20.「ウソツキ」弁護士の名前が、なぜか「真実」という矛盾

20.「ウソツキ」弁護士の名前が、なぜか「真実」という矛盾
 
子どもが生まれた際に両親から子どもへ贈られる最初のプレゼント。そしてそれは余程特殊な事情がない限り一生のものになる。それは名前だ。
 
我が国には漢字文化が根付いている。漢字は1文字ごとに様々な意味を包括するが人名となればその大半が1~3文字である。たったそれだけの文字数の中で両親が様々に意味や願いを込めながら命名を行う。
 
かつて高校野球の強豪として知られる早稲田大学系属早稲田実業学校高等部が1年生エースを擁して優勝戦に進出し、にわかに起きた「大ちゃんフィーバー」を覚えている人もいるだろう。当時このブームにあやかって子どもの名前に命名するという現象が起きるほどで、当時にその名を得た投手が後にプロ入りし本家を凌ぐ活躍をしたなんて事もあるそうだが、そこまでの才能を名前だけで得られるかと言う話ではないだろう。
 
さて、相手方の代理人であった弁護士の名は木村真実という。読みは「まさみ」だそうだが、その由来は同人の母親が白鳥事件の支援活動をやっており、その際に述べられた「真実は一つ」という言葉に感動して命名したと木村真実本人が語っている。この事は自由法曹団東京支部の公式HPでも確認ができる(http://www.jlaf-tokyo.jp/danin_katsudo/shinnyu/160408shoukai.html)。
 
この輩の正体を知る私としては思わず吹き出してしまわずにはいられないが、母親が白鳥事件の支援、つまりは暴力で政府転覆を企図する事を是認する輩であり木村真実も自由法曹団、したがって同じ穴の狢とも言うべきか、政府の行政機関である公安調査庁から監視対象とされる団体の構成員である。そうした意味からも親の意向通りの思想を持つのであろう。公安調査庁そのものは、終戦後に廃止された特別高等警察の流れを汲む組織でもあり、創設時の参画者も特別高等警察からのベテランが多かった事からも読み取ることが可能だ。
 
木村真実。
 
「名は体を表す」と言うことわざがある。辞書を調べると、人や物の名はその実態や性質を示す。名と実は相応じる。と言う事が書かれている。しかしながらこの木村真実、これまでの私のブログを読んでいただけたら既にお分かりだろうが、それこそ事実(真実と書くとあまりにもお粗末)とかけ離れたデタラメな主張を平気で創作する非常に厄介な性質を持っているのだ。
 
類義語とすれば「看板に偽りなし」などがある。一方で対義語としては「看板倒れ」や「名前負け」と言うのがある。四字熟語で表せば「名詮自性」。こちらはあまり使われる言葉ではないが、読みは「みょうせんじしょう」。読み下せば「名は自ずと性質を詮らかにする」で、名は体を表すとほぼ同じ意味だ。
 
対義語としての四字熟語は「羊頭狗肉」、看板に羊の頭を掲げておきながら、狗肉つまり犬の肉を売っている事を表す。要は人を騙す輩だと言う事だ。
 
医療過誤事件、医師が全力で医療に尽力しても、人が関わる事ゆえに常に万全の体制を成し得なかったとなることは残念ながら往々にしてある。人の生命や健康に関わる事ゆえに過誤はもちろんあってはならないが、木村真実はこの事件を担当した駆け出しの頃に医療過誤をダシにカネを奪い取るという方法を学んだらしい。私に関しても「放火した」などと嘘をついてまでカネのために子どもたちから母親を奪った悪の張本人である。この輩は自称・子どもの人権派を名乗っているがウソツキ弁護士のどこが人権派などと言われるものなのであろうか。
 
世の中には「再審無罪事件」という事も起きている。結果から言えば原審もしくは再審のいずれかが「間違いであった」と言う事だ。もちろん裁判に於いて間違いは許されるものではない。しかし世の中に「医療過誤」という言葉はあっても「弁護過誤」という言葉はない。どうしてだろうか。
 
簡単に言うと再審無罪事件では、原審の有罪は当事者がキチンと無罪の立証を出来なかったからだとされる。当時の裁判官や弁護士が処分される事もない。
 
しかし考えて見れば分かるが素人の「被疑者・被告」が全てに於いて立証する事なんて出来るのであろうか。だからこそ弁護人がいて、我が国の憲法でも弁護人なしでの裁判が出来ない事が明確に示されている。
 
ところが事件と言うのは小説ではない。全く当事者の事を知らない弁護人が細かい事実経過や事情を短時間で把握できるとは限らないのだ。それはいくらでもあるような些末な事件だけでなく、死刑を含む厳罰が予想される事件でも同様だ(だからこそ死刑判決事件でも再審無罪は起きている)。
 
ここは刑事事件についての話ではあるが、民事事件や家事事件では必ずしも弁護士を通さない本人訴訟も可能ではあるが、多くの場合そこまで法律知識がある一般市民が多いとは思えないし、実際の裁判でも相手が本人訴訟だと進行に手を焼くという事が多いとされる。だから出来る事なら弁護士同士でやり取りをする方が合理的でもあろう。まあお金の問題もあって、そこは簡単には言えないにしてもだ。
 
どんなケースでも弁護士に相談すると言う事は「自分ではどうにもできない困った問題が生じている」と言う事だ。そうした際に弁護士側が最も答えに窮する質問は「どうしたらいいのか」だと聞いた事がある。どうするもこうするも採るべき手段や方法と言うのは一つではない。そしてどういった手段や方法が適するのかについては「当事者の意向」や価値観に大きく作用される。
 
