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愛しき人生の作り方 - エーリッヒ・フロム著「愛するということ」を添えて -人生とは織物のようなもの

Introduction

  今回は、映画『愛しき人生のつくり方』を通して、その題名の通り愛しき人生のつくり方について考えようと思う。最近英語の授業でユーリッヒ・フロム著『愛するということ』を読んだのでそれと関連づけながら「愛」についても話をしたいと思う。

映画:愛するということについて

  本作はジャン=ポール・ルーヴが監督を手掛けた作品である。フランスでの題名は『Les Souvenirs』、「souvenir」とは日本語訳すると「記憶・思い出・回想」という意味である。『愛しき人生のつくり方』という邦題は随分と元の訳の意味と離れたもののように思われるが、映画を見終わったとき、この邦題は言い得て妙なものに思われた。それはこの映画にでてくる登場人物が本当に「愛しき人生」をおくっているように感じられたからだ。前に大学の授業でとった講義の小題が「日常の中の小さな幸福」であったことを思い出す。私はこの日常の小さな幸福こそが「愛」であり、人間における幸福の中核にあるもののように思う。では本作で描かれていた愛とは何だったのか?

本作品で描かれた愛①家族愛

 本作で描かれた愛は主に家族愛、兄弟愛、異性愛である。家族愛とはまさしく家族の中で培われる愛であるが、本作の大部分はこの家族愛が占める。祖母マドレーヌと息子ミシェル、孫ロマン、その他の親族たちの間の愛だ。例えば、祖母マドレーヌが家で倒れたことを契機に、ミシェルがマドレーヌを「一時的に」老人ホームにいれることを決断するも、その後、頻繁にミシェルやロマンが様子を見に来きては会話を楽しみ、マドレーヌの孤独を癒そうとしていた。ただこの周辺シーンにはアイロニーが含まれているように感じられた。それはマドレーヌ以外の老人ホーム入居者の様子だ。彼・彼女たちは誰からの訪問も受けず、話しているのはほかの入居者とそこの従業員のみ。その顔は人生に疲れ切ったような様子だ。孤独で、死というものをただ漠然と待っているだけ。そしてそこの従業員の態度にもいささか疑念をいだいた。老人たちを「意志ある人」とみなしてないような態度。これはフランスの希薄化する人間関係に警鐘を鳴らすもののようにも思われる。(フランスに限った話ではないだろうが。)対照的にマドレーヌは家族と話しているとき、非常に生き生きとした表情を浮かべている。まさに高齢者問題の光と影がそこには描写されていた。またロマンの上司ことフィリップのセリフに「スカイプで会話。でも馬鹿げている。抱きしめたい。」といったものがある。SNSが急速に普及し、家族での会話ですらLINEなどですますところすらもある。これは遠距離での連絡を可能にしたものの、人との関係性すらもインスタントなものにしてしまった。電話やメール、SNSを通じた「似非会話」ではなく、生身の声、肌を通じた「真のコミュニケーション」をしない限り、人の孤独は癒されない。そんなひと昔前では当たり前のことだった愛の証明方法をこの映画は気づかせてくれる。

本作で描かれた愛②兄弟愛

  次に兄弟愛について、これはユーリッヒ・フロム著『愛するということ』の中で、「あらゆる他人に対する責任・配慮・尊重・理解(知)のことであり、その人の人生をより深いものにしたいという願望のこと」と言われている。これは「人類全体に対する愛であり、その特徴に排他的なところがまったくない」ということである。(※1)すなわち、ロマンがマドレーヌの好きな画家に対する愛や、ロマンとミシェルがドライブインの店員との間に築いた愛などである。マドレーヌの好きな画家に対しては、嘘にはならない程度で最大限の称賛をおくり、彼に自信をもたせ画家として絵を再び描くきっかけを与えた。そして最後のマドレーヌの葬儀のシーンでも彼は登場し、ロマンに絵をプレゼントする。そしてその絵をロマンは自分の新しい彼女にプレゼントするのだ。人の愛が新たな愛を引き起こし、それが受け継がれていくところを象徴的に表している。ドライブインの店員はただ無表情に、機械的に商品を受け渡すだけのロボットになりつつある(Amazon Goに至っては店員がいない)が、本作ではロマンやミシェルの悩みを聞き、彼らに助言するなどなんとも人間らしい。私たちはすべての人々に対し、排他的な感情を抱くことなく、責任・配慮・尊重・理解(知)を、すなわち愛をもって接することが愛しき人生をつくっていくには必要だと感じられた。

