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目を見るのが怖い

先日初めての瞑想リトリートに行ってきた

そこで一つのワークをした。
「目の前の相手の目を見て、そこで感じる自分の心の動きをよく観察してみて」と。

なんと恐ろしいワークか。
目の前に座るのは初対面の相手。その人の目をジーッと見るなんて恐ろしすぎる。そう思った。

でも仕方ないので見た。
ジーッと見た。
相手も私を見た。
ジーッと見た。
そしてにっこりと微笑んでくれた。

その時私は天にも召される気持ちになった。
救われた。怖くて嬉しくてションベンちびりそうだった。

私もホッとして嬉しくてニッコリと笑った。

でもどうして私はそんなにも人の目を見るのが怖いのだろう?
それは小さい頃の母親の目を思い出すからだ。
母はとても無表情だった。いつも冷たい目をしていた。私に対してニコリと微笑みかけてくれたことは一度もなかった。

先日、別のあるワークショップの中で、1つのyoutube動画を見た。それは海外で撮影されたもので、親と1歳に満たないくらいの赤ちゃんが映っていた。最初、お父さんあるいはお母さんはニコニコと楽しそうに赤ちゃんをあやしたり話しかけたりしている。赤ちゃんもそれに応えてニコニコ笑っている。そこで突如、親が無表情になる。赤ちゃんは動揺してお母さんやお父さんを触ってみたり、声を出してみたり、キョロキョロと目を逸らしたりする。そしてついには泣き出してしまう。

その赤ちゃんの困惑した姿、一生懸命お父さんやお母さんの気を引こうとするいじらしい姿、怖くて怖くて目を逸らしてしまう姿、そんな姿を見て私は涙が込み上げてきた。

「あの赤ちゃんは私だ。」そう思った。

母はいつも無表情で、私に優しい言葉をかけたこともニッコリと笑いかけたことも一度もない。

私は母の無表情の顔がとても怖くて、その顔を見ると心が抉られる。(ちなみに父親はいつも怒っていた。父親にはもう会っていないから分からないけど、今でも怒っている男の人を見るのは異常に怖い)


母が怖い、母の無表情が怖い、母の目を見るのが怖い。

でもそれがなぜなのか、ずっと分からなかった。
今では私にも優しくしてくれる母親を、もう大人になった私が怖がる理由なんてないはずなのに。私はとても困っていた。

そして分かった。
そのyoutubeを見て、そして相手の目をジーッと見るワークをしてみて、最近の一連の出来事がズワ〜ッと繋がった。

小さくて無力な赤ちゃんにとって母親は全てだ。母親に好かれないと生きていけない。母親に嫌われることはすなわち死を意味する。

これは大袈裟な言い回しではない。実際にその昔、孤児に対して身の回りの世話はするけれど、決して話しかけず、情緒的な関わりの一切を禁じて育てるという酷い実験があった。その赤ちゃんたちは一才を迎える前にほとんどが亡くなった。生き残った数人も障害を抱えることになった。

それほどに母親の笑顔、情緒的な働きかけというのは赤ちゃんにとってはなくてはならないもので、なければ命を落としてしまうほどに重要なものなのだ。

私の幼少期には、その実験ほどではないけれど、母親との情緒的な繋がりが断たれていた。母親は笑顔や優しい声掛けをする能力を持っていなかったし(asdだった)泣いても決して抱っこしてはいけないと信じていた。それはその場から逃げることも戦うこともできない赤ちゃんにとっては恐ろしすぎる場所で、私が生き延びるためにできた唯一のことは絶望して心と身体を凍りつかせ、母親の愛情を求めることを諦めることだけだった。

それはどれほど恐ろしい体験だっただろう。
そんな体験をしていれば、母親の無表情の目を見ることは怖いに決まっている。そこには「お前は生きる価値がない」というメッセージが含まれいている。

もちろん母親はそんなこと思ってない。母親の無表情は特性だし、優しい声がけや抱っこができなかったのは残念なほどに未熟で無知だったからだ。

でもそんなことは小さな私には分かるはずもない。私の身体にはその時の恐怖が深く深く刻み込まれている。

だから今でも人の目を見るのが怖い。
母親はもちろんのこと、他人も怖い。自分の子供以外全員怖い。
今までニコニコ笑っていた人が次の瞬間、冷たい無表情になっているかもしれない。ひとたび冷たい目を見てしまったら、私にはこんな反応が起きる。

「おまえなんか本当は大嫌いだ」
「おまえなんか生きている価値がない」と。

だから私にとって他人の目を直視するのはとても危険なことなのだ。

それに気付かせてくれた今回の旅だった。

こうやって自分の心の中の動きを見ることはとても興味深く発見が多い。しかし苦しくて辛くて疲れることでもある。

でもその気付きのプロセスこそが生きる醍醐味でもあるのだよな。しんどいけど。ほんまにしんどいけど、こうやって生きるしかないのだ。こうやって地道に自分の心を探究して。ほんまに疲れるけど!!!!


ちなみに私と向かい合わせで座って私の目を見てくれた方は、とっても優しい嘘のない笑顔で私を温めてくれた。その目に私の心はじんわりと癒された不思議な体験だった。「お久しぶりです、またお会いできましたね」そんな気持ちだったかもしれない。その方のお顔はなんと私にそっくりだった。直感を信じて勇気を出して行ったリトリートはやはり行って良かった、行くべき旅だった。直感を信じて行動するのは怖いけれど、もはや私には直感以外に信じるものはない。そんなことも確信できた旅だった。

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