO法人「全日本女性シェルターネットワーク」主催のワークショップに於いて、参加者に対して同事件の別居親が(判決で明確に否定された)暴力親であると示唆する文書を配布し、東京高等裁判所に松戸での判決を破棄する事を求める請願書への署名を求めたと言うものがある。このNPO法人、いわゆるDVシェルターを運営する団体である。確かに深刻なDVからの避難は重要であろうが、子どもを拉致・誘拐し、「他方の親への報復感情の充足」という隠れ蓑としても有効に機能する。法人側からしても「客」の増加は望むところではあろうが、フレンドリーペアレント判決が当たり前となって報復感情の充足が果たせない当然の世の中では「客足」が衰える。配布文書に於いて「DVシェルターに避難と言う事は、それだけでDVが有ったと言う確固たる証拠」などと言う論理を展開し、松戸での当事者(別居親側)がDV加害者であると言う誤った印象操作を行い、またメディアに於いても当該法人へのインタビューという形式で「当事者の暴力」を発信するに至った。
 
実はこの件は国会(正確には衆院予算委と法務委)でも取り上げられている。その際に内閣(政府・行政)側の代表として答弁に立ったのは当時の内閣府特命担当大臣(男女共同参画担当)であった加藤勝信である。通常、国会やその委員会に於いて民間の団体(法人、企業、個人等)の行為について、明確に違法・犯罪と思われるケースを除けば、なんら言及する事は難しい。省庁再編でいわゆる大臣ポストが減り、その穴埋めとも揶揄される軽量大臣であろうが、加藤勝信はこれらNPO法人の斯様な手口を委員会答弁で「望ましくない」とハッキリ述べている。国会に於ける答弁と言うのは非常に重いものである(安部晋三元首相は少なくともその国会で118回嘘をついたのであるが)。しかし悲しいことに法的な根拠はない。と言うか非常事態に際し立法を待つ猶予もないような場合には、先に政府が見解を示し、国民の信を問うしかない。ただし、これが逆に政府の意向に沿わないものを恣意的に排除されないように我が国の憲法第51条では国会発言および討論や評決に責任を問われないという条文がある。これは極端な話だが「現在のこの問題について政府は何も出来ないバカどもだ」という質疑に対し「国家の最高機密を暴露した」などとして処罰などが出来なくする規定であり「無責任な事を言って良い」という意味では当然ない。国民の直接選挙という審判を国会議員は受けるのだし、いくら選良、選挙は人気投票などと言っても過去に不適切発言などが要因となって落選した例はいくらでもある。この特権は、あくまで国会議員の国会における討論・発言の自由を保障する趣旨に出たものであり、議院外での発言については、その内容によっては刑事上、民事上の責任を負わなければならなくなる。
 
しかしながら、裁判官や弁護士が責任を問われることは一切ない。要はやりたい放題なのである。ヘンな話だが無罪を主張する事件で有罪判決が出れば、あるいは有罪を求刑された事件で無罪判決がでれば、検察もしくは弁護側、更には裁判官、いずれかが誤っている事が明らかだが、それで処分された事例はない。まあ、裁判の原則などは私にとってはどうでもいい。
 
とにかく言えることは「ウソツキはドロボーの始まり」ではない。ウソツキは人権派標榜弁護士・木村真実の始まり、そして正体である事をイヤと言う程思い知らされるのである。「ウソも繰り返せば真実になる」のではなく、ウソを言うから(木村)真実なのだ。

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