本作で描かれた愛③異性愛

  そして愛の3つめの要素は異性愛である。ユーリッヒ・フロムはその本のなかで異性愛について、「他の人間と融合したい、一つになりたいというつよい願望(※2)」であるとともに、本質的には「意思に基づいた行動であるべきで、自分の全人生を相手の人生に賭けようという決断の行為(※3)」と定義づけられている。本作でも妻と熟年離婚の危機に瀕したミシェルがこんな発言をしている。「彼女を愛している。彼女は俺のすべてだ。俺の情熱だ。」と。これはフロムの考えと非常にリンクしているように思われる。それは異性愛が他の愛と一線を画すのは、契約であり約束であるという点だ。愛する人を裏切ることなく一心にその愛を捧げるということへの約束なのである。そしてそれは強固な意志を必要とする。「俺の情熱」とはなんとも洒落た表現だ。

以上3つの愛がこの映画の中には含まれていた。また本作とフロムの『愛するということ』との間にある、愛についての共通認識について述べておきたい。それは愛とは「与えるもの」だということだ。これは映画のセリフに出てくるし、フロムの中では次のように書かれている。
「愛とは能動的な活動であって、「落ちる」ものではなく、「みずから踏み込む」もの。(※4)」「愛は何よりも与えることであり、もらうことではない。(※5)」「愛で与えるのは自分自身であり、自分の一番大切なもの、自分の生命である。そしてこれは生命の犠牲ではなく、自分のなかに息づくもののありとあらゆる表現を与える。」
愛を与えることを映画のセリフを借りて言い表すなら、自分の情熱を相手に捧げることだと私は思う。それにより、相手の心は豊かになり、生命感が高まる。(愛の感受)そしてそれは返報性をもってして、自分のもとに返ってくる。そうすると自分の心はさらに豊かになり、自分の生命感も高まるのだ。愛が生産的なものだとするフロムの考え方には大賛成だ。そして愛こそが愛しき人生をつくるための最大条件である。では愛だけが重要なのか?

愛しき人生をつくるため、愛以外に必要なもの

  これはひとえに「自分らしく自由に生きる」こと、そして「今を鮮やかな過去」にする過程を踏むことのように思う。これはこの映画の中で学んだことだ。「人生はあっという間だね」というロマンの言葉に顔を曇らせるマドレーヌ。これは非常に面白いシーンだ。私であれば「人生はあっという間だね」というロマンの言葉に対し「そうだね!」と笑顔で応えることだろう。これは何も私やロマンが楽観主義者であるとか一種のニヒリズム的な精神を持つからではない。死というものの認識がまだ遠いもので、いや認識すらもできていないからこその発言・返答である。死というものを僅かばかりでも認識したものにとってみれば、あれもこれも死ぬまでにはやっておきたいという気持ちになるだろうし、黙って死を待つのは嫌だと感じることだろう。そしてマドレーヌは残された時間を自分らしく自由にいきることを選び、過去を回顧する道を選んだのであった。

 まず自分らしく自由に生きるとは、言葉の通りである。マドレーヌで言えば、老人ホームを抜け出し、生まれ故郷であるノルマンディーに向かったことだ。そして彼女は母校である学校を訪れ、小学生とともに同じ授業を受ける。そして児童に書いてもらった自画像に囲まれて死を迎えるのである。現代人にとって自分らしく自由に生きるというのは案外難しいものだ。とんがった生き方はあまり人から良い目でみられない。現にマドレーヌもまた家族に迷惑をかけた。(この点に関しては、ロマンだけでも連絡をとっておけばよかったのにと思う部分もあるのだが。)自分らしく生きるとはただ利己的に、我儘に生きることではない。というのも愛が愛しき人生をつくる最大条件であるからだ。愛をもっていれば他者への配慮を忘れることは決してない。人への配慮や尊敬が前提にあり、その中で自由な生き方をするのがよい。

