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あいまいな 自他の境界線

 
私は涙もろい。
20代後半、過去最高に涙もろい。年齢に比例して涙もろくなるのであれば、80代には涙の総量で市民プールができるくらいだと思う。
 
最近泣いたことは?という雑誌インタビューの一端のようなことを考えてみた。
涙もろい私にとって“今日はどうしてもこの気持ちを晴らしたくて、泣きたくて泣く“みたいなことはない。
女性に月に一度訪れる、底のような一週間に これでもかと涙が溢れ出す。
 
<YouTubeで流れてきた一節>
子どもが自分の持っている数少ないお菓子を親にあげる、親目線で見たときになんと愛おしい…と思うそんな一節で涙した。
冷静になって考えたら 幼少期の限られた時間を、その愛に塗れた情景を、いくら皆に見せたいからとて カメラ越しに見ているのはもったいないだろうと思ってしまうけれど。
そんなことを考える間もなく泣いてしまった。
 
<思い通り上手くやりきれない自分へのアンチテーゼ>
今の仕事をし始めて約半年。
職種も業界も初めてのことばかりで、器用でない自分に涙が止まらなかった。
社会人6年目にもなるのに?周りはもっと上手く人生の駒を進めているというのに?自分の進捗を他人と比べて むやみに悲しくなった。
自分で選んだ方向なのだから、あきらめずに頑張りなよ。と誰も言っていないのにそうやって責め立てる声が聞こえてくる気がして、悲しくなった。
 
<重ならない愛情表現>
同じ人間でないことは分かっているはずなのに、好きという気持ちの表現が違うと、理解し合うことはこんなにも難しいのか。
一緒にいるだけで幸福感を感じていたはずなのに、いつから相手に同様の方法を求めるようになってしまったのか。
言葉にしないと伝わらないと思う そんな私はいつか、言葉になんかしなくても分かり合える存在、になれるのであろうか。
悲しいや切ないとは少し違った、空虚や虚無といった類の言葉が似合う感情は、いつか“そんなこと”に変わるのだろうか。
 
 
私は 自他の境界線を適当にひくことが、苦手なのだと知る。
 

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