弁護士として必要なのは、まず当事者がどういう解決を望むのか、そしてそれが法律上可能なのかどうか(ここは成文法だけでなく社会通念や公序良俗といった部分なども包括する)、そしてそれが可能ならばどのような手続きが適しているのかという事を伝えて実行していく事だ。
 
ヘタな人生相談でもあるまいし「それは困りましたな」などと相槌を打っているようではヤブ医者ならぬヤブ弁護士だ。
 
弁護士への相談は多くが30分5000円(税別)だが、通常はせいぜい長くても1時間。そして一般的にメールや電話ではなく直接の面談だ。メールや電話での初期相談も普通にあるし、それを有料とする法律事務所も少なくないが、事前払いなどのハードルもあるし(そうでないと取り逸れも多発する)、何よりも短い時間で当事者の意向を把握するにしても、メールでは文字だけ、電話では声だけで顔色も何も分かったものではない。更に直接の面談であれば書面や図を指し示しての説明も可能だが、メールや電話だと難しい。
 
もっとも「面談に来てほしい」と言うのは受任につなげるという意味合いもあるだろうし、営業努力、起業方針として否定されるものではないだろうが、斯様な弁護士が親子交流については間接交流と言う名の写真や動画の送付で足りるとする根拠はどこにあるのだろうか。こうした事を故事成語で「矛盾」と言う。
 
私自身、相手方の計略に嵌り子どもの親権、いや親権とか法律上の概念のものではなく「親子関係」と言うものを「親権を相手方としての離婚に応じれば子どもと会わせる」という木村ウソツキ真実の甘言に乗せられ奪われてしまった(木村真実によると「記憶にない」らしいが)。憎んでも憎み足りない悲憤の出来事でもあり当然に許す事など出来るはずもない。そして坊主憎けりゃ袈裟まで憎いとはこの事。真実という文字を見るだけでも「虫唾が走る」がために「事実」と書き換える事を余儀なくされる。
 
ところが国語学で言うところの「事実」と「真実」と言うのは異なるものだ。日本語は海外の他の言語と比較して非常に難しいと言われるが、更に厳密な意味での使い分けに於いては日本語を母国語とするだけでなく語学の研究者レベルでないと容易ではないとまで言われる。それぞれ辞書において事実は「本当にあった事柄、現実に存在する事柄」、真実は「嘘偽りのない事、本当の事」と書かれているが、この説明ではどのような違いがあるかまでは一見すると分かりにくい。
 
木村ウソツキ真実の名前は白鳥事件の「真実は一つ」という言葉に母親が感動してという事らしいと言うのを冒頭に記したが、言語学的に説明するとなるとこれは大きな誤りと言えるのだ。確かに言葉としての意味は似ているが「事実は一つで真実は複数」というのが言語学的な正解なのだ。
 
弁護士業界は平成元年頃の登録者数は16000人。それが平成13年頃、つまり西洋で言う21世紀になった頃は20000人。その後の司法制度改革とやらで現在では40000人を超えている。これは法務隣接職と言われる司法書士よりも多い数である。貸金訴訟など争点が(専門家から見れば)ないような事件で、訴訟額が140万円までのものは簡易裁判所での係争となり弁護士ではない司法書士も認定は必要だが代理人となる事が可能だ。以前は「そんな安い案件、代書屋(弁護士のような資格者が司法書士・行政書士を蔑んで使う言葉)にやらせておけ」だったそうだが、今ではそうした案件も独占しなければ食えないと言うし、実際にその事が弁護士会と司法書士会で係争にもなっている。
 
まあそんな弁護士会の「飯のタネ」が近年では過払い金、離婚という個人案件への執着へとなっている。さらに医療過誤、そして最近ではセクハラ・パワハラと言う。このセクハラ・パワハラを「セ・パ両リーグ」などとNPBに見立てて言うらしいが所詮そのような捉え方なのであろう。
 
確かに近年では「迂闊に冗談も言えなくなった」と言われる。セクハラも(一義的には)男性と女性で捉え方も異なって当然だろうが、それを恫喝の材料として金を取ろうというのは行き過ぎ感を当然に感じる。
 
男性側からしても「どこまでが許容される範囲なのか」と言うのは良くある話だろうが厳格に言えば相手が不快に思う事は今も従前もあってはならない事で、本質的には見逃されてきたと言うのが実情でもある。
 
事実と真実が異なるというのはまさにここの部分だ。男性側が「軽いスキンシップのつもりだった」としても女性側が「非常に不快だ」と感じる事は当然にあり、言うなればどちらも真実として間違ってはいない。しかしその事は当事者の心の中の問題でしかなく、事実と言うのは「男性が女性の体を触った」という事だけだ。
 
つまり事実とは、様々な証拠から誰もが認め得る客観的な事柄であり、真実とはそこに個人的な主観からの判断を包括するものであると言えよう。
 
例えて言うなら通貨制度。現代では信用通貨(管理通貨)制度が殆どの国で採用されているが、素材価値の裏付けのある本位貨幣制度とは異なり、貨幣そのものに何らかの価値があるものではない。また「神の存在」と言ったものだ。米国のバイブルベルトと呼ばれる地域ではキリスト教が根付いており、教義に反する進化論は教えられないか、不十分な内容でしかない。つまり事実を無視した「真実(信じている事)」があるワケだ。
 
言うなればわざわざウソツキ真実などと言わなくても、ウソ八百を並べて信じ込ませることが「真実」という理論も成り立つ。あまりに悍ましい名前だと気づいた時に信じてしまった事(親権を相手方として離婚に応じれば子どもに会わせると言われ騙された事)があまりにも情けない。
 
自称・子どもの人権派 木村「真実」の正体、必ずや暴く。そう、心に誓う今日このごろだ。

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