 また今を鮮やかな過去にする過程を踏むというのは(私の拙い表現で申し訳ないのだが)現実の一瞬一瞬を大切にし、そしてその中でなにか感動体験をするということである。本作の上映に当たり、ジャン=ポール・ルーヴ監督のコメントについてみておこう。(以下インタビュー記事(※6)抜粋)「日本のみなさんに見ていただきたいところは「過去は未来を構築するためのものである」ということです。後はそれぞれで感じてもらえればいいと思います。」
ジャン=ポール・ルーヴ監督によれば「過去」が「未来」を構築するためのものとある。マドレーヌは過去の回顧を人生最後の行動に選んだ。自分がいかにして形成されたのか、自分の所在を過去に求めたのだ。彼女が訪れたのは故郷、ノルマンディー。戦争という辛い経験を経た、苦い思い出の土地は、緑に溢れ、海の青が美しい街となっていた。これがマドレーヌの幼少期の回顧につながったのか、戦争の回顧につながったのか、私はどちらも入り混じった複雑な色合いに「見えた」ように思う。一瞬一瞬の中で経験される思い出は、死にたくなるほど辛い絶望的なものかもしれないし、活力であふれた豊かな希望的なものかもしれない。けれど何より大切なのは、そこに「色」があるかどうかである。「色」のない人生はきっと何も面白くないものだろう。マドレーヌのような回顧をしたとき何も残らないことを実感するだけだからである。そんな人生まっぴらご免である。また「思い出」というテーマに関して、本作では「家」がオマージュになっていたようにも感じた。

本作における「家」

 みなさんは「家」をどのようなものとして捉えているだろうか?きっと雨風を凌ぐための空間という認識しかないだろう。だがそれは違うのだと本作をみていて感じた。家という空間では「記憶」が共有されている。マドレーヌが椅子に座っているとき姿を現したのは幼少期のミシェル、彼は遊びにいきたいと言う。だがそれに対し、現在自分のもとにいるミシェルは自分を老人ホームに入れようとしているのだ。拒むマドレーヌであったが結局老人ホームに入る。案内された部屋は庭の見える綺麗な部屋であったが、その綺麗さの裏に潜む空虚さが物寂しい。雑多な部屋であったとしても、そこには人の「思い」がめぐっている。結局、マドレーヌの家はローン返済のため、売り払われてしまうのだが、みずからが過ごした家(それも何十年と)が無くなるというのは、その思いですらも失ったかのようなアイデンティティの喪失をもたらすのかもしれない。(現に、この後マドレーヌは失踪している。)

現代社会の抱える最大の問題点;孤独化

 先ほども述べたようにスマートフォンやSNSの発達は私たちに「遠くにいる大切な人」との交流を可能にし、その物理的距離感覚を無視できるようになった。しかしながら、それに対し、人々の精神的距離は一瞬縮まったように錯覚させるが、その錯覚の反動により、より人間関係が希薄化しているのは誰の目にも明らかなことだろう。家の話を前項でさせていただいたのでそこに関して述べておくと、最近は固定的な家を持たず、ホテルやシェアハウスを渡り歩く「アドレスホッパー」なる生き方もはやっているらしい。「ミニマリスト」という言葉ももう広く知られるようになったが、彼らは自らの家にある家具や服を最小限のものにしようとする。これらは先ほど述べたことを考慮すると、思い出を削ぎ落していることになる。彼らは清き心を手にしたとしても、その清さは「空虚さ」であるとも感じられるのは私だけだろうか。(生活に、人生にけじめをつけることができる点に関してものを「捨てる」ことは時に有用だとは思う。)

 資本主義社会の発達も、私たちの「孤独化」に密接にリンクしている。「現代人は商品化し、自らの生命力をまるで投資のように感じている。(※7)」というのはフロムの見解だが、これは非常に的をえている。ゆえに「人間関係は、本質的に、疎外されたロボット同士の関係になっており、個々人は集団に密着していることによって、身の安全を確保しようとし、考えも感情も行動も周囲と違わないようにしようと努める。(※8)」といった均質化・個性の喪失が起き、「誰もができるだけほかの人と密着しようと努めるが、それにもかかわらず、誰もが孤独で、孤独を克服できないときに必ずやってくる不安定感・不安感・罪悪感におびえている。(※9)」といったように「孤独化」が進行している。それに対処するかのように仕事や娯楽が画一化され、消費こそ孤独を癒す手段かのように錯覚してしまっている。だが孤独の不安の解消法は、人間同士の一体化、他者との融合、すなわち愛のなかにある。「愛、それは人間の実在の問題に対する答えである(※10)」とフロムは言う。人間は生まれながらにして、本能が支配する明確な世界から、様々な要因が絡み合う不明確で、不安定で、開かれた世界に投げ出されてしまう。フロムの言うように、「確かなのは過去だけで、将来について確かなのは死ぬということだけ(※11)」なのである。ここで生きてくるのがジャン=ポール・ルーヴ監督のコメントである。過去は未来を構築するものなのだ。

愛しき人生(未来)をつくるために - 人生は織物

 畢竟、愛しき人生(未来)をつくるために大切なのは、愛・自分らしく自由に生きる・現実の日々を鮮やかな過去にするという3つの要素であると私は思う。まず愛はいかにして生まれるのかフロムによれば「2人の人間が自分たちの存在の中心と中心で意志を通じ合うとき、すなわちそれぞれが自分の存在の中心において自分自身を経験するとき、はじめて愛が生まれる(※12)。」中心における経験の中にしか人間の現実はなく、そして人間の生もそこにしか育まれることはない。ゆえに愛の基盤もそこにしかない。中心での経験を積むには絶え間ない挑戦が必要である。だからこそ愛は安らぎというよりも、活動であり、成長であり、共同作業なのである。そういう愛しあう関係にある人々がマドレーヌにはいた。マドレーヌは「独り」ではなかった。そこには常に人がいて、愛があった。愛を持つうえで大切なのは信念・と勇気である。愛していると信じる。愛されていると信じる。そして自分には愛される価値が、相手にも愛される価値があることを信じることが大切なのだ。そして信じるには勇気がいる。ニヒリズム的な勇気ではなく、日常の小さな幸せを見つけ出すためにほんの少し自分を能動化する勇気である。そして自分らしく振舞うにも勇気がいる、自由に生きるにも、勇気、そして自己愛(利己主義的なものではなく、人との関係性のなかにおける自分に対する愛情)が必要だ。そしてまた、今を鮮やかな過去として紡いでいくことも大切だ。これは今という一瞬一瞬の現実を必死に生きることでもある。現実での感動体験はその現実に色をつけていく。まさしく人生とは織物のようなものなのかもしれない。そして過去として紡がれる、今という瞬間は、そこで体験した思いに染め上げられ、未来の自分を包む艶やかな布に織なされる。私もマドレーヌのような高齢になったとき、自分を纏う布の生地を辿り、こんなにも素敵な織物になってくれてありがとう。」と思えるよう、日々を大切に、自分に自信をもって自分らしく生き、愛をもって、愛に囲まれて生活していきたいと思う。(fin)

参考文献
※1:『愛するということ』ユーリッヒ・フロム著p77、※2:同書p86、※3:同書p90、※4・※5:同書p43、※7:同書:p131、※8・※9:同書:p132、※10:同書p:22、※11:同書p23、※12:同書p154、※6:https://www.huffingtonpost.jp/2015/12/06/les-souvenirs-interview_n_8731084.html?ec_carp=4208106125036658994



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